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山口県萩市/山口市/防府市 萩往還

Hagi Oukan,Hagi city/yamaguchi city,Hofu city,Yamaguchi pref.

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Apr.2017 蒲池眞佐子

萩往還

   

 

萩往還は毛利氏が慶長9年(1604)萩築城後、江戸への参勤交代での「御成道(おなりみち)」として開かれました。日本海岸の萩(萩市)と瀬戸内海側の三田尻港(防府市)をほぼ

直線で結び、全長はおよそ53キロメートル。

江戸時代の庶民にとって山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な交通路であり、幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たしました。

萩往還には人馬の往来に必要な一里塚・石畳・茶屋跡・御駕籠建場・通行人を取り締まる口屋跡が残ってます。大部分は国道や県道、公道として現在も利用されていますが、起伏の激しい三間道の中には廃道となったものもありました。

そこで、近年これを保存し、後世に伝えていくために整備が進んでいます。

幕末に維新の志士たちが時代とともに駆け抜けた萩往還。はるか江戸につながるこの道を武士や庶民、そして幕末の志士たちはどのような想いで歩いたのでしょう。

(萩往還ホームページより)

萩往還の道の傍らに道祖神が祀られている。

貴布禰神社

          

京都貴船山中の貴船神社を勧請したものと推定され、水事を主催するいわゆる水の神として祈雨、止雨に霊験があった。

毛利氏の萩入場に伴い、長生庵の古寺をお茶屋に充当したため現在の地に遷座された。

(由緒書きより抜粋)

佐々並市

           

国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

佐々並市の集落は萩市街から南東へ約15キロメートル離れ、中国山地の山間を流れる佐々並川の南北両岸に広がる。

慶長9年(1604)、萩へ入府した毛利輝元は、萩藩内の主要街道として、萩と瀬戸内海の

三田尻を結ぶ萩往還(約53キロメートル)を整備した。

佐々並市はこの時設置された宿駅の一つで、慶長年間に藩主が休泊する「御茶屋」を起点に「市(いち)」から「久年(くどし)」にかけて60数軒の民家が立ち並ぶ街並みが成立していたとみられる。

江戸時代の佐々並市は、往還沿いに芽葺の民家が建ち並び、周辺には田畑が広がっていた。

町並みには「御茶屋」とともに、上級藩士などが宿泊する「御客屋」や人馬継立てをおこなう目代所(もくだいしょ)があり、江戸時代を通じて、萩藩の宿場町として維持された。

保存地区内には幕末から近代にかけての芽葺や赤い石州瓦で葺かれた主屋が残り、萩往還に沿ってまとまりある町並みを形成している。

町並みへ下る往還沿いには棚田の石垣が多く残り、山から集落にひかれた水路とともに山間に立地する集落の独特な景観を形成している。

(説明書きより)

佐々並市から萩往還ウォーク

      

落合の石橋

  

登録有形文化財(建造物)

長さ約2.4mの石造刎橋。片持梁の役割を果たす柱状の石材の上に,玄武岩らしき3列の板石がのる。萩近辺に多く見られるこの構造形式は,この地方特有のものとされている。

落合の石橋〜一升谷と石畳

                            

一升谷は、明木市から釿切(ちょうのぎり)まで約3キロメートルの上り道で、昔から長く急な坂道のために、この坂道にとりかかって炒豆を食べはじめると、登りきるまでにちょうど

一升なくなることから、このように呼ばれたといわれている。

一升谷には、雨水によって表面の土が流れるのを防ぐために設けられたと思われる石畳がある。

平らな石を敷きつめた幅約1メートルの石畳は、昭和の始め頃までは道松とともに諸所に見られたという。私たちの祖先が築いた汗の結晶であり、数百年の風雪に耐えて何千何万という人が、いろいろな思いをこめて踏んで行った石畳は、現在は数か所にのこっているのみであるが、萩往還の面影を最もよくとどめている遺跡のひとつである。(説明書きより)

このあたりは現在も携帯電話が不通の区間である。

「彦六の道」分かれ

  

萩開府の際、築城に功績のあった「古泉城の彦六」が通った道で、これより先、2、3軒

の古戦場(古泉城)集落内に遺徳を称える石碑が建設されている。

一升谷

          

町田梅之進自刃の地

    

町田梅之進は、旧山口藩士族で、前原一誠らが新政府に反省を求めようとした萩の乱(1876)に加わりました。明治10年(1876)、西郷隆盛が挙兵した時、(西南戦争)、町田は萩の乱の罪で自宅に禁固中でしたが、新政府の施策を正す為に山口県庁を襲い、九州の西郷軍に合流しようと企てました。しかし、同志の中に密告者がおり、萩警察署は5月30日町田を捕えましたが、その夜、町田党は警察を襲って町田を奪い、山口を目指しました。

その後、県庁軍と町田党は佐々並で相対し、6月1日、県庁軍は町田党を攻撃し、退却させました。そして、一升谷で町田梅之進の本隊と遭い、県庁軍隊長の秋良貞臣は、抜刀して

追撃する町田にピストルで応援しました。町田は右こめかみを撃たれ、同市に支えられてようやくここまで退き、刀を喉に立てて時代しました。(享年30歳)

(説明書きより)

さらに一升谷を進む

    

乳母の茶屋

    

一升谷を抜け、明木市に入ると乳母の茶屋がある。

お茶屋跡地であり、毛利家の乳母をした人が毛利公からお茶屋を下請けされたとの言い伝え

が残っていることからこの名前が付いた。

明木橋を渡り進む

       

吉田松陰歌碑

 

殉難三士の碑を見て進む

         

鹿背隧道のトンネル

     

