Ver. Oct.25 2012


東京都中央区 近江商人と日本橋 

〜「バロン・サツマ」の日本橋薩摩商店〜


■■■■■ 日本橋薩摩商店

■■■(1) バロン・サツマとは

薩摩治郎八 1901(明治34)年 - 1976(昭和51)年
薩摩商店の薩摩家三代目だが、商売を継がず、パリを中心に芸術家のパトロンとして放蕩生活。

 


■■■(2) 初代 薩摩治兵衛

1831(天保2)年-1909(明治42)年 一代で綿織物問屋を築き大商人に。
(http://kousera.exblog.jp/5532504)
 


滋賀県豊郷町四十九院 字南町、農民茂兵衛の子として生まれる。
8歳で父が亡くなり全財産を失い、村外れで母と窮乏生活を送る。
1841(天保12)年頃 10歳頃 秩父の外池太右衛門に丁稚奉公する。(詳細不明)

秩父買継商通り 昭和30年代まで織物の仲買商店が集積し活況を呈していた。
 

1846(弘化3)年頃 15歳 日本橋堀留の「丁子屋」小林吟右衛門(丁吟:現チョーギン)の江戸店に奉公する。

現チョーギンは同じ地(現中央区日本橋堀留町1-3-19)で営業を継続している。 
チョーギン本店(写真右側手前)
 

現在の堀留付近 (Mapion)
 


江戸名所図会の堀留 
丁吟江戸店は、1831(天保2)年綿布問屋として開業した。江戸名所図会の日本橋編は1834(天保5)年に刊行されているので当時の様子に近い。図中央左、織物用の日除けがあり、織物らしき商品が並ぶ店と考えられる。(長谷川雪旦の挿図はかなり正確)

 

江戸切絵図 日本橋北(部分)緑位置が丁吟江戸店 1850(嘉永3)年作成,1859(安政6)年改訂版 (国土地理院所蔵)
 



1861(文久1)年 32歳 治兵衛が丁吟の仕入れ、販売部門の主要ポストを担っていた。 (日本橋・堀留 織物問屋史考) 
 

1867(慶応2)年 36歳 丁吟から暖簾分け。 日本橋富沢町に店を借り、「丸丁子屋」薩摩治兵衛商店として独立。

官軍側に付き、事業が急拡大
綿織物(金巾)の輸入で莫大な利益を得る
戦争の都度さらに大きく発展する

日本橋田所町3番地(現日本橋堀留町2-5-18、コクヨーレ日本橋付近)に本店を新築。(新築時期不明)
田所町は元「井筒屋小野組」の本拠地。1874(明治7)年に三井組と並ぶ小野組は乱脈経営で崩壊した。

薩摩商店本店跡付近(写真右側手前)
 

1888(明治21)年の大日本長者鑑 (いわゆる相撲番付のようなもので、信ぴょう性は低い)

鴻池・三井:300万円
本間・住友・小西:200万円
鹿島清兵衛:90万円
大倉:70万円
安田・藤田:60万円
小林吟右衛門:30万円
渋沢栄一:20万円
杉村甚兵衛・薩摩治兵衛:15万円

1899(明治32)年の東京織物問屋売上高ランキングで1位。
大伝馬町の旧勢力商人(国産生地)に対し、人形町通り界隈の新商人(輸入生地)が優勢となっていた。
 

薩摩治兵衛商店のPR誌 「都鳥」
 


駿河台鈴木町21番地(三楽病院向い、東京医科歯科大学研究所付近)に1400坪余りの土地を購入、大邸宅を構える。(写真右側一帯)
 


1881(明治14)年 50歳で長男を授かる。


■■■(3) 二代目薩摩治兵衛(薩摩治郎八)

1881(明治14)年-1958(昭和33年)
( http://kousera.exblog.jp/5532504)
 


1899(明治32)年 18歳で家業を継ぐ。初代が亡くなってからは家業を番頭に任せ趣味の蘭栽培などに没頭。

震災以前の堀留付近の問屋街(通旅籠町;田所町の北隣)の様子 (「日本橋区史」昭和12年 引用元は「東京府史跡」大正8年)
これに近い街並が現在の川越に残る。1893(明治26)年の川越大火後、日本橋の土蔵造りに倣って新築したため。
  



■■■(4) 三代目 薩摩治郎八

1901(明治34)年- 1976(昭和51)年

1920(大正9)年 18歳 渡英 
1923(大正12)年頃 21歳頃 パリ移住
社交界で活躍
私財を費やしパリの日本人芸術家を支援
藤田嗣治、藤原義江など

1925(大正14)年 日本橋区での薩摩家所有土地の名寄せ面積は1074.28坪 (「東京市地籍簿 日本橋区編」 大正14年)
(三井家所有面積はその10倍)

1926(大正15)年 25歳 山田英夫伯爵の長女(会津藩主松平容保の孫)千代と結婚 
(http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/fujita1.htm)
 


1927(昭和2)年 26歳 パリ日本館への資金援助。親子揃ってレジオンドヌール勲章を受賞。
1929(昭和4)年 28歳 パリ日本館竣工

現在のパリ日本館 (http://maisondujapon.cool.ne.jp/)

 

1929(昭和4)年 世界恐慌 

1933(昭和8)年の日本橋堀留界隈における薩摩家所有地 (「東京市日本橋区地籍台帳」昭和8年を元に作成。地図方位は左下が北)
 

1935(昭和10)年 34歳 薩摩商店閉店
1949(昭和24)年 48歳 千代死去
1951(昭和26)年 50歳 帰国 箱根の別荘で両親と暮らす
1956(昭和31)年 55歳 浅草の踊り子(真鍋利子)と再婚

文化、酒関連の執筆活動
シャンソン歌手三輪明宏、越路吹雪らとの交流

1976(昭和33)年 利子の郷里徳島で死去 享年74歳


■A 薩摩家の箱根の別荘

現在の「箱根小涌谷温泉水の音」(旧ドーミーヴィラ箱根)」
1915(大正4)年 約1500坪を薩摩家が小涌谷開発から購入。
ドーミーヴィラの敷地部分は薩摩治郎八の妹が相続し、1970(昭和45)年に三井不動産に売却。(治郎八の相続部分はサザエさんの母、長谷川ツタに売却)
三井不動産は保養所として利用後、1990年代に共立メンテナンスに売却。

■B 薩摩商店本店跡付近

現コクヨーレ日本橋は、三井不動産住宅リースが賃貸運営中





■■■■■ 薩摩商店の木綿晒し(さらし)と染め(紺屋) 〜日本橋川、荒川、綾瀬川の水運

■■■綾瀬川と街の歴史

■■■(1) 綾瀬川

延長 47.6km
流域面積 178k㎡
流域人口 1,139,000人
水源のない川、勾配のない川、流れのない川
生活排水(80%)工場(19%)
川の汚れ 昭和30〜40年代 汚濁度№1

■■■(2) 綾瀬川と街

■ A 治水の歴史

・低湿地 「あやしの川」「古隅田川」「古利根川」
・新田開発 江戸開府(1603年)以降奨励
・綾瀬川改修
寛永年間(1630年代〜)開削化(〜小菅まで)
延宝8年(1680年)隅田川との直流化
・農業用水としての綾瀬川
川に近いほど生産性大

■B 江戸の街⇔近郊農村(世界一の環境・循環システム)

