JAPAN GEOGRAPHIC
東京都文京区 茗荷谷、切支丹坂付近
Myogadani,Kirishitanzaka,Bunkyoku,Tokyo
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Mar.30, 2013 松田浩志
茗荷谷、しばられ地蔵付近
Myogadani, Shibararaejizo
拓殖大学
「切支丹坂の地霊」
瀧山幸伸
国土地理院 1/25000地図
江戸切絵図 東都小石川 (国土地理院蔵)
現在の切支丹坂
現在の切支丹坂は、文京区小日向一丁目十四と二四の間にあり西向きに上る坂とされている。切支丹坂が地理的にどの場所を指すかについては、江戸時代より今日に至るまで多くの論がある。この付近の土地利用が、切支丹屋敷と地下鉄施設として時代とともに大きく変遷した上に、少ない文献からの推測では限界があるからであろう。現在の切支丹坂は明治20年頃に開かれたもので、歴史性は感じられない。「切支丹坂」と呼ばれるからには、この坂が切支丹屋敷に因んで付けられたことは間違いない。私が妥当と考える真の切支丹坂は庚申坂である。平面的な「切支丹屋敷に行く坂」と捉えることではなく、「切支丹屋敷を望見する坂」なのだという論点だ。切支丹屋敷に行く坂は、
正保三年(1646)の切支丹牢屋敷成立以後、東からの庚申坂、南西からのアサリ坂、北西からの茗荷坂と七軒屋敷新道の坂があったが、どれが最も多くの人に認知されたかは、間違いなく庚申坂であろう。庚申坂は、当時から大往来であった春日通りから切支丹屋敷に下る急坂で、多くの往来人が坂の上からこのおどろおどろしい切支丹屋敷を目のあたりにして、手を引く子に、「あれが切支丹の牢屋敷だよ。言うことをきかないとあそこにいれられちゃうよ。」とでも言って聞かせたのではあるまいか。要するに、名所が見物できる坂名と捉えることが妥当だろう。庚申坂上、現在の茗台中学付近から見る切支丹屋敷跡周辺の俯瞰写真がそれを証明している。
永井荷風は『日和下駄』にこう記している。
「第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂が斜めに開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町の裏へと攀登っている。」
夏目漱石の『琴のそら音』にも登場する。
「竹早町を横ぎって切支丹坂へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽だと笑った事を思い出す。今夜は笑うどころではない。命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格言のように胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗く。険呑だと八合目あたりから下を見て覘(ねらい)をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通はぬ程に坂を蔽ふて居るから、昼でも此坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、有ると思へばあり、無いと思へば無い程な黒いものに雨の注ぐ音が頻りにする。此暗闇な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上る迄がちと気味悪い」
志賀直哉は『自転車』で切支丹坂をとりあげている。
「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるという事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなにむつかしくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切った所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だった。私は或る日、坂の上の牧野という家にテニスをしに行った帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬようにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするようなもので、中心を余程うまくとっていないと車を倒してしまう。坂の登り口と降り口には立札があって、車の通行を禁じてあった。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだろうという満足を感じた。」
