Ver. Oct.13 2010
バロン・サツマの日本橋薩摩商店と綾瀬の歴史
1.日本橋薩摩商店
(1) バロン・サツマとは
薩摩治郎八 1901(明治34)年 - 1976(昭和51)年
薩摩商店の薩摩家三代目だが商売を継がず、パリを中心に芸術家のパトロンとして放蕩生活。
(2) 初代 薩摩治兵衛
1831(天保2)年-1909(明治42)年 一代で綿織物問屋を築き大商人に。
(http://kousera.exblog.jp/5532504)
滋賀県豊郷町四十九院 字南町、農民茂兵衛の子として生まれる。
8歳で父が亡くなり全財産を失い、村外れで母と窮乏生活を送る。
豊郷町「先人を偲ぶ舘」
建物は薩摩家が寄付した「パリ日本館」をモチーフにデザインされたもの。豊郷に生まれ全国で活躍した8人、薩摩治兵衛・伊藤忠兵衛(伊藤忠、丸紅)・古川鉄治郎(丸紅)・伊藤長兵衛(丸紅)・北川嘉平・藤野喜兵衛・村岸峯吉・碓居龍太、の遺品や生い立ち、業績が展示されている。
1841(天保12)年頃 10歳頃 秩父の外池太右衛門に丁稚奉公する。(詳細不明)
秩父買継商通り 昭和30年代まで織物の仲買商店が集積し活況を呈していた。
1846(弘化3)年頃 15歳 日本橋堀留の「丁子屋」小林吟右衛門(丁吟:現チョーギン)の江戸店に奉公する。
現チョーギンは同じ地(現中央区日本橋堀留町1-3-19)で営業を継続している。
チョーギン本店(写真右側手前)
現在の堀留付近 (Mapion)
江戸名所図会の堀留
丁吟江戸店は、1831(天保2)年綿布問屋として開業した。江戸名所図会の日本橋編は1834(天保5)年に刊行されているので当時の様子に近い。図中央左、織物用の日除けがあり、織物らしき商品が並ぶ店と考えられる。(長谷川雪旦の挿図はかなり正確)
江戸切絵図 日本橋北(部分)緑位置が丁吟江戸店 1850(嘉永3)年作成,1859(安政6)年改訂版 (国土地理院所蔵)
1861(文久1)年 32歳 治兵衛が丁吟の主要ポストを担っていた。 (日本橋・堀留 織物問屋史考)
1867(慶応2)年 36歳 丁吟から暖簾分け。 日本橋富沢町に店を借り、「丸丁子屋」薩摩治兵衛商店として独立。
官軍側に付き、事業が急拡大
綿織物(金巾)の輸入で莫大な利益を得る
戦争の都度さらに大きく発展する
日本橋田所町3番地(現日本橋堀留町2-5-18、コクヨーレ日本橋付近)に本店を新築。(新築時期不明)
田所町は元「井筒屋小野組」の本拠地。1874(明治7)年に三井組と並ぶ小野組は乱脈経営で崩壊した。
薩摩商店本店跡付近(写真右側手前)
1888(明治21)年の大日本長者鑑 (いわゆる相撲番付のようなもので、信ぴょう性は低い)
鴻池・三井:300万円
本間・住友・小西:200万円
鹿島清兵衛:90万円
大倉:70万円
安田・藤田:60万円
小林吟右衛門:30万円
渋沢栄一:20万円
杉村甚兵衛・薩摩治兵衛:15万円
1899(明治32)年の東京織物問屋売上高ランキングで1位。
大伝馬町の旧勢力商人(国産生地)に対し、人形町通り界隈の新商人(輸入生地)が優勢となっていた。
薩摩治兵衛商店のPR誌 「都鳥」
駿河台鈴木町21番地(三楽病院向い、東京医科歯科大学研究所付近)に1400坪余りの土地を購入、大邸宅を構える。(写真右側一帯)
1881(明治14)年 50歳で長男を授かる。
(3)二代目薩摩治兵衛(薩摩治郎八)
1881(明治14)年-1958(昭和33年)
( http://kousera.exblog.jp/5532504)
1899(明治32)年 18歳で家業を継ぐ。初代が亡くなってからは家業を番頭に任せ趣味の蘭などに没頭。
震災以前の堀留付近の問屋街(通旅籠町;田所町の北隣)の様子 (「日本橋区史」昭和12年 引用元は「東京府史跡」大正8年)
