Monthly Web Magazine May 2017
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■安徳天皇西市御陵墓 蒲池眞佐子
御陵墓伝説地や御陵墓伝説参考地が全国あちらこちらにある中、山口県下関市の山奥、豊田湖畔にも安徳天皇西市御陵墓があります。
宮内庁管理のこの地はひっそりとしており、すぐに豊田湖を見ることができます。
調べてみたら、近くのバス停の名が「天皇様」、1時間に1本のバスが走っています。
地元の人たちに大事にされているんだろう、と伺えます。行ったときには入口にある大きな桜が満開でした。
とにかく、歴史的なところは交通の便の悪いところが多く、交通機関が頼りの私は調べまくって断念するもしくは徒歩で頑張るの2択が厳しい限りです。
〇説明書きより
屋島で大敗した平家は、瀬戸内海を西に壇ノ浦まで走り、ここを最後の決戦場として戦いにのぞんだが、原氏の急追には、抗しきれず、またもさんざんに敗れ、将兵の多くは海中に没した。
また、先帝(安徳天皇)や三種の神器までもがご入水となった。
ときに元暦2年(1186年)三月二四日のことである。
源義経は朝廷から、ただちに先帝と神器を無事に取り戻すという条件で平家の追討を許されていたので、このご入水は大失策であった。
義経は、ただちに先帝と神器捜索を命じ、神器の一つの御鏡は先帝の御座船で発見されたが、宝剣と御玉はなかった。
さいわいにして御玉は箱に納めてあったので、海上い浮かんでいるのを拾い上げたが、宝剣は先帝とともに海中にあるため、長門国一円の網引海人を招集して、付近の海を大捜索をした。
網を引いているうち、三月二八日、大津部三隅荘沢江浦から来ていた海人の網に先帝のご遺体がかかったが、宝剣は発見することはできなかった。
源義経は「尊体ハ御座ナガラ宝剣ナキ事都ニ奏セバ義経ノ失策デ密ニ山陽道も隔地に埋葬ルベシ」と伊勢三郎義盛に命じ、地吉の丸尾山(今の安徳天皇御陵墓)の南側の上に埋葬し、奉った。
そうして、朝廷へは「旧王(安徳天皇のこと)ノ御事ハ分明セズ」と報告している。
これが、後世の人びとをして幼帝に対する痛ましさのあまり、安徳天皇の御潜幸説となり、各地に御陵墓や伝説地が生じた所似である。
以上のように、安徳天皇のご遺体を極秘のうちに地吉の丸尾山に埋葬し葬ったため、当時の記録には残っていないがこの御陵の形は立派な天皇の墳墓である。
丸尾山は前方後円墳の形をしているから安徳天皇のお墓というものもいるが、誤りである。
現在は、上円部がややくずれているが、丸尾山の南の森には上円下方の御陵が築かれていたもので、昭和二年十一月三十日、宮内省から「安徳天皇西市御陵墓参考地」と指定された。