JAPAN GEOGRAPHIC

富山県朝日町 

Asahi town,Toyama

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Apr.8,2022 瀧山幸伸 

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舟川新 春の四重奏 堤防の桜とチューリップと菜の花と山の雪

A camera

                                                                                                    

B camera

                                                                                                    


Apr.17,2019 瀧山幸伸

舟川新 堤防の桜とチューリップと菜の花

Funakawashin

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July 16,2018 瀧山幸伸

     


Aug.2012 瀧山幸伸

舟川新

Funakawashin

農村基盤整備の遺産

集落区画の整備と、浴場などの集落共同施設を日本で初めて設置した。

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忠犬ハチ公

東京、渋谷駅で、待ち合わせの目印として有名な銅像となっている忠犬ハチ公(1923〜1935)にまつわる少し悲しい話についてはご存じの方が多いことでしょう。しかし、ハチ公の飼い主がどのような人であったかについては紹介されることもなく、ほとんど知られていないのではないかと思います。

ハチ公の飼い主であり、朝夕の通勤の際、渋谷駅と自宅との間を一緒に通い、1925年、帰らぬ人となったあともハチ公が渋谷駅で待ち続けたのは、東京帝国大学農学部教授、上野英三郎博士でした。上野先生は、明治28年に帝国大学を卒業したあと、大学院で耕地整理の研究を続け、耕地整理法制定の翌年、明治 33年に講師に任命され、農業土木関係の講義を担当することとなりました。

ここから我が国の大学教育に農業土木学が登場したわけです。水田の区画を大きく、しかも用水路と排水路を完備した効率的なものに改良する工法の研究などをベースとして発展してきた農業土木という学問の世界では、上野先生は、創始者として大変高名な学者となっています。

舟川新集落

さて帝国大学で農業土木学が教科に加えられたちょうどそのころ、ここ富山県においても農業土木に関わる画期的な動きが始められていました。

下新川郡朝日町大字大家庄に現在も舟川新と言う集落がありますが、江戸時代に入ってから開墾された比較的新しい集落で、明治30年当時は黒部川の氾濫の被害を度々受ける、耕土の薄い、しかも排水不良の水田地帯でありました。家屋は散居形態をとり、家々の間を水路が曲がりくねって流れており家々を連絡する道路も十分ではないため、農作業にも生活にも大変不便な地域であったと古い資料には記述されています。

舟川新集落の裕福な地主の後継ぎであった藤井 十三郎と山崎市次郎の両青年は、このような状況では地域の農民の将来はないと、明治30年、ドイツの耕地整理法に範を求めて、舟川新で耕地整理を実施する運動を展開しました。最初は農家の人々の猛烈な反対にあったそうですが、二人は猛暑の中、また吹き荒れる吹雪の中を住民の説得に回り、とうとう構想の立案から1年掛かりで事業の着手に持ち込むことに成功しました。我が国の耕地整理法が制定されたのが明治32年ですから、二人の行動が極めて先進的であったということがご理解いただけると思います。

しかし、耕地整理を全国に先駆けて実施しただけであったら、富山県舟川新の名前は今日のように全国に知られる迄には至らなかったでしょう。

実は、この二人の青年は耕地の区画整理を計画する際に、散在する住宅を移転して集落の中央部に集め、その後に耕地整理を行うという画期的な手法をとったのです。

まず中央に幅2間半(1間は1.82メートル)、延長320間の道路を建設し、その両側に1間の水路を、さらにその両側に2間の集落有地を設け、その外側にそれぞれ1列づつ住宅を並べています。この2本の水路は、冬期間の流雪用水路として、また両側の集落有地は将来の道路拡幅のための余裕として設けられたとのことですから、すばらしい先見の明ということができるでしょう。

4年間ほどで54戸の内47戸の移転を完了(なんと、住民総出の人海戦術による引き家でした)し、耕地整理も、明治32年に制定された耕地整理法に沿って計画を練り直し、明治39年には77ヘクタールの水田全ての工事を完了しています。

この結果、地域の10アール当たりの平均収量は1.86石から2.21石(1石は150kg。平成7年の県平均は506kg、3.37石)に増加し、排水が改良されたことにより裏作ができる水田も劇的に増加したと記録されています。

ま たこの年、集落の中央に共同浴場兼集会場を建設し、住民の世間話の場として、また碁や将棋等の娯楽、種々の会合にも活用されたとのことですが、これらを総合的に見てみますと、現在私達が実施している、農村総合整備事業のコンセプトそのものを今から100年近くも前に実現していたことに気づき本当に驚かされます。

富山県の農業土木の技術はその後も、全国の他の県をリードしつつ積極的に展開され、江戸時代から数多く設けられていた用水の取水口を統合し て巨大な取水ゼキや用水路を建設したり、耕地整理をさらに発展させ農道や用排水路を水田の区画と同時に整備する圃場整備事業という制度ができてからは、全国の10パーセントという大きな予算を占有して富山県中の農地を近代的な働きやすいものに改良した結果、整備率は全国一となりました。

この 間、数々の新しい技術が事業の実施を通じて開発されましたが、代表的なものとしては、これも全国的に知られた「流水客土工法」が挙げられると思います。かつて黒部川流域では、立山連峰の雪融け水を用水として取水していることと、黒部川の氾濫域であるために地下への浸透水量が大きく、常に用水を補給することから、低温障害が発生し生産性は著しく低かったのです。

その改善のためには水田に客土して浸透量を減少させる手法が有効なのですが、これを効率的に実施するために考案されたのが流水客土工法で、良質な土壌のある場所で高圧のジェット水流により泥水を作り、これを水路に流して水田の隅々まで行き渡らせるというものです。

この方法が低温障害の解消に極めて有効であったことから、その後砺波地方でも同様の事業が実施されました。跡地は黒部地方では宮野山運動公園や宇奈月町のキャンプ場土山ランド、砺波地方はゴルフコースになっています。

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資料:富山県政策情報誌「でるくい」July 1996



金山、窪田、舟川新集落の遠景

   

                  

隣の金山集落には今も共同浴場がある

       

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