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富山県南砺市 井波
Inami,Nanto city,Toyama

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伝統的な門前町の街並が木彫りで活性化。木彫りの振興で町おこし

 Nature

 

 

 Water

 

瑞泉寺から湧き出る水

 Flower

   

 Culture

 

瑞泉寺、木彫り

 Facility

   

 Food

   

June 1, 2014 瀧山幸伸 movie

A camera
                                                                                                             

                                                          

B camera
                                                                                                                                                                                                         

                                                 
                                               
                               






July 2013 瀧山幸伸

木彫職人が飾る街並 富山県南砺市井波


■木彫りで活性化した門前町

職人が店先に掲げる看板や飾りは興味深い。有名な所ではザルツブルクのゲトライデ通りだろう。小さな小路の両側に、五線譜の上で踊る音符のような装飾的な鉄細工が並んでいる。さすがモーツァルトやサウンドオブミュージックの舞台だ。
日本で金物職人の街並と言えば、富山の高岡市金屋町を筆頭に挙げたいが、金属の看板や装飾金具が街並を飾っているわけではなく、伝統的な格子の街並が連続している。
それはそれで美しいが、高岡の街並は別の機会に取り上げるとして、同じ富山の南砺市井波は、木彫り職人が作った日本一、いや世界一の彫刻装飾の街並だ。

南砺市は富山県の南端部に位置する。丘に登れば砺波平野の美しい散村が拡がり、城端にも伝統的な雰囲が残る。南の峰の裏側は世界遺産の五箇山、白川郷である。
井波は瑞泉寺の門前町だ。門前の八日町通りには商店の看板、欄間、表札、バス停やベンチ、電話ボックスなど公共施設のストリートファニチャーを含め彼らの芸術作品が街並を埋め尽くしている。
井波の街並は木彫り職人が生み出す芸術で飾られる。鮮やかな作品はもちろん美しいが、時と風雨を受けてモノトーンとなった作品も渋く美しい。日本ならではの刀鍛冶に裏打ちされた職人のノミの切れが冴えるからこそ生み出された芸術だ。
ザルツブルクがモーツァルトだとすると、この街並の主旋律は何だろうか。音楽は洋楽が主流なので、違う作家で例えても日本の街並には違和感が残る。あえて例えるならドビュッシーかムソルグスキーだろうか。
違う芸術分野、例えば絵画で例えると、この街並は南画の世界である。背後には八乙女山ほかの連山が屏風のように聳える。その屏風の主題となる絵が瑞泉寺と門前の街並であり、瑞泉寺の再興も街並の形成も南画の時代。当時のトーンとマナーが今の街並に続く。
街を歩けば彫刻の槌音だけが響き、時間がゆっくりと過ぎて行く。蕪村や大雅が、「のんびり楽しんでくれ」と呼びかけているようでもある。
まずは街並を歩いてみよう。



■街並はここまで美しく楽しくなる


八日町通りは道路幅が広く、瑞泉寺まで直線で続く。街並は一軒ごとに看板も表札もデザインが異なり、照明ポールに飾られた彫刻もおどけて微笑ましく、野外展覧会を巡るように楽しい。
  

商店や工房の木彫り看板や表札、飾りなどはそれぞれの標章であり、力の入った意匠と仕上げに職人の技の競演を見ることができる。

   
   

欄間は約二百種類のノミを駆使し二か月から三か月もの日数をかけて制作される。
  

公共財としてのストリートファニチャーも芸術作品として仕上げられている。バス停の標識、電話ボックス、七福神が飾られた照明灯など、職人の技術のみならず遊び心も光っている。
美的センスの無い公共のストリートファニチャーや看板が全国に氾濫する中、都市景観の美化を意識すればここまで美しくなる。伝統技術を重んじる住民の遺伝子が、職人に公共の仕事を与え育て、その成果が結実した。土地の記憶と伝統産業を活かした街並修景のあり方を根本から考える好例だ。

    