西側から見た切支丹屋敷跡
蛙坂
藤坂と藤寺
庚申坂
庚申坂上(茗台中学)から見た切支丹屋敷跡付近
「御府内沿革図書」元禄十四年之形(1701) 当時の切支丹屋敷と七軒屋敷(切支丹屋敷の一部を御家人屋敷に転用)周囲の坂配置
切支丹屋敷図(小日向志)
さて、坂名の由来となった「切支丹牢屋敷」という重い言葉に因み、もし自分が当事者だったらという視点で、土地の記憶と歴史に翻弄された人々の思いを探ってみよう。
屋久島の最南端に立つ二人
話は屋久島の最南端から始まる。百年違いでここに立った二人の人物、伊能忠敬とシドッチ。二人は偶然この地を踏んだわけではなく、鎖国と切支丹禁制という幕府の重要政策でつながりがある。薩摩藩密貿易の内状偵察の命も帯びていたといわれ、最南端の測量地として訪れた忠敬、ローマ法王から幕府への切支丹解禁説得の命を帯びていたイエズス会宣教師シドッチ。屋久島の宮之浦岳は九州一高く、島全体が独立峰であるため、航海上重要な地理的ランドマークであったことが必然的に二人をこの地に誘導したのではなかろうか。
屋久島の最南端からトカラ列島に沈む夕陽を見る
鎖国と西欧 伊能忠敬とシーボルト
まずは伊能忠敬から歴史の紐を手繰って行こう。寛政四年(1792)、ロシアのラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航し日本との通商を求めて以降、外交情勢が徐々に騒がしくなる。当時、忠敬は私財をなげうっても全国の測量をするべく、幕府天文方の高橋至時に師事し測量の準備をしていた。寛政十二年(1800)、忠敬のそれほどの熱意に幕府はようやく沿海部測量の重要性を理解し、彼に全国の測量を命じた。忠敬が屋久島を訪問したのは文化九年(1812)、大日本沿海與地全図が完成するのは彼の死後、文政四年(1821)と非常に手間暇のかかる作業であった。ちなみに、この地図は極端に精度が高く、明治新政府になってもそのまま元図として使用できた。
悲劇は地図完成後に起こる。至時を継いだ長男景保は、オランダ商館医シーボルトから贈られた世界全図との引き換えに、純粋に学術的な情報としてこの日本地図の縮図を渡す。地図は国外持ち出し禁制品であったが、シーボルトがこれを国外に持ち出そうとしたのが文政十一年(1828)。景保は死刑に処せられ、シーボルトは共に暮らした楠本タキと二歳の娘イネを残して国外追放となる。彼が日本の母娘に宛てた切ない手紙が読者の胸を打つ。イネはその後シーボルトの門弟二宮敬作に庇護され、彼の出身地宇和の卯之町で育つのだが、成長してからは同じくシーボルトの門弟、岡山の石井宗謙のもとで医学を学んでいたのだが、彼との間に望まない子を宿し、長崎の母のもとでタダ(高子)を産み落とす。イネは不幸な出産後も医療に携わるのだが、医療でも難関が立ちはだかる。医師国家試験制度が創設され、受験資格が男のみに与えられたため産婆とならざるをえなかったのだ。後に女性に門戸が開放された時には彼女も高齢となっていたため、医者開業を断念せざるを得なかった。結果として生涯独身を通すことになったイネと同じく娘の高子も男運に恵まれず、歴史に翻弄される人生となった。
宇和卯之町
シーボルトの門弟高野長英も無念の人生であった。江戸で開国を唱え、蛮社の獄で囚われたが脱獄し、諸国を逃げ周っていた折、イネが育った宇和卯之町で一時かくまわれていたこともあった。江戸に戻った後は顔を焼いて変装するなどしたが、遂に捕われ、無念の死に至る。その長英は後藤新平の大伯父である。関東大震災後の大正十二年(1923)、帝都復興院総裁として天下国家の観点から復興計画を立案した新平は、莫大な予算に賛同が得られず計画の大幅縮小に追い込まれてしまった。因果なことに彼が計画した環状三号線が切支丹坂の傍を通る予定だが、百年近く経っても未だ完成していない。もし当初の計画が実践されていれば、今日の東京の諸問題はかなり軽減されていたであろうに、残念なことである。ことほどさように、蘭医の系譜が世界の先端知識を取り込み理念指導者として命を懸けて行動したことを鑑みるに、今日の医者や知識人のノブリスオブリージュはどこに行ってしまったのだろうか。シーボルトや高野長英を詳しく愉しみたい人には吉村昭の文学世界が待っている。