萩往還の下をトンネルでぬける道が明治中期に作られた。

長さ182メートル、高さ3.9メートル

萩往還は山道を進む

再び萩往還を行く

        

大屋刑場跡

    

大屋涙松から鹿背坂までの旧街道沿いに大屋刑場跡と忰坂(かせがざか)があります。

宝暦9年(1759年)毛利藩医、栗山孝庵が我が国で最初の女性解剖を行ったのがこの大屋刑場跡です。今は竹藪におおわれていて刑死者を供養するための石地蔵が建って

います。また、この一里塚(県指定史跡)は萩市内の唐樋の札場跡から一里のところにあり、現存するものとしては珍しいものです。(説明書きより)

涙松遺跡を通り、夏みかん畑を見ながら進む

                

涙松遺跡は江戸時代、萩城下から山口へ通じる藩主御成街道は、大屋から左へ折れるので城下の見えるのもここが最後です。松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙

を流すと言うので、ここの街道並木を「涙松」と呼んでいます。

幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸へ送られるとき「かえらじと思いさだめし旅なれば、一人ぬるる涙松かな」と詠んで一躍有名になりました。(説明書きより)

唐樋札場跡

     

周防、長門両国の一里塚の起点とされた。また、幕府や藩からの「御触」(法令や規則など)が揚げられた高札が立っていた。


May 21/22 2016 瀧山幸伸 source movie

萩往還は慶長9年(1604)萩城築城後その城下と三田尻(防府)をほぼ直線で結ぶ参勤交代道として開かれた陰陽連絡道で、全長およそ53キロである。昭和56年度以降萩市、旭村、山口市、防府市の四市町村が歴史の道整備事業を実施してきた古道である。

 萩城々下[唐樋]の札場を出発した道は[[悴坂]かせがさか]を経て[[明木]あきらぎ]に向かう。途中涙松、一里塚、刑場跡を通過するが、涙松は安政6年(1859)護送される吉田松陰が

 かへらじと思いさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな

と詠んだ場所といい、悴坂一里塚は唐樋札場から一里に当たる。刑場跡は宝暦9年(1759)藩医栗山孝庵が女屍解剖を行ったところであり、悴坂の峠には駕籠建場が復原されている。[[明木]あきらぎ]から[[佐々並]ささなみ]へは1升谷を経て[[釿切]ちようなぎり]を越え、さらに[[千持]せんもち]だおを越える。従来1升谷には部分的な石畳の存在が知られていたが、今次の事業により土中に埋もれていた石畳が総延長250メートルにわたって連続して検出された。

佐々並から板堂峠を経て山口に向かうが、途中に上長瀬一里塚(唐樋)札場より5里)、逆修石がある。逆修石は『防長地下上申』や『防長風土注進案』によれば一の坂銀山(大内時代より操業)に関わる逆修施行の場であったといい、銀山活動もあって往来がさかんであったことをしのばせる。板堂峠は防長2国の国境にあたり、文化5年(1808)建立の国境の碑がある。

 板堂峠を下った所には一の坂一里塚(唐樋札場より6里)と六間茶屋跡がある。一の坂一里塚は崩壊が著しかったので復旧し、六間茶屋には便益施設が復原修景的に設けられている。

 山口からは鯖山峠を経て宮市にむかい三田尻に至る。宮市には本陣[[兄部]こうべ]家の建物が残る。兄部家は元応元年(1319)周防国合物売商人等長職に補されたという伝えをもつ古い家で、『防長風土注進案』は寛永19年(1642)より「御大名様方御本陣」と記している。

 三田尻には御茶屋、御船倉、燈台が残る。三田尻御茶屋は承応3年(1654)2代藩主毛利綱広が建設し、藩主の参勤交代、封内巡検、公式賓客の旅館にあてた施設で、安永5年(1776)7代重就により、また嘉永4年(1851)13代敬親により改修されており、文久3年(1863)には三条実美ら7卿の宿舎となっている。

 また御船倉は藩主御座船以下関船、早船等大小艦船を囲った場所であり、住吉神社に残る石造燈台は文久3年(1863)に建立されたもので、高さ7メートルに及び海上交通の安全に寄与してきたものである。

 萩往還は参勤交代道として、あるいは近世民衆の交通路として、さらには維新の志士たちの交通路として重要な役割をはたしつづけてきた古道である。今回は歴史の道整備事業が終了した箇所を中心として古道およそ9・2キロと茶屋・本陣・一里塚・船倉・燈台等の関連する交通遺跡について史跡の指定を行い、その保存を図ろうとするものである。(文化庁)

始点 萩城

Hagi castle

萩 武家町

Hagi bukemachi

  

萩 唐樋札場跡

Hagi Karahifudaba ato

           

萩 倅坂一里塚

Kasegasaka ichirizuka

     

萩 道の駅

Michinoeki

    

萩 倅坂と鹿背隧道

Kasegasaka/Kase tunnel

              

萩 明木宿

Akiragi

 

萩 一升谷

Isshodani

       

落合の石橋

Ochiai

佐々並市

Sasanami ichi

萩 上長瀬一里塚

Kaminagase ichirizuka

     

萩 夏木原

Natsukihara

 

萩/山口 国境の碑

Kunizakainohi

    

山口 六軒茶屋跡

Rokkennchaya ato 

                 

防府 宮市本陣兄部家

Hofu Miyaichihonjin koubeke

     

防府 三田尻御茶屋旧境内

Mitajiri Ochaya kyu keidai

終点 防府 三田尻御舟倉跡

Mitajiri ofunegura ato

           

防府 住吉神社の石造燈台

Sumiyoshijinja lighthouse

                 


May 2010

防府 瀧山幸伸 source movie

            

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