これに近い街並が現在の川越に残る。1893(明治26)年の川越大火後、日本橋の土蔵造りに倣って新築したため。
(4)三代目 薩摩治郎八
1901(明治34)年- 1976(昭和51)年
1920(大正9)年 18歳 渡英
1923(大正12)年頃 21歳頃 パリ移住
社交界で活躍
私財を費やしパリの日本人芸術家を支援
藤田嗣治、藤原義江など
1925(大正14)年 日本橋区での薩摩家所有土地の名寄せ面積は1074.28坪 (「東京市地籍簿 日本橋区編」 大正14年)
(三井家所有面積はその10倍)
1926(大正15)年 25歳 山田英夫伯爵の長女(会津藩主松平容保の孫)千代と結婚
(http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/fujita1.htm)
1927(昭和2)年 26歳 パリ日本館への資金援助。親子揃ってレジオンドヌール勲章を受賞。
1929(昭和4)年 28歳 パリ日本館竣工
現在のパリ日本館 (http://maisondujapon.cool.ne.jp/)
1929(昭和4)年 世界恐慌
1933(昭和8)年の日本橋堀留界隈における薩摩家所有地 (「東京市日本橋区地籍台帳」昭和8年を元に作成。地図方位は左下が北)
1935(昭和10)年 34歳 薩摩商店閉店
1949(昭和24)年 48歳 千代死去
1951(昭和26)年 50歳 帰国 箱根の別荘で両親と暮らす
1956(昭和31)年 55歳 浅草の踊り子(真鍋利子)と再婚
文化、酒関連の執筆活動
シャンソン歌手三輪明宏らとの交流
1976(昭和33)年 利子の郷里徳島で死去 享年74歳
(5) 薩摩家と三井不動産
薩摩家の箱根の別荘
現在の「箱根小涌谷温泉水の音」(旧ドーミーヴィラ箱根)」
1915(大正4)年 約1500坪を薩摩家が小涌谷開発から購入。
ドーミーヴィラの敷地部分は薩摩治郎八の妹が相続し、1970(昭和45)年に三井不動産に売却。(治郎八の相続部分はサザエさんの母、長谷川ツタに売却)
三井不動産は保養所として利用後、1990年代に共立メンテナンスに売却。
薩摩商店本店跡付近
現コクヨーレ日本橋は、三井不動産住宅リースが賃貸運営中
2.綾瀬川の歴史と街の歴史
I 綾瀬川
延長 47.6km
流域面積 178k㎡
流域人口 1,139,000人
水源のない川、勾配のない川、流れのない川
生活排水(80%)工場(19%)
川の汚れ 昭和30〜40年代 汚濁度№1
II 綾瀬川と街
(1) 治水の歴史
・低湿地 「あやしの川」「古隅田川」「古利根川」
・新田開発 江戸開府(1603年)以降奨励
・綾瀬川改修
寛永年間(1630年代〜)開削化(〜小菅まで)
延宝8年(1680年)隅田川との直流化
・農業用水としての綾瀬川
川に近いほど生産性大
(2) 江戸の街⇔近郊農村(世界一の環境・循環システム)
・名産品 千住のねぎ、小松川の小松菜、汐入の大根、綾瀬川の鯉
・有料下肥
綾瀬川には高瀬舟100隻以上
子規「肥舟の霞んでのぼる隅田川」
(3) 明治以降
・レンガ産業の興隆
土質、水運により盛んに
現小菅拘置所での煉瓦製造所
綾瀬のレンガ 銀座レンガ通り、三菱一号館、東京駅で使用
大地震で脆さが露呈し、放水路の完成で衰退
・晒し屋、紺屋
花畑 千ヶ崎家(紺屋)一代で60町歩の大地主に
綾瀬 大室家(晒し屋)1877(明治10)年開業
豊富な水量と水運、舟運の利便性
(4) 綾瀬川、隅田川、日本橋川
木綿王 薩摩治兵衛と大室家
初代 薩摩治兵衛 綿織物(金巾)の輸入で財 織物問屋№1(木綿王) 長者番付 |
十代 大室源蔵 晒し屋開業 |
二代 薩摩治兵衛 趣味人として有名 商売は番頭まかせ |