・名産品 千住のねぎ、小松川の小松菜、汐入の大根、綾瀬川の鯉
・有料下肥
綾瀬川には高瀬舟100隻以上
子規「肥舟の霞んでのぼる隅田川」

■ C 明治以降

・レンガ産業の興隆

土質、水運により盛んに
現小菅拘置所での煉瓦製造所
綾瀬のレンガ 銀座レンガ通り、三菱一号館、東京駅で使用
大地震で脆さが露呈し、放水路の完成で衰退

・晒し屋、紺屋

花畑 千ヶ崎家(紺屋)一代で60町歩の大地主に
綾瀬 大室家(晒し屋)1877(明治10)年開業
豊富な水量と水運、舟運の利便性

■ D 綾瀬川、隅田川、日本橋川ルート

木綿王 薩摩治兵衛と大室家

初代 薩摩治兵衛 
綿織物(金巾)の輸入で財
織物問屋№1(木綿王) 長者番付
十代 大室源蔵
晒し屋開業 
二代 薩摩治兵衛
趣味人として有名
商売は番頭まかせ
十一代 大室貞蔵
日本橋の土蔵≒レンガの蔵
三代 薩摩治郎八
パリ移住
昭和10年閉店 
十二代 大室源一郎
昭和12年閉業



輸送ルート (「実測東京全図」 1978(明治11)年6月)
綾瀬川河岸=>綾瀬川=>千住汐入・鐘ヶ淵 =>隅田川=>箱崎川=>行徳河岸=>日本橋川=>東堀留川=>堀留河岸

 

■ E 昭和以降

荒川放水路の開設1930(昭和5)と水運の衰退
水門が設置され航行が難しくなった。

1933(昭和8)年の空撮 (「大東京鳥瞰写真地図」)
 


綾瀬川の高瀬舟(昭和29年) (「昭和30年代・40年代の足立区」)
 


隅田川、千住付近の光景(昭和29年) (「昭和30年代・40年代の足立区」)
 


■ F 鉄道交通・道路へ物流比重が移る

1896(明治29)年 土浦線(後の常磐線) 田端-土浦間が開業したが常磐線の北千住亀有間(綾瀬)には駅が無かった。
昭和7年10月1日 市郡併合
綾瀬村から東京都足立区へ
十二代 大室源一郎 綾瀬村助役 退任 
十三代 大室徳三 危機意識 街づくりに関心
・工場誘致に奔走
千代田鉄鋼(綾瀬6丁目)、旧増野製作所(7丁目)、鉄道機器(青井3丁目)
・1940(昭和15)年 府立十一中(現都立江北高校)の誘致
府立十一中は赤坂区青山北町 5丁目の東京府青山師範学校付属小学校旧校舎の仮校舎で昭和13年開校していたが、綾瀬駅設置を条件に土地供出
・1943(昭和18)年 綾瀬駅開設(請願駅) (北千住寄りの綾瀬1丁目37番地付近)
枕木ホーム、一か所乗降口、その後上下2か所
4,000人/日(府立十一中と小菅刑務所関係)

綾瀬駅(昭和41年) (「昭和30年代・40年代の足立区」)
 

■ G 戦後

区画整理:昭和32年 1,071千㎡の住宅開発
吉田利男・大室徳三 正・副理事長
駅前地区に小・中学校配置
都立職業訓練校 教育・訓練の重要視 
交通公園
1968(昭和43)年 地下鉄千代田線乗り入れに合わせ、綾瀬駅の位置を亀有寄りに約250m移転。
1971(昭和46)年 地下鉄千代田線 綾瀬 - 北千住間開業
1982(昭和57)年 高速6号向島線開通

■ H 綾瀬川の役割の変化

・鉄道・道路中心への転換が一貫して進み、川の機能縮小
昭和30年以降 貴重な河川が邪魔者化
・地下水汲み上げ→地盤沈下→洪水の危険→カミソリ堤防のかさ上げの繰り返し
・水位の上昇→大型船の通行不能→舟運の衰退
・生活排水、工場排水→ドブ川化→汚染度№1

■■■(3) 新しい綾瀬川の姿 

“綾瀬川ルネッサンス”の提言

・浮世絵にもある緑あふれる清流を
・安心・安全な清潔な川を
・下水道の整備・浄化施設
・スーパー堤防






■■■■■ 2.近江商人とは



■■■近江商人の特徴

世界一の商いをしていた江戸日本橋。その商家の系譜には大きく近江商人と伊勢商人とがある。「買い手よし、売り手よし、世間よし」の三方よしの理念を持つ近江商人は全国に雄飛した。
近江商人とは、近江に本拠地をおく他国稼ぎ商人のことで、近江八幡・日野・五個荘から特に多く輩出した。
近江商人の特徴は行商であり、「近江の千両天秤」という諺は、天秤棒一本で行商をして千両の財をなすたくましい商魂と、千両を稼いでも初心を忘れず商売に励むという教訓も込められている。
近江商人は諸国を行商することで商品の需給状況や価格などの各種情報を入手することができた。
販路を獲得し資本を貯え、全国各地に出店・枝店と呼ばれる支店を積極的に開設し、最終的には江戸日本橋、大阪本町、京都室町に進出して豪商となった。


■■■ 中世の座と市庭(いちば)

生産技術の向上や貨幣の流通によって商業が発達する。中央と地方とを結ぶ遠隔地間取引により、商人の活動が盛んになる。
その舞台となったのは定まった日だけに市が立つ定期市。設備もほったて小屋式の仮設のもので、固定した店舗は京都など一部の都市に限られていた。
市庭(市場)で商業活動を行うには、座商人であることが前提条件だった。
中世商業最大の特徴は、商人が座と呼ばれる職能集団を形成して、特定の寺社権門に属し、税金などを納める代わりにさまざまな特権を与えられて、営業活動を行ったところにある。
日本の回廊地帯である近江には、東山道、東海道や北国街道など多くの街道が通っていた。その道を人が通り、物資が運ばれた。沿線に商業の場として市庭が早くから成立した。
なかでも東山道沿い一帯は、近江の親市と呼ばれる長野市(現、愛知川町)をはじめ、数多くの市庭が設けられた。


■■■近江商人の類型 八幡商人、日野商人、五個荘商人

八幡商人(近江八幡市) 日野商人(日野町) 五個荘商人(東近江市)
活動開始時期 蚊帳・畳表・麻布・数珠・灯心・蝋燭・扇子 日野椀・漆器・合薬・煙管・日野きれ(繊維)・茶 呉服・太物・編笠・麻布(高宮布・野洲晒)
商圏 三都(江戸・大坂・京都)、北海道、東北、関東、中部、中国、九州 関東地方に出店が集中 京都・大坂にかけての東海道沿線 三都(江戸・大坂・京都)、関東、信濃、奥羽、畿内、九州
特色 元和年間(1615〜24)最も早く江戸に出店。
「八幡の大店」大型店舗経営。
北海道交易(柳川・薩摩の商人と両浜組を組織)。
鎖国前は安南(ベトナム)やシャムなど海外へも進出
「日野の千両店」小規模な出店の多さ。
三都などの大都市は避けて地方に開設し、在方商圏とする。
商人仲間の組織「大当番仲間」を形成。
関東地方を中心に、酒や醤油など醸造業も盛んに経営。
あくまで村方(在方)として存在し、農間余業として商業をおこなう。
江戸時代の開設は13店であり、明治以降に活躍
明治以降に活躍した商人たちは、海外への視察・進出など進取の気性に富む。