公共の仕事は職人の生活を安定させ、良い芸術作品を生み出すことに活かされる基盤となる。
  

商店街で、「まちを活性化するために街並を飾ろう!」と知恵を絞ったとする。その具体案は往々にして、プラスチック製の桜、派手な幟や照明、はたまたアーケードや門や舗装だったりするのだが、それが美しいとか心地よいとは思えない。
ここはその真反対だ。井波で作られる彫刻は、住宅用の欄間、獅子頭、天神様、衝立、表札をはじめ、商店の看板、バス停や街路灯、電話ボックスに至るまで様々な彫刻品に結実している。それらが一体となって独特な街並の雰囲気が形成されているのだ。
木彫りの伝統は江戸末期の瑞泉寺の再建を起源とする。木彫りを街並の装飾に活かす運動は、その頃から脈々と続くものではなく、最近三十年ほどのことだ。ご多分にもれず井波の伝統工芸である木彫りも戦後細々と続いていた。この町では地域ぐるみで職人を守る工夫をした。職人のために各家が二階に住まいや仕事場を提供し続けたり、表札や欄間の仕事、あるいは公共の仕事を発注し続けたことが功を奏した。現在では井波を中心として250人もの彫刻家が技を競い、その技術の高さと集積は世界一と言っても過言ではないが、公私あわせて産業と伝統技術を維持する努力を行ったがゆえに今日の井波があることを忘れてはならない。

井波は木彫職人の他にも、宮大工、建具師、指物師、ロクロ師、塗師など多くの職人が集う、日本有数の木工職人の町だ。彼らはお互い、技量と信頼関係がしっかりしたチームを組み、全国の寺社や屋台、神輿などの仕事を引き受けている。例として「匠塾」という職人集団をとりあげてみよう。
宮大工の野村克也さんは、加賀藩御用大工の流れをくみ、全国各地の社寺仏閣をはじめ、祭禮の曳山、屋台、神輿などを手掛けている。平成16年には愛媛県大洲市に大工棟梁として大洲城天主の復元工事を完成させて、日本建築学会賞を受賞した腕前だ。
木彫刻師の南部白雲は木彫刻工房の三代目で、神社仏閣の彫刻をはじめ、曳山・屋体・神輿・神具・仏具・欄間の制作まで巾広く活躍している。「職人仕事は体で覚えるもの」との考えのもと、昔ながらの厳しい従弟制度を守り、住み込みの内弟子や20年、30年のベテラン職人で構成される工房だ。
建具師の藤井秀和さんは、現場合わせの精巧な建具を得意とする。昨今は工場で規格寸法の建具を制作するのが主流だが、本来の建具は現場で採寸して組み立てる。建具は年を経るに従い躯体と合わなくなり、隙間や歪みが発生する。それらを見越して製作するのが建具職人の腕だ。神社仏閣や、土蔵、城などにある大きな唐戸や舞羅戸など、風雨を受けても永く耐えられなければならない特種な建具も得意で、数多くの作品が全国に納められている。
家具工芸の荒木寛二さんは、手作り家具を得意とする。文札、テーブル、箪笥をはじめいろいろな家具をその家に合わせてデザインし、銘木などを使って製作する。河井寛次郎や柳宗悦らの民藝運動に加わり人間国宝となった黒田辰秋に師事した。日本伝統工芸展でも活躍している。
ロクロ木地師の田中正夫さんは、特に木を選び、銘木のみで一品制作のお盆や茶道具関係を製作する。危険で作りづらいと言われる尺の盆も難無く作るそうだ。全国伝統的工芸品展に出品した欅盆で伝統的工芸品産業振興会会長賞を受賞している。
金箔師の塚本守利さんは、明治40年から続く金箔工房を営んでいる。工業生産化され粗悪化した金箔製造の世界で、唯一「本物の金箔を作らねばダメだ」との信念のもと、今も本物の金箔である「縁付け金箔」のみを製造する工房だ。工業生産される「断切り金箔」と手間の掛かる「縁付け金箔」との違いが大学等の研究者でも評価され、文化財などの修復に指定されるようになってきたという。
野原利康さんは、多くの木工職人に利用される銘木店の二代目。大工、彫刻、建具、指物と木を使う職人はその都度木の使い方が違うので、多種多様の木材が必要になる。職人は製材の仕方、乾燥など色々な要求をするので、全国の銘木店のネットワークで調達して来る。
一つの仕事を完成する為には、色々な技術を持った専門の職人の力を合わせなければできない。匠塾の職人は、他に、錺(かざり:飾金物)職人の森本清三さん 、鍛冶師の長谷川清さん、鋳物師の梶原敏治さん、刃物師の川野稔・正さん、左官鏝(こて)絵師の石崎勝紀さん、組紐師の坂田憲男さん、京彩色の中島正起さんがチームに参加しているからこそ未来の文化財ができあがるのだ。