十一代 大室貞蔵 日本橋の土蔵≒レンガの蔵 |
三代 薩摩治郎八 パリ移住 昭和10年閉店 |
十二代 大室源一郎 昭和12年閉業 |
輸送ルート (「実測東京全図」 1978(明治11)年6月)
綾瀬川河岸=>綾瀬川=>千住汐入・鐘ヶ淵 =>隅田川=>箱崎川=>行徳河岸=>日本橋川=>東堀留川=>堀留河岸
(5) 昭和以降
荒川放水路の開設1930(昭和5)年 と水運の衰退
水門が設置され航行が難しくなった
1933(昭和8)年の空撮 (「大東京鳥瞰写真地図」)
綾瀬川の高瀬舟(昭和29年) (「昭和30年代・40年代の足立区」)
隅田川、千住付近の光景(昭和29年) (「昭和30年代・40年代の足立区」)
(6) 鉄道交通・道路へ物流比重が移る
1896(明治29)年 土浦線(後の常磐線) 田端-土浦間が開業したが常磐線の北千住亀有間(綾瀬)には駅が無かった。
昭和7年10月1日 市郡併合
綾瀬村から東京都足立区へ
十二代 源一郎 綾瀬村助役 退任
十三代 徳三 危機意識 街づくりに関心
・工場誘致に奔走
千代田鉄鋼(綾瀬6丁目)、旧増野製作所(7丁目)、鉄道機器(青井3丁目)
・1940(昭和15)年 府立十一中(現都立江北高校)の誘致
府立十一中は赤坂区青山北町 5丁目の東京府青山師範学校付属小学校旧校舎の仮校舎で昭和13年開校していたが、綾瀬駅設置を条件に土地供出
・1943(昭和18)年 綾瀬駅開設(請願駅) (北千住寄りの綾瀬1丁目37番地付近)
枕木ホーム、一か所乗降口、その後上下2か所
4,000人/日(府立十一中と小菅刑務所関係)
綾瀬駅(昭和41年) (「昭和30年代・40年代の足立区」)
(7) 戦後
区画整理:昭和32年 1,071千㎡の住宅開発
吉田利男・大室徳三 正・副理事長
駅前地区に小・中学校配置
都立職業訓練校 教育・訓練の重要視
交通公園
1968(昭和43)年 地下鉄千代田線乗り入れに合わせ、綾瀬駅の位置を亀有寄りに約250m移転。
1971(昭和46)年 地下鉄千代田線 綾瀬 - 北千住間開業
1982(昭和57)年 高速6号向島線開通
(8) 綾瀬川の役割の変化
・鉄道・道路中心への転換が一貫して進み、川の機能縮小
昭和30年以降 貴重な河川が邪魔者化
・地下水汲み上げ→地盤沈下→洪水の危険→カミソリ堤防のかさ上げの繰り返し
・水位の上昇→大型船の通行不能→舟運の衰退
・生活排水、工場排水→ドブ川化→汚染度№1
III 新しい綾瀬川の姿を “綾瀬川ルネッサンス”の提言
浮世絵にもある緑あふれる清流を
安心・安全な清潔な川を
下水道の整備・浄化施設
スーパー堤防化の必要性
主要参考文献
日本橋関連
原寸復刻「江戸名所図会」 評論社 2006
「日本橋区史」 昭和12年
「日本橋・堀留 東京織物問屋史考」 白石孝 文真堂 1994
「日本橋界隈の問屋と街」 白石孝 文真堂 1997
「日本橋街並み商業史」白石孝 慶応義塾大学出版会 1999
「日本橋トポグラフィ事典」武田勝彦他 たる出版 2007
「「バロン・サツマ」と呼ばれた男」 村上紀史郎 藤原書店 2009
「東京市地籍簿 日本橋区編」 大正14年
「東京市日本橋区地籍台帳」 昭和8年
綾瀬関連
「大東京鳥瞰写真地図」 日本地図センター
「昭和30年代・40年代の足立区」 足立史談会監修 三冬社 2008
「足立区史」 足立区
「絵で見る年表 足立風土記」 足立区教育委員会
「ブックレット足立風土記」 足立区教育委員会
「あだちのあゆみ」 足立区立郷土博物館
「足立区の文化財」 足立区教育委員会
「写真で見る足立区40年のあゆみ」 足立区
「写真に刻み込まれた足立区50年の軌跡」 足立区
「幕末が生んだ遺産 夜明けを駆け抜けた地域の群像」 足立区立郷土博物館
「特別展 江戸四宿」 特別展江戸四宿実行委員会