(元資料:近江商人博物館)



■■■近江商人集団のその他の呼び名

中世では、京都・美濃・伊勢・若狭の各街道の通商権を持つ商人にわかれていたが、権益争いが多かった。

■五箇商人

若狭(福井県)方面へは湖上経由の九里半街道を通って、小幡・八坂・薩摩・田中江・高島南市の商人が主に塩合物(塩魚)の卸売を行った。

■四本商人

伊勢(三重県)へは八風・千草両街道を通って、保内(野々川商人、野々郷商人、得珍保商人;東近江市)・小幡(愛荘町)・沓掛(愛荘町)・石塔(東近江市)のいわゆる四本商人が通商した。鈴鹿山脈を越えるため山越商人とも、ぼてふり商人とも称されていた。海産物や塩・布など多彩な商品を取り扱い、市売や里売といった小売までおこなっていた。
保内商人(得珍保商人)とは、蒲生郡得珍保(現東近江市)で延暦寺東塔の僧侶で得珍という僧が開発した荘園のうち、下四郷七カ村と呼ばれた金屋・中野・今在家・小今在家・今掘・東破塚・蛇溝で発生した商人。

■小幡商人

五個荘の地を本拠とする。流通幹線路の東山道沿いに位置する利点を生かして、四本商人と五箇商人を兼ねる唯一の商人団として活躍した。小幡商人は、江戸時代から活躍する近江商人の原型となった。



参考: 滋賀県の現行政界
 



■■■■■ 八幡商人の系譜

■■ 近江八幡

滋賀県近江八幡市は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、街並が文化財として保存されている。 
近江八幡の隆盛は、天正12年(1584)豊臣秀吉の甥秀次が領主になった頃に遡る。秀次は、楽市楽座の設定、八幡堀の開削、諸国から商人を寄せ集めるなど、わずか5年の城主期間だが積極的に町の経済発展を図った。
八幡商人は、天領となった後、その地理的優位性と自由経済の波に乗り、全国津々浦々に行商のダイレクトマーケティングを行った。「辺鄙なところは競合が少ないから商機あり」という論理だ。
早くから江戸日本橋に店を構え、「八幡の大店」と称された。特に西川甚五郎、西川庄六、森五郎兵衛は御三家と呼ばれるほどの実力を誇った。
彼らが扱った商品は、畳表、蚊帳、数珠、灯芯など。西川の創業は1566年、江戸に店を構えたのは元和元年(1615)、一方、伊勢商人だった三井高利が江戸に店を構えたのは延宝元年(1673)。400年以上に及ぶ商人の系譜は三井よりも長い。

今やこの街は単なる古い商都ではなく、物語の街だ。映画やテレビがここをロケ地として物語を作り出す。
この町はまた、ヴォーリズが愛し、多くの作品を作ったことでも再評価されている。 ヴォーリズは、小泉八雲の松江のように、この古い街を愛した。時を経て今頃ようやく社会が彼を取り上げるようになってきた。
物語と人物に無縁の街は人の心に生き続けられない。町おこしを図る現代の城主すなわち行政の長や街づくりの関係者は、この街から多くのヒントを得ることができるだろう。

近江八幡市は滋賀県中央部の平野に位置し、市域の北東部に広がる西の湖は、ヨシ原特有の湿地生態系を示している。
近江八幡市の周辺は古くから琵琶湖の東西交通を支えた拠点の一つとして栄え、近世には豊臣秀次が八幡山城の麓に城下町を開き、西の湖を経て琵琶湖に至る八幡堀を開削した。
楽市楽座などの自由な商工業政策が行われ、八幡堀沿いの街は廃城以後も在郷町として発達した。
八幡堀沿いの街は舟運で結びついて旧城下町と一体的に展開し、現在の市街地の骨格となった。
江戸日本橋で近江商人が取引した商品には、「近江表」「近江上布」など湿生植物を原料とするものが数多く含まれていた。
西の湖の北岸に面する円山の集落は近江商人が築いた流通経路を通じて市場を拡大し、ヨシの産地として広く知られるようになった。
円山の集落では現在もヨシ加工による簾や葭簀をはじめとする高級夏用建具の製造が行われており、製造業者の数は減少したものの「ヨシ地焼き」などの種々の作業は従来の手法を留めている。
「近江八幡の水郷」は、西の湖やその周辺に展開するヨシ原などの自然環境が、ヨシ産業などの生業や内湖と共生する地域住民の生活と深く結びついて発展した文化的景観である。

新町通りの街並

 

西側に旧西川家(利右衛門)住宅、歴史民俗資料館、東側に西川昭六住宅、森五郎兵衛住宅、三丁目の京街道筋に旧伴荘右衛門住宅がある。
森五郎兵衛宅は現在は空家だが、延享2年(1745)江戸に出店を設け、呉服・太物の販売を始め、安政4年(1857)には江戸真綿株仲間に加入して真綿をも扱い、日本橋の森五商店として発展した。


参考:日本橋 近三ビル(旧森五ビル)

東京都歴史的建造物。近江八幡の近江屋三左衛門(森五郎兵衛)商店が起源。ビルは森五商店の本社屋として村野藤吾が独立後最初に手掛けた作品。玄関ホールのモザイクが秀逸。
 



■■ 市立郷土資料館

近江商人の歴史を感じさせる新町通りにある。
西村太郎右衛門の邸宅跡に建設された旧八幡警察署を利用したもので、朝鮮通信使などの往来のあった旧京街道に面している。
西村家は屋号を綿屋と称し、初代嘉右衛門はすでに慶長年間(1596〜1615)には、町の肝煎として町政にたずさわり2代目嘉右衛門の弟太郎右衛門は海外で活躍した。
しかし太郎右衛門は鎖国で帰れなくなり、長崎の絵師菱川孫兵衛に安南渡海壱船額(国重文)を描かせ、日牟禮八幡宮に奉納した。

考古資料などが展示されている郷土資料館と、近江商人の帳場風景を再現している歴史民俗資料館、江戸中期の典型的な商家である旧西川家住宅と旧伴家住宅の4館で構成されている。
 


■■ 旧西川家住宅(国重要文化財)

旧西川家住宅は近江商人の商家が集中的に残り伝統的な町並みを形成している新町通りに東面している。
大文字屋西川利右衛門家は八幡城下町建設期に住みつき、代々畳表・蚊帳などを扱った近江八幡を代表する商家であったが、昭和初年(1925)に廃絶し現在土地建物とも市所有となっている。
もとは西川利右衛門の本宅である。
屋敷内には主屋と土蔵が建っている。
主家は宝永3年(1706)に建てられ、二階は文化11年(1814)に改築されている。
主屋は通りに面して居住部と座敷部を配し、居室部は間口6.5間(約12m)・奥行9間(約16m)で北寄りに裏庭まで通り抜けの土間を取り、室は2列に9室を配し、表側には店の間を設けている。
座敷部は内庭をもち、間口2.5間、奥行4.5間に2室を設けている。
表構えは低い2階建てで、痕跡より1階は摺上が戸、2階は土壁であった。
建物全体は質素に作られている。
土蔵は本瓦葺き3階建てで、天和年間(1681〜84)に建てられた。
明和5年(1768)、文政2年(1819)の修理記録が残っている。
屋根は鬼瓦が現存しており、もとは本瓦葺であったと思われる。
座敷玄関は「見越しの松」の中庭を経て、表通りの板塀戸口に通じている。
質素な中にも、洗練された意匠が随所に見られる貴重な建物である。
裏には寿楽園と呼ばれた茶室があって、銀閣寺を模した建物で、琵琶湖八景にちなんだ造り。



