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和歌山県和歌山市 旧中筋家住宅

Kyu Nakasujike,Wakayama city,Wakayama

 

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和歌山市祢宜146 旧中筋家住宅(和歌山県和歌山市祢宜) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 "土間及び台所 桁行16.8m、梁間11.3m、東面入母屋造、西面切妻造、本瓦葺、南面及び北面庇付、南面玄関及び北面突出部附属、桟瓦葺座敷部 桁行6.0m、梁間9.1m、寄棟造、西面土間及び台所に接続、桟瓦葺取合部 桁行5.9m、梁間6.0m、一部三階、両下造、南面土間及び台所・北面大広間に接続、東面便所附属、桟瓦葺大広間 桁行12.8m、梁間8.1m、寄棟造、西面下屋附属、桟瓦葺" 板絵図1枚、土塀3棟 19740205

和歌山市祢宜146 旧中筋家住宅(和歌山県和歌山市祢宜) 表門 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 長屋門、桁行30.3m、梁間4.9m、入母屋造、本瓦葺 19740205

和歌山市祢宜146 旧中筋家住宅(和歌山県和歌山市祢宜) 長屋蔵 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 桁行29.7m、梁間4.9m、二階建、南面入母屋造、北面切妻造、東面庇附属、本瓦葺 19740205

和歌山市祢宜146 旧中筋家住宅(和歌山県和歌山市祢宜) 北蔵 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 土蔵造、桁行8.7m、梁間4.8m、二階建、切妻造、南面庇附属、本瓦葺 19740205

和歌山市祢宜146 旧中筋家住宅(和歌山県和歌山市祢宜) 内蔵 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 土蔵造、桁行7.2m、梁間3.3m、二階建、切妻造、南面庇附属、本瓦葺 19740205

和歌山市祢宜146 旧中筋家住宅(和歌山県和歌山市祢宜) 御成門 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 一間薬医門、本瓦葺 19740205


July 2012 大野木康夫 source movie

2012.7.16撮影 所在地 和歌山県和歌山市祢宜148番地大庄屋の屋敷構えを完存した大規模で良貭の農家。

主屋は別棟の大広間を備え、取合部に三階の見晴室をおくなど複雑な形式からなる。

保存もよい。

(国指定文化財等データベースより)

    

表門(重要文化財)江戸末期の建築

長屋門、桁行30.3m、梁間4.9m、入母屋造、本瓦葺

                     

受付

 

主屋(重要文化財)土間及び台所 桁行16.8m、梁間11.3m、東面入母屋造、西面切妻造、本瓦葺、南面及び北面庇付、南面玄関及び北面突出部附属、桟瓦葺

座敷部 桁行6.0m、梁間9.1m、寄棟造、西面土間及び台所に接続、桟瓦葺

取合部 桁行5.9m、梁間6.0m、一部三階、両下造、南面土間及び台所・北面大広間に接続、東面便所附属、桟瓦葺

大広間 桁行12.8m、梁間8.1m、寄棟造、西面下屋附属、桟瓦葺

                                   

主屋内部

                               

座敷から見た庭園

   

内蔵(重要文化財)江戸末期の建築

土蔵造、桁行7.2m、梁間3.3m、二階建、切妻造、南面庇附属、本瓦葺

          

長屋蔵(重要文化財)江戸末期の建築

桁行29.7m、梁間4.9m、二階建、南面入母屋造、北面切妻造、東面庇附属、本瓦葺                 

北蔵(重要文化財)江戸末期の建築

土蔵造、桁行8.7m、梁間4.8m、二階建、切妻造、南面庇附属、本瓦葺

               

御成門(重要文化財)江戸末期の建築

一間薬医門、本瓦葺

            