最後の切支丹屋敷収容者シドッチ
さて、本題の「切支丹」に話を進めよう。伊能忠敬の約百年前、宝永 五年(1708)に屋久島の最南端、唐の浦に上陸したイタリア宣教師人シドッチ。彼は教皇クレメンス11世を説得し、キリスト教解禁を幕府に訴える使命を帯びて日本上陸を図った。マニラで専用船を調達して侍姿で屋久島に上陸したのだが、侍姿であれば現地で虐待されることなく江戸送りとなるであろうと、さかやき髷に和服帯刀という外見を仕組んだのではなかろうか。
シドッチが上陸した入江
江戸では新井白石が彼を取り調べる。白石は学究的な立場であり、キリスト教の宣教師が西洋諸国の植民地化工作員ではないことは理解するが、「宣教師は見つけ次第拷問、転ばせる(棄教させる)こと」という定めを根本から変えてキリスト教を解禁するまでの建議は下せない。彼の建議の限界は、
・上策 本国送還 これは難しく見えるが、一番易しい。
・中策 囚人として幽閉 これは簡単なようで実は難しい。
・下策 処刑 これは簡単なようで実際、簡単。
というものであった。人間心理として、三択では中庸な策を選択する。彼が意図的にこれを選択させたとすれば、将来のシドッチィとの学術的交流に期待したのではなかろうか。もし上策を採用していれば、シドッチは目的を遂げるために必ず再来日したであろうから、易しい策とは言えない。もし下策を採用していれば、欧米諸国から大きな反感を買うこととなり、日本の開国も、明治五年まで続く禁教政策の終焉も速まっていたかもしれず、幕末から明治初期に行われた私刑を伴う凄惨な大弾圧も防げていたかもしれない。
中策は心理的刑罰としてあまりにも残酷である。シドッチは五人扶持という破格の待遇で切支丹屋敷に軟禁されるが、結果的には使用人の長介・ハルに洗礼を授けた罪で地下牢に幽閉され、正徳四年(1714)46歳で衰弱死した。その後この屋敷は使われなくなり、享保十年(1725)に全焼、以後再建されなかったが、切支丹屋敷の制度は寛政四年(1792)の宗門改役の廃止まで続いた。
白石とシドッチの出会いを太宰治が『地球図』という短編に仕上げている。また、藤沢周平が『市塵』で新井白石の生涯を取り上げており、その中でシドッチ取り調べが登場する。
『沈黙』の時代 切支丹屋敷成立の頃
切支丹屋敷の歴史は正保三年(1646)に遡る。江戸送りとなった宣教師を伝馬町の牢に入れた後、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建てて収容したのが起こりである。遠藤周作の『沈黙』は当時の人々を描いたものだ。そもそも宗教のために我が命を捧げるという事例は世界の歴史上普遍的なものではない。それゆえにキリスト教の歴史の中でも日本の切支丹殉教は特別な扱いを受け、世界遺産ともなるのである。
舞台は長崎の各地と熊本の天草に飛ぶ。世界遺産「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の地を訪問してみよう。寛永十四年(1637)、老若男女乳飲み子まで37000人といわれる籠城者全員が皆殺しとなった島原の乱は、本質的には重税に抗する農民一揆に反体制派の浪人が加担したものであり、宗教戦争ではない。その点では明治初期の西南戦争との共通点も見受けられる。だが、切支丹の結集力という点において幕府を震撼させるものであったため、乱が終結した翌年以降、幕府は切支丹への弾圧を厳しくする。
島原の乱の舞台 原城跡(国史跡)から天草方面を望む
島原の乱後も熱心な宣教師は禁を犯して日本への上陸を続ける。寛永二十年(1643)、イエズス会宣教師5人が捕われ江戸へ送られた。拷問に堪えず皆転宗したが、その中でも宣教師キアラは素直に転び、切支丹屋敷において岡本三右衛門と改名帯刀して十人扶持となり日本人の女房を与えられるのだが、下男下女への布教を通じて密かに立ちあがる(元の宗教に戻る)。キアラは88歳で没するまでこの屋敷に監禁された。彼が『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルだ。信仰とは何か、愛とは何か、裏切り、身代わりなど、人としてどのように生きるべきかを深く考えさせられる。
