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東京都台東区 寛永寺 常憲院 霊廟 (徳川綱吉霊廟)

Kaneiji Joukenin reibyo,Taitoku,Tokyo

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台東区上野桜木1-15 常憲院霊廟奥院 宝塔 重文 近世以前/その他 江戸中期 宝永6(1709) 銅宝塔、石柵付 有徳院宝塔11基、孝恭院宝塔1基、温恭院宝塔1基、天璋院宝塔1基 19300523

台東区上野桜木1-15 常憲院霊廟奥院 唐門 重文 近世以前/その他 江戸中期 宝永6(1709) 銅製一戸平唐門 19300523

台東区上野桜木1-15 常憲院霊廟勅額門及び水盤舎 勅額門 重文 近世以前/神社 江戸中期 宝永6(1709) 四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺 19300523

台東区上野桜木1-15 常憲院霊廟勅額門及び水盤舎 水盤舎 重文 近世以前/神社 江戸中期 宝永6(1709) 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、銅瓦葺 19300523


Mar.19,2017 瀧山幸伸 source movie

                            


Feb.2,2016 柚原君子

徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)

所在地:東京都台東区桜木1−16 寛永寺霊園

どこまでが道でどこまでが校庭の一部か解らない道のような広場に、中学生たちがいっぱいに広がってドリブルやパスをして、クラブ活動中。その中を、道を空けて、どうぞどうぞ!と言ってくれる中学生にお辞儀をしながら、赤い勅額門を目指して入っていきました。植木屋さんが黙々と木を切っていますが人はいません。

勅額門の前には囲いがあってそれ以上は近づけません。奥には天璋院篤姫の墓所の宝塔もあるそうですが、門と石垣に阻まれて背伸びしても見えませんでした。

立て札が立っています。一つは徳川綱吉霊廟勅額門について。

台東区教育委員会の立札をそのまま記します。

『五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63歳で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。

綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。』

湯島聖堂の前身や綱吉の時代のことが書かれているのでしばらく立ち読みしました。

勅額門とは天皇直筆の額を賜(たまわ)った門のことだそうですが、門の上に勅額は上がっていません。

絢爛豪華な門ですが、以後の8代の将軍徳川吉宗以降は倹約のためもあり、大規模な霊廟は建築されていなくて、寛永寺か増上寺かの霊廟に合祀し、宝塔が建立されたにすぎないそうですので貴重な遺産となるのでしょうね。

もう一つの立札はこの奥に墓所のある天璋院篤姫についてです。やはり育委員会の立て札がありますので、そのままを記します。

『天璋院篤姫 墓所(非公開)

天璋院篤姫は天保6年(1835)12月19日、薩摩藩今和泉島津家 島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名 一子<かつこ>・於一<おかつ>)

嘉永6年(1853)、島津本家28代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。その後、安政3年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同年に徳川13代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。

この輿入れの際に、篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか2年後の安政5年(1858)に逝去され、14代将軍には紀州の慶福(よしとみ<のちの家茂公>)が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。)また同年、養父 斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を嘆願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献しています。

明治になると、わずか6歳で徳川家を継いだ16代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治16年11月に49歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。』

余程のことがなければ中は公開されません。公開されたにしても写真はお控えくださいとなることが多いので、ちょっと立ち止まって見えない中がどうなっているのか、ネットを探ってみます。

天璋院篤姫は徳川13代将軍家定の正室です。将軍とその正室の墓所が並ぶことは江戸時代にはあり得ないことだそうですが、天璋院篤姫が亡くなったのは明治16年でそのような習慣に固執することが無くなったためか、新時代ということなのか、夫の横に墓所ができたということです。ちなみに明治10年に和宮が亡くなっていますが、こちらも夫である家茂の横に眠られているそうです。

柿の木とビワの木は背伸びしても見えませんでしたが、政略結婚の多かった昔、それでも死して夫と離されるのはたまらないでしょうから、ご夫婦でお隣同士で眠る事ができて良かったねと思います。

霊廟のまわりの石垣は初期にはなかったそうですが、盗賊が墓荒らしをするようになったために勝海舟によって作られた、とそんな記事もネットに乗っていました。そうなんだ……と、石垣をもう一度見て上野の森の歴史散策を終了しました。

            


Oct.2012 大野木康夫

2011.9.14撮影 

勅額門(重要文化財)

宝永6(1709)年の建築

四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺

     

宝塔

重要文化財指定の宝塔は銅宝塔ですが、附指定の石造宝塔が覗いていました。

  


Jan.2012 川村由幸

  


Mar.2011 瀧山幸伸 source movie

                         


Mar. 2006 瀧山幸伸  source movie

  

    

     

          

        

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