翁塚・黒髪庵

瑞泉寺11代住職の浪化上人が芭蕉の遺髪を貰いうけて築いた翁塚があり、黒髪庵の名の起こりでもある。
加賀・能登・越中の三国に勧進状を回して寄進を集め、文化7年(1801年)に創建。茅葺きの芭蕉堂や浪化の句碑もあり、俳句の会や茶会が催され、全国から俳人が訪れる。

 


名水百選の瓜割清水 美しい町には美味しい水がある。
 


■井波の原点 瑞泉寺

かつてお坊さんや神主さんは都市計画の専門家だった。風水と言えばあいまいな理論になってしまうが、堂宇はもちろん門前の街並まで含め地理的に理に叶った場所に必要な機能を配置している。
この寺の立地は誠に素晴らしい。まずは背景の屏風を見てみよう。山並は群青色に濃い緑を加えた地味な配色で、主題を引き立てるにふさわしい。八乙女山は屏風の中でも特に美しい容姿だ。
南画の主体となる寺と街並はその麓に鎮座する。だが、山の頂上の真下ではなく、少し左、東側にオフセットしている。有名な俳優が決して正面から写真を撮らせなかったそうだが、それと同じだろう。この寺は屏風画としてぴったりの場所に配置されているのだ。
門前の街並を形成する八日市通りも、寺の山門や本堂を正面に見ない位置に配置されている。多くの門前町の参道が山門を正面に据え、威厳に満ちている印象を与えるが、ここでは少し左にオフセットしており、街並から堂宇に向かって歩くと本堂の左側だけが見え隠れする。なんとも奥ゆかしく、山門の威圧感が無い。
瑞泉寺は越中一向一揆の中核だった。越中一向一揆は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一揆である。
明徳元年(1390年)、本願寺第5世法主綽如が瑞泉寺を創建し、越中の拠点を築いた。嘉吉2年(1442年)第6世法主巧如の次男如乗が加賀本泉寺を創建し加賀にも本願寺が進出していった。文明13年(1481年)、加賀守護富樫政親に弾圧された一揆衆は瑞泉寺に逃げ込む。越中福光城主石黒光義が瑞泉寺を襲撃しようとしたが逆に討たれ、これを契機に瑞泉寺の勢力が拡大する。長享2年(1488年)に富樫政親も加賀一向一揆に討ち取られ、加賀は第8世法主蓮如の3人の息子が実質統治することになった。
その後内紛があったものの、瑞泉寺は長年にわたって強大な勢力を維持し、能登の畠山、越後の長尾、越中の遊佐と敵対した。戦国末期は上杉謙信と激しく係争したが、元亀3年(1572年)加賀・越中一向一揆は大敗壊滅し、瑞泉寺は佐々成政に焼き払われてしまった。これに勝っていれば日本の歴史は大きく変わっていただろう。


  

山門(県重要文化財)
江戸末期、焼失した瑞泉寺が再建された。井波彫刻は、京都本願寺の彫刻師、前川三四郎を招きその技法を習ったことに由来する。
山門は天明5年(1785年)に建て始められたが、京都本願寺の再建工事が始まったため三四郎は戻り、番匠屋田村七左衛門ら井波大工がその後を引き継ぎ完成した。
山門正面の梁の龍は三四郎によるもの、正面中央の彫刻の多くは井波大工によるものだ。

 

勅使門
門の両脇の「獅子の子落とし」の彫刻は番匠屋田村七左衛門の作である。中国の故事、「獅子は我が子を千尋の谷に落とし、這い上がって来る子供だけを育てる」に倣ったもので、井波彫刻初期の最高傑作といわれている。番匠屋は現在一六代目に続いている。
 