   



■■歴史民俗資料館 (旧森五郎兵衛別邸)

 

■■ 旧伴家住宅

伴家の祖は大友氏で、安土城下で承認となり、やがて八幡町に移住し伴庄衛門と名を改め、扇子や地場の産物を商った。
八幡町の衰退と同時に行商を始め、江戸幕府の寛永年間(1848〜54)に日本橋に出て西川家と並ぶ大店を構えた。
屋号を「扇屋」といい、西鶴の「織留本朝人鑑」には京都や大坂での繁盛ぶりが「江戸布高宮買いとりて国々に出見店殊更(ことさら)京都四条東の洞院の見世には毎年縞布(しまぬの)ばかり千駄づつ売はらいける。畳の表は大坂に見世出し、次第に大商人となりぬ」と書かれている。
庄右衛門家の5代目の伴蒿蹊(1773〜1806)は、家業に努めるとともに国学者として「近世畸人伝)を著している。一方、近江商人の典型的な家法所のひとつである「主従心得草」では、贅侈(しゃし)に傾く店風をただしている。

 






■■■■■ 五個荘商人の系譜


滋賀県東近江市五個荘は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、街並が文化財として保存されている。
琵琶湖の東側、愛知川の左岸に位置する旧五個荘町(現東近江市)は五個荘商人のふるさとである。
白壁と舟板壁の蔵屋敷、そのそばを流れる小川のせせらぎ、そこには日本の原風景と文化遺産が息づいている。
天秤棒一本を担いで、一商人から大商人へと成長した足跡を振り返ることができる。
近世初期〜昭和にかけては八幡商人や日野商人と並んで当町も多くの豪商を輩出し、現在も商社として多くの企業が活躍している。
特に五個荘商人は呉服・太物・麻布などの繊維製品を中心に手がけ、その商圏は関東・長野など、中山道沿いを中心に遠く北海道から四国・九州に及んだ。
五個荘商人の経営活動を支えていたのは勤勉・倹約・正直・堅実・自立の精神で、先祖を大切に、敬神の念を常に忘れず、成功しても「奢者必不久」、「自彊不息」の心で、公共福祉事業に貢献した。



■■近江商人博物館 滋賀県東近江市市五個荘

「てんびんの里」五個荘は近江商人発祥の地とされる。
幕末から明治にかけて、天秤棒を担いで全国津々浦々まで行商に歩いた彼らは巨大な富を築いた。
現在に残る多くの有名企業や商社のルーツは近江にある。
どうして少ない元手で富が得られたのか、200年近く続く企業を創業できたのか、そのカギはここ近江商人博物館にある。
同館は平成8年4月、「近江商人」を教育の核にして、情報発信しようと「てんびんの里文化学習センター」3階にオープンした。
客の喜ぶ顔を心の糧に、全国津々浦々まで行商に歩き、やがて豪商へと出世していった五個荘商人たちの奇跡をたどる博物館である。
近江商人が育んだ土壌から、彼らの商法、教育、精神まで、近江商人の発生前史から隆盛期、永遠の未来へと続く近江商人の全貌をやさしい表現でわかりやすく紹介している。
中でも近江商人の「家訓」には、現代の閉塞感を打破するヒントがあるようだ。売り手よし、買い手よし、世間(社会)よしの「三方よし」などは偽装を行なった会社に聞かせたい。
「目先の利益に迷わず、遠き行く末を見る」ことを説き、「売って悔やむようならば先々に利益有るなり」と説く。お客様に得をしてもらってはじめて「お得意様」になると説く。
寺子屋に通う人数が多く、算術普及率も全国平均をはるかに超えていた。
優秀でなければ長男でも家を継がせない、社長であっても不適切な行ないが有った場合は分家の合議で隠居させるなど厳しいルールも働かせていた。
今すぐにでも取り入れるべきものが多く残されている、そのような情報が一杯並んでいる博物館といえる。
中世よりの商人の系譜の紹介や、幕末の動乱期に商人と社会との関わりなども興味ある展示である。

 



■■外村繁邸

門は奥まって建っている土蔵の右側にあって、屋敷内は見通せない。
屋敷の中央よりやや奥に東面して建つ主屋は切妻、瓦葺の本二階建てで、明治初期の建築とされる。
平面は田字型を基本として妻側に仏間と小座敷をつけ、背面には畳縁と8畳の蔵前をつけている。
座敷は書院造りで四畳半の小座敷は数奇屋風になっている。座敷の南は庭園になっており、屋内から四季の風景が楽しめるよう開放型である。
純文学作家の外村繁は」、いったん家業を継いだが文学への志を貫き「鵜の物語」を発表。その後、「商店もの」と言われる独自の商業小説を執筆。
自分の体験から生まれた近江商人の生活を描いた「筏」「草筏」「花筏」三部作は代表作品。
晩年は親鸞の浄土思想に傾倒し、名作「澪標 みおつくし」「落日の光景」を発表。「濡れにぞ濡れし」執筆中に59歳で逝去。
生家には、小説にも登場した庭や、幼少の頃に使った部屋が残る。


■当時の生活事情の推定材料

「白い花の散る思ひ出」(昭和14〜15年に連載されたもの)・・・・外村家の描写
父は商人で、東京と京都に店を持ち、始終留守であったし、母は分家ながら家付娘で、所謂近江商人の算盤づくで因習的な家憲家風の厳格な信奉者だった。

「それ、勿体ない」
封筒を裏返して二度使い、「鼻紙まで引き伸ばされて二度も三度も」使う母からのいましめ。

「それ、それ、鋸引き、鋸引き。」
昔近江商人が、京と江戸の上り下りに、それぞれの産物を商ったように、行き帰りに用事をせよという意味。

「それ今のは渡り箸」
おかずの次にご飯を食べないで、また別のおかずに手を出すような勿体ないこと」
こうした質素倹約の家風が描かれている。

  


■司馬遼太郎 「街道をゆく 近江・奈良散歩」より

この「金堂」の集落を歩くうち、「外村(とのむら)」という家を見た。やはり明治の建築かと思えるが、ぬきんでて軽快で、清らかな色気さえ感じさせた。ふと、女人高野といわれる大和の室生寺をおもいだした。
外村家の塀は世間の塀概念に比べてひどくひくく、石垣もたおやかで、優しさが匂い立っていたが、さらにいえば匂うことさえ遠慮しているというふうだった。
ひょっとすると、近代的感覚の代表的な民家ではないかとおもったりしたが、建てられた年代をきこうにも、錠がおりなかは無人のようだった。
このとき不意に、この家は当時すでに故人だった作家の外村繁(1902〜61)の生家ではあるまいかと思い、たまたま通りかかった老婦人にきくと「そうどす」と、語尾をとくにはげあげた近江ふうの京ことばで答えてくれた。
外村繁はこの家の三男に生まれた。長兄が江戸期以来の本家の外村家を継ぎ、次兄が早世したため、心ならずも相続人になってしまったといわれている。・・・・・かれはその母親から商人になるべく期待されたが、・・・
文学を志すようになった。しかし母親の望みで、大学は経済学部に入った。・・卒業後、東京日本橋の外村商店を相続せざるをえなくなり、五カ年、店の運営に悪戦苦闘したあげく、家業を弟に譲り、創作生活に入った。