Nov.2010 酒井英樹

中筋家は和歌山市東郊外の紀の川流域にあり、熊野古道に接している。

中筋家初代は文貞坊という薩摩の人で、天正13年(1585)に根来山の兵火を逃がれて現在地に土着した。

紀州徳川家の初代頼宣の時に地士として名字帯刀を許され、以来大庄屋を務めてきた。

敷地は広大で南北56m、東西38mある。東側及び南側には堀の様な水路がある。

敷地の中央東寄りに大広間を構えた主屋が建ち、南辺東寄りに間口十五間を超す表門、西辺北方に長屋蔵、これと曲折りに西北隅土蔵を配し、これらを土塀でつなぎ、北辺ほぼ中央に御成門を開く。

土塀は鬼門にあたる東北端を斜めに欠いている。このほか大広間の西側に内蔵があって廊下でつなぐ。

建築時の手板とみられる板絵図が残されており、ここに描かれた平面は現状とほとんど一致する。主屋の建築年代は手法からみて19世紀中ごろの建築と推定されてきたが、平成12年(2000)から10年にわたる解体修理の結果、主屋鬼瓦より「嘉永五年子正月祢宜村瓦屋新兵衛」と書かれたへら書きが発見され、主屋の建築年が嘉永5年(1852)と判明した。

主屋の構成は複雑で、桁行八間半、梁間五間半、西面切妻造、東面入母屋造、本瓦葺の土間・台所部の東側に寄棟造、桟瓦葺で一段低い屋根の座敷部が接続し、土間背後に井戸屋形が突出する。

さらに北方には桁行六間、梁間三間半、寄棟造、桟瓦葺の大広間があって、土間・台所部との間に三階の見晴室をもつ取合部によって連結している。

土間・台所部の正面中央に入母屋造の式台が突き出し、式台を上がると、正面に床の間をもつ取次の間、この上手に次の間があり、座敷へ続く。取次の間の下手には三畳と二畳の小部屋があり、これらの奥には土間に半間通りの張出しをもつ台所、次の間の奥には仏間がある。

上手の座敷部は表側が床の間をもつ九畳、裏側が床の間と付書院をもつ六畳で、表側の座敷と床脇に「お涼み」と呼ぶ簀子台が張り出している。

大広間は二十畳敷で、取合部よりは一段床が高く、西面に床・棚・付書院を設け、東側には入側がつく。

取合部には大広間の入側から続く畳廊下にそって居間二室が設けてあり、二階に小部屋三室があって、三階は十畳間でこの上に寄棟造、桟瓦葺の屋根をあげる。表門は入母屋造、本瓦葺の長屋門で中央二間余りに扉口を構え、東側は土間と居室三室、西側は物置三室にわけてある。この家には

中筋家住宅は、江戸時代末期の大庄屋の屋敷構えをよく残している。広い敷地に建つ建築群の構成が巧みであるうえ、取合部にあがる物見櫓風の三階建の建物も珍しい。

また式台、座敷のほか床・棚・付書院の座敷飾をそなえた大広間をもつなど、接客座敷が非常によく整っている。

一方、部屋数は多いが、台所が土間に半間通り張り出しており、この点がこの地方の小規模な民家と共通する要素も持っている。

  

撮影位置

 

<主屋>

 土間及び台所:桁行16.8m、梁間11.3m、東面入母屋造、西面切妻造り、本瓦葺、南面及び北面庇付、南面玄関及び北面突出部附属、桟瓦葺

 座敷部:桁行6.0m、梁間9.1m、寄棟造、西面土間及び台所に接続、桟瓦葺

 取合部:桁行5.9m、梁間6.0m、一部三階、両下造、南面土間及び台所。北面大広間に接続、東面便所附属、桟瓦葺

 大広間:桁行12.8m、梁間8.1m、寄棟造、西面下屋附属、桟瓦葺

 江戸時代末期[嘉永5年(1852)]

           

<表門>

 長屋門、桁行30.3m、梁間4.9m、入母屋造、本瓦葺

 江戸時代末期[嘉永5年(1852)頃]

     

<御成門>

一間薬医門、本瓦葺

 江戸時代末期[嘉永5年(1852)頃]

   

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