■ 伝統文化と伝統産業の統合

井波は浄土真宗の門前ではあるが、「自力本願」で伝統工芸としての木彫り産業の成功はもちろんのこと、それを活用して日本一の芸術的街並、いや世界に例の無い美しい木彫りの街並に仕立て上げた。
ザルツブルグに勝るとも劣らない、世界遺産候補としての正真性、唯一無二性を具現しているのだが、歴史が比較的浅いのでそれに気が付いている人は少ない。
重要伝統的建造物群保存地区にも指定されておらず、文化財としての街並の更なる進化と産業観光の振興を両立させるべき政策が整えばさらなる飛躍が期待されるだろう。
現在の井波は訪問客もまばらで、歴史と伝統工芸を堪能するには申し分ない。安易な観光客誘致による俗化で門前町の品性が失われるのが心配だが、南無阿弥陀仏の「他力本願」を念仏することが守られていれば、親鸞はそれも良しと言うのだろうか。
実際のところ、朝の凛とした空気の中で行われる瑞泉寺の読経念仏の響きは素晴らしいものである。南無阿弥陀仏を唱えれば直ちに極楽浄土へ往生することが決定し、爾後は念仏と報恩の生活を営むだけで良いという教えは確かにわかりやすく、だからこそ多くの人々に受け入れられたのだろう。




June 2012 川村由幸

名称:井波の町並み
所在地:富山県南砺市井波
訪問日:2012.06.05

井波を訪れるのは二度目になります。
彫刻の槌音だけが響く静かな町並は何も変わっていません。
写生の授業であろう小学生が道に座り込んで熱心に手を動かしていました。
時間がゆっくりと過ぎて行くようでした。

                                                                      




June 2010 川村由幸

                                  

瑞泉寺
                                     




Nov.2004 瀧山幸伸 HD video1 HD video2

 富山県の井波は日本一の木彫りの町です。伝統工芸としての木彫り産業の成功はもちろんのこと、それを日本一の芸術的街並に仕立て上げた、美しい門前町です。
 瑞泉寺門前の八日町通りには、商店はもちろん、公共施設やストリートファニチャなど至る所に芸術的な木彫りが施され、街並全体が美しい木彫りで埋め尽くされています。このような街並は世界的にも例が無く特筆に価します。

井波の地図 (資料:砺南市)
  

木彫りを活かした街並 街並もここまで美しくなる

 井波彫刻は、住宅用の欄間、獅子頭、天神様、衝立、表札をはじめ、商店の看板、バス停や街路灯、電話ボックスに至るまで様々な木彫刻品に結実しています。
 江戸時代の瑞泉寺再建を起源とする木彫りの伝統を街並形成に活かす運動は、元来から脈々と続くものではなく、戦後、特にこの二,三十年間のことです。現在、井波を中心として約百五十軒三百人もの彫刻家が技を競い、その技術の高さと集積は世界一と言っても過言ではありませんが、この技術者のために各家が二階に住まいや仕事場を提供し続けたりと、産業と伝統技術を維持する努力により今日の井波があることを忘れてはなりません。


瑞泉寺門前八日町通りの街並
    

商店の木彫り看板 匠の技の競演 表札にも意匠が光る
          

公共財としてのストリートファニチャーも芸術作品
         

美的センスの無い公共のストリートファニチャーや看板も、意識すればここまで美しくなります。伝統技術を重んじる住民の遺伝子が、職人に公共の仕事を与え育て、その成果が結実しました。土地の記憶と伝統産業を活かした街並修景のあり方を根本から考える好例です。

公共の仕事は、職人の生活を安定させ、良い芸術作品を生み出すことに活かされます。
    
欄間は、約二百種類のノミを駆使し二ヶ月から三ヶ月もの日数をかけて制作されます。
    
芭蕉堂に続く道路に建つ門の欄間
    



    

名水百選の瓜割清水 美しいい町には美しい水があります

    





瑞泉寺 

瑞泉寺は1390年創設されました。越中一向一揆の拠点となった真宗大谷寺派の大寺院です。



      

瑞泉寺山門
 井波彫刻は瑞泉寺山門の彫刻に始まりました。宝暦、安政年間(1763-1774)、焼失した瑞泉寺を再建するために京都本願寺の彫刻師前川三四郎を招き、井波の大工、番匠屋田村七左衛門らがその技法を習ったことに由来します。
           

瑞泉寺勅使門
 門の両脇の「獅子の子落とし」の彫刻は、中国の「獅子は我が子を千尋の谷に落とし、這い上がって来る子供だけを育てる」という故事に倣ったもので、井波彫刻初期の最高傑作といわれています。大工番匠屋田村七左衛門の作です。番匠屋は現在一六代目が活躍しています。
      



調査 2003年11月、2004年11月

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