■■ 外村宇兵衛邸

初代は金堂の比較的裕福な旧家に生まれたが、農業に依存していては一家の繁栄がないと自覚し、元禄13年(1700)に近江麻布(まふ)の行商を始め半農半商の辛苦の末、商人としての基礎を築いた。
2代目は麻布を持ち上り、上州の芋麻を持ち下って名古屋などに出店。
代々その商才を発揮したが、5代与左衛門は、初めての江戸の商いでは17両の損失を被ったものの、荷物の運搬に馬や飛脚を利用する大形行商に励み、やがて京店、大坂店を設けた。
6代目外村与左衛門の末っ子に生まれた初代宇兵衛は、安永6年(1777)兄を助けて京都店を支配。絹布・繰綿などを売買して事業を拡大した。
文化10年(1813)に分家独立し本家の商圏と重ならない京都や上野(こうずけ 群馬県)から呉服類を仕入れ、大坂和歌山・堺・で販売した。
東京・横浜・京都・福井などに支店を出し、全国長者番付に名を連ねた近江を代表する豪商である。
屋敷は家業の隆盛とともに数次にわたる新増築が重ねられ、主屋・書院・大蔵・米蔵・雑蔵・納屋・大工小屋など十数棟におよぶ建物が建てられていた。
屋敷の表に建つ白壁の「かわと」と、水路に沿って長く続く白壁の塀は景観として見ごたえがある。
主屋は江戸末期の萬延元年(1860)の建築で、片入母屋の二階建である。
与左衛門家を本家として多くの分家が存在する。
現在も繊維卸商「外村」は時代に対応しつつ、繊維業界で活躍している。

 

庭園
当時神崎郡一と評されるほど趣向を凝らしたもので、飛び石を配し、石塔籠や池泉が静寂ながらも力強い空間を形成している。
屋内から眺めるより園内を回遊して楽しむ庭として造られている。
しかし残念ながら建物や庭の半分ほどが取壊され、往時の姿を損じてしまったとのこと。
そこで、茶屋「亭」・四阿の復元、主屋・庭の改修や整備を行い、明治期の姿に修復された。

 


■■ 藤井彦四郎邸(国登録文化財)

スキー毛糸の創始者である藤井彦四郎の旧宅は、迎賓館として建築され、内部装飾の細やかな配慮ある丁寧な仕事が目を引く。
庭内の琵琶湖をかたどった池の周囲は四季折々の風情を見せ、藤井家の財力が感じられる豪華さである。
兄善助は17歳で同文書院大学に学び、その後江商合資会社、大阪紡績株式会社など数十社を経営すると共に、国政に参加して犬養毅の薫陶を受けて東洋文明の保護を志した。
東洋文化の誇るべき名品の多くが欧米へ流出していることを憂い、蒐集に努め、京都岡崎に有隣舘を開設して公開した。
弟の彦四郎は、政界に出た兄の事業を継続し、日露戦争直後の不況下にはフランスから輸入した人造毛糸を商い、恐慌や関東大震災での東京店全焼などの困難を乗り切り、数々の会社を設立した。
戦時下で企業活動が制約されると海外に活動の場を求め、時局の難局を乗り切ってきた。

  


■■ 中江準五郎邸

呉服小間物商の中井屋に生まれた中江勝治郎は、明治38年(1905)に朝鮮に呉服店を開設したのを皮切りに、第二次世界大戦前に朝鮮・中国に20余店の三中井百貨店を経営し、百貨店王と称された。
中江家は海外に進出した希有な商人だったが、昭和20年(1945)の終戦と同時に在外資産が消滅、幻の近江商人となった。
その屋敷が「中江準五郎邸」として公開されている。
二階から見える、重なる屋根瓦の並びが素晴らしい。繖山(きぬがさやま 観音寺山)と久誓寺はどこからでも見える。


  






■■■■■ 豊郷商人の系譜 〜薩摩家の原点、豊郷町に学ぶ

■■ 豊郷の歴史と商人

豊郷町の町域は大化の改新後の犬上郡安食郷と愛知郡吉田郷にあたる。
安食郷は百済からの渡来人阿直岐氏の居住地であったとされ、安食西にある阿自岐神社は阿直岐氏の邸宅跡とされる。
また犬上郡」の由来となった犬上氏(犬上君)とのゆかりが伝わる地域であり、八目に稲依別王を祭る犬上神社があり、境内近くに犬上君の居館跡とされる場所がある。

中世には安食荘・甲良(かわら)荘・日枝荘・吉田荘に属した。東山道に沿う四十九院村と枝村に市座と関所ができ、商業が活発化する。
枝村商人は紙座の特権を持ち、主に美濃で仕入れた和紙を京都へ運ぶことで利益を上げた。
鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢や尾張へも行商したが、峠の通行権などを巡って蒲生郡の保内商人としばしば争論を起こした。
交通の要衝であるために南北朝以降戦乱に巻き込まれることが多く、文和年間(1352-56年)には足利義詮が後光厳天皇を奉じて四十九院に下向している。
城砦としては那須城・吉田城・高野瀬城・赤田城があった。那須城は那須与一の次男と伝わる那須宗信の居館で、現在の八幡神社。宗信はのちに仏門に入り、称名寺の開祖となった。
吉田城は近江源氏六角氏の一族である吉田氏の居館で、現在も跡地は「吉田屋敷」や「城屋敷」と称される。吉田氏は応永年間(1394-1428年)に上洛し、1496年(明応5年)から京極氏が入城した。上洛後の吉田氏の子孫に角倉了以がいる。
高野瀬城は六角氏の部将である高野瀬氏の居館で、現在の古河AS豊郷工場。赤田城は永正年間(1504-21年)に赤田源隆が多賀荘(現在の多賀町)から移り住んだ居館で、現在の白山神社。源隆はのちに仏門に入り、常禅寺(八町)の開祖となった。

江戸時代には全域が彦根藩領となった。中世から続く商業活動がなお活発に行われ、江戸時代から近代にかけて多くの近江商人が生まれた。
特に下枝村の藤野家は蝦夷地の開拓・交易で成功、貧民救済事業でも活躍した。また伊藤忠商事・丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛は八目村の出身である。
明治以降も藤野家や伊藤家をはじめとする豪商達は豊郷の発展に大きく貢献した。しばしば村政に関わったほか、石畑郵便受取所(現在の豊郷郵便局)の開設(1901年、中島常七)、電話サービスの開始(1912年、二代目伊藤忠兵衛)、豊郷病院設立(1925年、七代目伊藤長兵衛)、豊郷小学校校舎建設(1937年、古川鉄治郎)などの功績が残っている。


■■ 先人を偲ぶ舘

豊郷町四十九院

豊郷町は商業の礎を築いた豪商、近江商人をはじめ幾多の傑出した先人を世に送り出しました。幾多の先人達は小さな枠の中におさまることなく時代を見つめ、自分を見つめて活躍の場を全国各地に求めた。
一方、常に故郷を思う心や人々への慈愛を失わず、多大な功績を世に残した。
こうした人々の夢を語り継ぐため「先人を偲ぶ舘」は彼らの慈愛や遺徳を学び、次世代に生きる者の心の糧になることを目的に計画された施設である。
この建物は薩摩氏が寄付した「フランス・パリの日本館」をモチーフにデザインされたものである。
豊郷に生まれ全国で活躍した8人、薩摩治兵衛・伊藤忠兵衛(伊藤忠、丸紅)・古川鉄治郎(丸紅)・伊藤長兵衛(丸紅)・北川嘉平・藤野喜兵衛・村岸峯吉・碓居龍太、の遺品や生い立ち、業績が展示されている。

 



■■ 伊藤忠兵衛記念館

豊郷町八目

近江鉄道豊郷駅から歩いて10分ほどの中山道沿いに建つ。「みこしの松に黒い塀」がひときわ目をひく。
大手商社の「丸紅」「伊藤忠商事」の創始者初代伊藤忠兵衛は1842年、繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生まれた。
17才で近江麻布の行商に出かけ、長崎の出島で外国貿易の盛んな状況を見て刺激を受け、わが国貿易のパイオニアといわれるほどになった。
後に、豊郷村の村長にもなり郷土人からも愛された。
記念館は「開国後のわが国は、貿易の拡大のよって開かねばならない」と信念を貫いた伊藤忠兵衛の本家を解放したものである。
邸宅には、伊藤忠兵衛の所蔵の品が多数展示されている。

  



■■ 豊会館

豊郷町下枝
旧中山道に面してある。下枝は中世には枝村商人の本拠地で、京都宝慈院を本所とする美濃紙の座をもち、京畿に販売していたが、藤野家からも又三郎・又十という紙商人が出た。
江戸時代幕末の頃、北海道に渡り呉服屋の見習いから、「柏屋」という屋号と「又十」の商標の呉服屋を創り、そのかたわら漁場を開き廻船業まで経営した藤野喜兵衛の旧邸である。
藤野喜兵衛(初代四郎兵衛)は、豪商高田屋嘉兵衛と提携して廻船事業にも進出し、北前船7隻を持つまでになった。
彼は、当時の松前藩から絶対的な信頼を受け多くの漁場を開き、根室、千島列島全島の漁場から鮭鱒を捕獲して大阪、兵庫下関に輸送し販売に手がけた。
彼の業績は代々受け継がれ、鮭鱒缶詰工場と発展し、「あけぼの印の缶詰」で知られるようになった。
会館の建物は「又十屋敷」と呼ばれ、当時の書院、本屋、文庫倉庫、純穴作の庭園がほぼそのまま残されている。
また、彦根藩主井伊直弼から拝領した多くの武具や調度品も合わせ展示されている。
この地から壮大な夢を描いて北海道に飛来した喜兵衛の足跡が、展示された松前屏風や長者丸の模型に見る事が出来る。

この屋敷は天保飢饉に見舞われていた天保7年(1836)に二代目四郎兵衛が窮民救済の一策として建築されたものである。
近江商人の多くが、飢饉や不況の際に寺院の建立や住宅の新築、改築などを行い、地域経済活動の活性化と人々の生活援助を行なうことが多く見られ、「飢餓普請」とか「お助け普請」等といわれた。
この藤野邸の建築もまさにこうした類のものであり、千樹寺の再建も同時期である。これを藤野家の屋号又十にちなんで「又十の飢餓普請」と呼んだ。

 

松前庭園
屋敷内に鈍穴作といわれる池庭式の庭園がある。県の名園100選に選ばれている。
書院正面に築山、園池と芝池からなる。大ぶりの飛石、池の端にかかる切石橋、3m余の大立石、自然石の縁先手水鉢等に鈍穴の作風が表れているとされる。
多数の石灯籠は、昭和初期に運び込まれたものである。
 



■ 阿自岐神社

応神15年(284)に、百済王(照古主)が阿直岐(あちきー百済国の学者・博士)を日本に遣わし、良馬を献じた。
この人が、応神天皇の子菟道稚郎子(わかいらつこー皇太子)の師となって経典(学問)を教えた。後その功績によって、近江の国犬上の郡に土地をもらった。今の犬上郡豊郷町安食である。
この神社に祀られているのはアジスキタカヒコネの神で阿自岐神氏のことである。
阿自岐氏はかなり高貴な百済系の渡来人で、この庭園づくりに、日本に漢字を伝えた王伝氏を招いたとされる。
それはなんと今から約1500年前のことだから、まだ庭など無かっただけに、阿自岐庭園は古代豪族の憩いの場とであったのでないかと思われる。
当社は、上古の神社として「延喜式神名帳」にも名を残しており、全国数指の中に入るといわれる由緒ある神社である。
古くから産土神として土地の人々の崇敬を集め、栄えてきた。

  


■ 天稚彦神社

 

豊郷町高野瀬
祭神:天稚彦命(あめのわかひこのみこと) 大国主命(おおくにぬしのみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと)

伊藤忠兵衛記念館より600mほど離れたところ、中山道沿いより少し奥まったとことにある。
古社で愛知郡式内軽野神社(かるの)とも伝えられる。御鎮座は光仁天皇の御代とされ、中山道に近い関係より、戦国の時代には度々兵火に遭い社殿が焼失した。
現在の本殿は延宝7年(1679)に再建されてものである。
上古には社地は広く八町四方もあり将軍足利尊氏のとき、京極家の被官であったこの地の豪族高野瀬氏が高野瀬村に城を築き、当社を守護神として仰ぎ日次、月次の神事を執行した。
毎月17の日を市日、正月8日を初市日とし、高野瀬家の吉例として当社に神饌20種の魚類を神供し、8日の初市には9種の鳥類を献し、城主自から祭典を行う程信仰が篤く、市を開く等商業の振興にも力を注いだ。
同氏が氏子に奨励した瓜は禁裏や将軍家に江瓜として献上されたといわれる。
境内社は約1000坪で、本殿・拝殿以外に、幣殿・絵馬殿・神饌所・神輿庫・手水舎・斎舘・社務所が建つ。



■ 唯念寺

 

旧豊郷小学校から500m程離れた中山道沿いにある。隣には先人を偲ぶ舘や旧豊郷尋常高等小学校《国登録有形文化財》が建つ。
天平3年(731)、行基がこの地に四十九院を建立したと伝えるが、そのうちの一つといわれる。
ここには日光東照宮の造営に関与した甲良(こうら)豊後守宗広の木像がある。
唯念寺は天平年中に行基が聖武天皇の勅を受けて当地に一宗を建立したことに始まる。
本尊は行基自らが彫ったとされる弥勒菩薩と弥勒菩薩像を安置し、他に山号を兜卒山、寺号を四十九院と名づけられた。
これは弥勒菩薩経の四十九重摩尼宝殿によるもので兜卒内影を顕すために、当院と奥の院であった奥山寺(荒神山)との間に点在して多くの堂舎が建立された。
現在、これらの堂舎の名称は地名として残っている。
当地の地名も、弥勒菩薩の本院である兜卒山四十九院のある邑(むら)として世に知られ、その寺名が村の呼び名になったとされる。

はじめは法相宗であったが、その後天台宗をあわせ、永正3年(1506)に本願寺実如が照光坊と称する道場にした。
元亀元(1570)、唯念寺二十七世であった巧空は、摂津の石山本願寺が織田信長の攻めにあうと聞き、門徒200人とともに救援に出発観音寺山(安土)付近で信長勢に囲まれて討ち死にし、門徒の多くも戦士した。
このため本願寺顕如は、巧空の十七回忌に際し、唯念寺二十八世の巧寂宛に弔状を送り、当寺に永く本山直門の寺格を許すとし、さらに照光坊の名を改め「唯念寺」の名を与えた。
元和元年(1615)、彦根藩主井伊直孝は大阪夏の陣に際して、当寺など真宗四カ寺に対して、大坂方の後方撹乱と隣国の一揆に対する警戒を依頼した。

芙蓉閣(書院)
この寺で最も古い建物で室町期に建立の書院建築。建築当時の七堂伽藍の一つにあたる。
当初の三階建は歳月とともに階下のみとなったが、床柱などから昔の趣が忍べるとされる。
また、書院の前庭は「皇苑」と称された。建立当時、後光厳天皇の行在所があったことによる。芙蓉の名も授けられとされる。
寛永年中徳川家康の工匠甲良宗広が江戸城、二条城の修・改築、日光東照宮造営を終わって唯念寺に身を寄せた当時、唯念寺本堂再建に奉仕したもので、様式は本山同様に設計され、内部は日光東照宮不要の絵具を用いて光彩を加えたとされる。
襖戸には、現在もその絵具の残存している箇所がある。
現在は非公開のようである。

芙蓉庭園
蓬莱式枯山水として知られ、北条時頼もこの庭を愛好したといわれる。「行基の庭」とも呼ばれた。
庭は蓬莱式枯山水で、築山が滝石組を基点として東方南に走り、中ほど大岬石、島々州崎が護岸石組、中央鶴亀の二島、築山に椎の大樹など、築山、枯泉池、泉石の景色もよいとされる。
最近は荒廃が進み、公開中止となっている。

後光厳天皇と将軍足利尊氏
嘉暦年中(1326)将軍尊氏は、しばしば当院に逗留し、その際、法堂を再建した。
文和3年(1354)義詮(よしあき 尊氏の子)は、後光厳天皇を奉じて当院を行在所とし難を避けた。
南北朝時代は常に将軍の逗留地となっていた。
その時、天皇より兜卒山四十九院の勅額を拝した。

甲良豊後守宗廣との関係
宗廣が故郷に帰ったのは日光東照宮の大事業も終わり、大棟梁職を長子の宗次に譲ってからが通説になっている。
寛永16年(1639)の寛永寺の五重塔を創建した後とされる。宗廣68才頃と推定されている。
32才で出府し、68才に故郷へ、この30数年間に江戸・日光その他において幾多の大功績を残し、一人で帰ってきたとされる。
宗廣は壇那寺であった唯念寺に身をおいた。そこから思い出のある京都に度々往復などして余生を送った。この間唯念寺に残る資料には「宗廣在世中に浄財を寄付して寺院を起立した」とある。
唯念寺で安心立命仏道修行の静かな余生を送っていた時に、自分の肖像彫刻「木像」を残した。今も唯念寺の秘宝として大切に保管されている。
宗廣は正保3年(1646)病を得て京都で没した。ときに年74才であった。

唯念寺の秘宝である自刻の像
彫刻像は法体の姿で、阿弥陀如来に向かって静かに合掌されている姿という。
木像は総高約43.6cm、その頭、耳の大きさが宗廣の人並み優れた明晰な頭脳の持ち主であったことを表し、目元のおだやかさ引き締まった口元に如何にも意思の強固な人柄であったことをこの像が物語っているとされる。


■八幡神社と称名寺

八幡神社
 

犬上郡豊郷町石畑437
祭神:譽田別尊
旧中山道沿いにある。直ぐに旧豊郷小学校である。
源平合戦で、扇の的を射落して弓の名人となった那須与一宗高は、その時の功績で近江の国の石畑と木部(野洲)の領地となった。
この辺りは、次男・石畑宗信という武将の城跡だった。
宗信は、この辺りを支配していた佐々木氏(観音寺城・安土)の旗頭で、石畑と木部(野洲)の領地を治めていた。
八幡神社は宗信が延応元年「1239」に京都の石清水八幡宮の応神天皇の分身を奉り建立した。
織田信長の兵火で荒廃したが、宝暦9年(1759)に社殿を再建。この時の棟札には表に工匠島治藤八孝道、裏には災厲不起。国豊民安兵戈無用などとある。
境内には樹齢700年というケヤキがある。大きなケヤキは夫婦ケヤキと呼ばれ大木100選に入っている。
この寺の住職はそれ以来、那須の姓を名乗っている。
本殿以外に、神門、太鼓庫、手水舎、社務所、がある。


称名寺

浄土真宗称名寺は、宗信が晩年になって親鸞上人の弟子となり出家して、正嘉2年(1258)年に開創したもの。
延元2年(1337)本願寺覚如より寺号を授かった。
森徳兵衛が延享4年(1747)再建している。


 


■ 千樹寺

 

臨済宗千樹寺は一般に観音堂と呼ばれている。
この寺も唯念寺と同じく行基が創建したもので四十九院の一つである。
織田信長の兵火に遭いこの寺も焼失した。しかし、本能寺の変で信長亡きすぐ後、近江商人となった藤野喜兵衛の先祖、太郎右エ門が寄付して再建したもの。
この落慶法要で時の住職が境内に人形を沢山並べお経に音頭の節をつけて唱え、しかも手ふり、足ふり拍子をそろえて踊り出した。
見物人も面白くなって踊り出し、ついに夜のふけるのも知らずに踊りあかしたといわれる。
今の「江洲音頭」の始まりだった。
その後、また寺は大火にあって焼失した。この時も喜兵衛の二代目藤野四郎兵衛が寄金して再建した。
そして、この時の落慶法要は一段と華麗さを増した踊りが編み出されました。
それは、八日市の唄づくりの名人を招き、お経の文に一般向きの分かり易い音頭をつくって歌わせた。
さらに絵日傘音頭、扇踊りとして現在に伝わっています。
特長のある江州温度がこの地に生まれたのは、ユニークな和尚さんと信仰厚い郷土人と近江商人の深い郷土愛があったからといえる。






■■■■■ 丁吟の小林家


■■ 近江商人郷土館

滋賀県東近江市湖東町小田刈 (愛知川右岸)
近江商人小林吟右衛門の居宅。現在は財団法人近江商人郷土館となっており、多数の関係資料を展示する。


歴史

近江盆地の中に広がる湖東平野は、渡来人の伝えた文化が色濃く残り、鈴鹿山麓には西明寺・金剛輪寺・百済寺の名刹がある。

西明寺・金剛輪寺・百済寺
   

江戸時代後期から明治にかけて登場した湖東地方の近江商人は、近代企業に転進して今も老舗企業群として存続 している。
『丁吟』の屋号で知られる小林吟右衛門家の家屋と土蔵を改修して、昭和54年(1979)に公開、近年まで当主が住まいしていたこともあり、館蔵品や建物の保存状態に優れ、近江商人の商業活動や生活様式を克明に伝える。
小林家は代々丁子屋吟右衛門を襲名し、「丁吟」と略称されていた。
寛政(1789〜1801)頃から天保(1830〜44)頃にかけて当村の庄屋を勤めていたが、寛政10年(1798)に商いを志し麻布の行商からスタート。
やがて織物卸業・金融業を江戸・京・大阪で手広く営み、彦根藩の御元方の用達金や為替の御用達をつとめ、苗字帯刀を許されていた。
明治には、横浜正金銀行・東京株式取引所の設立発起人となり東京銀行(後の近江銀行)小名木川綿布工場(後の富士紡績)治田鉱山(三重)近江鉄道の創設経営に参画した。
大正10年(1921)チョーギン株式会社と改め現在に至る。
幕末から明治にかけて活躍した小林家は、豊郷町の藤野家と同様に彦根藩井伊家とのつながりが密接で、幕末の動乱期の情報資料や、明治の殖産興業政策に関与してきた経緯を知る資料が多く保管・展示されている。
万延元年(1860)桜田門外で惨殺された井伊直弼の、その時の状況を伝える文書が残っている。
井伊家の江戸屋敷から彦根城に事件の真相が伝わる以前に、丁吟から情報が届き、状況の変化に対処できたとされる。
全国に張りめぐらせた情報網の確実さ、迅速さを物語る一例である。
近江商人の近代社会への適合として、対応することに適合し成長を達成した事例が『伊藤忠』、必ずしも適合的な対応を維持できなかった事例が『中井源左衛門家』、両者の中間的な存在の事例が『丁吟』といえる。

開館は昭和54年(1979)。現在は、保管資料などを目当てとした専門家の見学が多い。
県道に接して、船板や焼板を張り巡らした大規模な構えの屋敷が目に入る。
敷地面積約3300㎡、建物延面積1046㎡である。
 

8つの蔵を擁する大屋敷は、19世紀中頃までに建てられ、その後主屋が改築され、明治2年に主屋と新座敷を接続し隠居蔵が作られてほぼ現況のようになった。

旧小林家全景
 

巽蔵(資料館)
木造2階建の土蔵で大きな造りである。内部はショウケースを設置し、幕末から近代初期の関連品が数多く展示されている。
  

主屋
主屋の主体部分は、桁裄14間、梁間5間の入母屋造、桟瓦葺。その中央部がつし2階となっている。
ここは桟瓦葺の切妻造、黒漆喰塗り外壁である。
内部はゆったりとして広い。主屋のほうを生活館と称し、同店で用いていた商用具、家具、古文書などの資料が系統的に展示されている。
一見して貴重品と思われる磁器や什器類などが並ぶ。箱階段も使われている。
  

隠居蔵
隠居後の当主統括の場となっていた。 ここから従業員、その他を管理していた。
滑車付きの戸、校倉造、盗難防止の装置などが設けられている。

大蔵
  

川戸(川戸蔵)
 

台所周辺
 





■■■■■ 近江商人との対比で参考となる商人の系譜


■■■ 高島屋、飯田家の系譜

1831年(天保2年)、京都で飯田新七が古着・木綿商を開く。海外の博覧会に豪華な刺繍を施した着物などを出品し、数々の賞を受賞したことで、その後、宮内省御用達の栄誉を冠する。1919年(大正8年)には改組し、株式会社 高島屋呉服店として大阪・長堀橋に店を構える。1932年(昭和7年)には、現在の大阪店が入居する南海ビルディングが大阪・難波に竣工し、東洋一の規模を誇る大規模百貨店を開店する。また、翌年1933年(昭和8年)には、東京・日本橋に東京店を開店させ、知名度を飛躍的に高めた。戦後に入ると、相模鉄道と合弁し、横浜高島屋を開店させるなど、主要都市の要所への大型店舗の展開を成功させ、今日の地位を築いてゆく。


■■■ 大丸、下村家の系譜

1717年に下村彦右衛門正啓が今の京都市伏見区京町北八丁目77に呉服店 大文字屋を開業し、呉服商を出発点として両替商を兼営していた。
1726年大阪心斎橋に進出。1728年に名古屋本町に名古屋店を開き、「大丸屋」(のち閉鎖)と称した。
大塩平八郎の乱では、「大丸は義商なり」と焼き打ちを免れたという。これは、往時の豪商が施餓鬼(せがき)として毎年貧しい人に食料や衣服等を援助し、今日のボランティア的な活動を行って利益の再分配をしていたことに対する庶民感情の表れでもある。また幕末には幕府軍に物資を調達した[1]。これら『先義後利』の精神は、現在も大丸の企業理念として継承されている。


■■■ 越後屋、三井家の系譜

三井家の家伝によると、藤原道長の6男長家の五代孫藤原右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない[1][2]。12代三井出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国松阪近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。
慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松阪に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松阪で自らの店を開いている。


■■■ 石田梅岩の商人道思想 

京都府亀岡市に、百姓の次男として生まれる。1695年、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰る。1707年、23歳の時に再び奉公に出て働く。1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、45歳の時に借家の自宅で無料講座を開き、後に『石門心学』と呼ばれる思想を説いた。すなわち「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としている。したがって梅岩自身は『性学』といっていたが手島堵庵のなどの門弟たちによって『心学』の語が普及した。当初は男子のみを対象としていたが、聴講を望む婦女子多く、障子越しの別室にて拝聴を許された。1744年、60歳で死去。
その思想の根底にあったのは、宋学の流れを汲む天命論である。同様の思想で石田に先行する鈴木正三の職分説が士農工商のうち商人の職分を巧く説明出来なかったのに対し、石田は長年の商家勤めから商業の本質を熟知しており、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。最盛期には、門人400名にのぼり、京都呉服商人の手島堵庵(1718--86)、をはじめ「松翁道話」を著した布施松翁(1725--84)、心学道話の最高峰とされる「鳩翁道話」の柴田鳩翁(1783--1839)、このほかに・斎藤全門・大島有隣等優れた人材を輩出した。倹約の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方はアメリカの社会学者ロバート・ニーリー・ベラーによってカルヴァン主義商業倫理の日本版とされ、日本の産業革命成功の原動力ともされた。

1970年代頃からの環境問題への意識の高まりや、企業の不祥事が続く中、CSR(企業の社会的責任)が欧米を中心に盛んに言われるようになったが、そのような背景の中で「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、実にシンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びている。その思想もやはり営利活動を否定せず、倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。
松下幸之助 は同じく丁稚から身を起こし、梅岩に倣ってPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。
主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。
現在、京都府亀岡市の道の駅ガレリア亀岡内に石田梅巌記念施設「梅岩塾」が併設されている。

 

主要参考文献

日本橋関連

原寸復刻「江戸名所図会」 評論社 2006
「日本橋区史」 昭和12年
「日本橋・堀留 東京織物問屋史考」 白石孝 文真堂 1994
「日本橋界隈の問屋と街」 白石孝 文真堂 1997
「日本橋街並み商業史」白石孝 慶応義塾大学出版会 1999
「日本橋トポグラフィ事典」武田勝彦他 たる出版 2007
「「バロン・サツマ」と呼ばれた男」 村上紀史郎 藤原書店 2009
「東京市地籍簿 日本橋区編」 大正14年
「東京市日本橋区地籍台帳」 昭和8年


綾瀬関連

「大東京鳥瞰写真地図」 日本地図センター
「昭和30年代・40年代の足立区」 足立史談会監修 三冬社 2008
「足立区史」 足立区
「絵で見る年表 足立風土記」 足立区教育委員会
「ブックレット足立風土記」 足立区教育委員会 
「あだちのあゆみ」 足立区立郷土博物館
「足立区の文化財」 足立区教育委員会
「写真で見る足立区40年のあゆみ」 足立区
「写真に刻み込まれた足立区50年の軌跡」 足立区
「幕末が生んだ遺産 夜明けを駆け抜けた地域の群像」 足立区立郷土博物館
「特別展 江戸四宿」 特別展江戸四宿実行委員会


近江商人関連

近江商人博物館ほか