遠藤周作
1923-1996 小説家、文芸評論家、劇作家 東京都豊島区北大塚に銀行員の父と音楽家の母との二男として生まれる。父は鳥取出身。幼少期、父の仕事で大連に住むが、両親の離婚に伴い帰国し母兄と共に神戸に移る。この時代にカトリック夙川教会で洗礼を受ける。灘中学、慶應義塾大学文学部仏文科卒後、フランス留学を経て1954年から作家活動に入る。
『白い人』が翌1955年芥川賞を受賞する。自身が戦争中キリスト教信者として不条理な扱いを受けたこともあり、キリスト教哲学と日本人の人生観との不整合を終生の主題として取り上げ、作品に色濃く反映している。
『沈黙』
遠藤周作自身のキリスト教に対する問題意識をもとに、江戸時代初期におけるキリスト教弾圧の史実に基づいて創作した歴史小説。1966年に執筆され新潮社から出版された。主人公のポルトガル人宣教師を通じてキリスト教哲学と日本人の人生観の不整合を問うた。第二回谷崎潤一郎賞を受賞。このテーマはその後『死海のほとり』『侍』『深い河』などの小説でも取り上げられた。戦後日本文学の代表作として高く評価されている。
物語の背景である長崎西彼杵半島の西側、外海(そとめ)には隠れ切支丹が多く住んでいた。迫害をのがれてこの地を去り五島列島に渡った信者も多かった。小高い岬に立つ遠藤周作文学館から北を望むと正面に出津(しつ)地区が見える。
この地区と『沈黙』の物語を重ね合わせてみよう。
五島列島に潜入したポルトガル人司祭セバスチャン・ロドリゴは、隠れ切支丹たちに歓迎されるが、長崎奉行所に追われる身となる。 幕府に処刑され殉教する信者たちを前に、同僚であるフランシス・ガルペは彼らの元に駆け寄り命を落とす。神の奇跡と勝利を信じ、ただひたすらに祈るロドリゴ。奉行所に囚われたロドリゴは、棄教したイエズス会の師であるクリストヴァン・フェレイラと念願の再会を果たすことに……。
ロドリゴを慕った「隠れ切支丹」とは、実在した集団だ。厳密には「潜伏切支丹」と呼ばれ、日本でキリスト教が禁止されてから、明治6年に禁教令が解かれて信仰が自由になるまでのキリスト教信者のことだ。それとは別に「かくれ切支丹(昔切支丹と呼ばれる)」とは、禁教令が解かれた後も隠れてキリスト教を信仰した信者をさす。潜伏時代の秘教形態を守り、カトリックに戻らなかった信者たちだ。
『沈黙』では、切支丹弾圧の渦中に置かれた主人公が悩む、日本人の信仰の根源的な不可解さ、自己の信仰と人々の救済とのジレンマ、そして神の意味がテーマとなっている。潜伏切支丹たちの厚い信仰心、残虐な拷問の数々が事細かに描かれているからこそ、今なお主人公の驚きや苦しみが手にとるように読者に迫ってくるのだろう。潜伏切支丹たちは、ひそかに信仰を続けるうちに、その信仰は本来のカトリックとは大きくかけ離れたものとなった。日本の観音信仰とキリスト教の聖母マリア信仰が混じりあい、カムフラージュであった仏教や神道の思想も色濃く残り、独自の宗教といっても良いほどだ。唱えるオラショには、神道、仏教、さらにはアニミズムまでが混合しており、言葉の意味自体が信者たちにも分からなくなっている。一種の呪文に近いものだ。『沈黙』の中で、ロドリゴとフェレイラが再会するシーン。高名な神学者でもあったフェレイラは、切支丹たちの信仰について語る。
「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」
自分が棄教したのは、幕府の権力や拷問に屈服したのではなく、日本における布教の限界を目の当たりにしたからである……と語るかつての師を、ロドリゴは頑なに受け入れようとはしなかった。
当時活躍した日本人宣教師バスチャンは出津の山影に潜伏して人々に教えを広めていたが、ある日煮炊きの煙を発見され捕われる。外海の村人の間で今なお語り続けられている伝説の神父バスチャンの隠れ家が復元されている。バスチャンは少年時代深堀(長崎市南部)の菩提寺(カトリック天主堂)で門番をしていた。慶長十五年(1610)、日本人宣教師ジワン神父の弟子となり、外海一帯で布教活動を行った。明暦三年(1657)の大村郡崩れでは、600余りの切支丹が捕らえられる。生きながらに筵に包まれ湾に投げ捨てられた遺体を集めるために、バスチャンは献身的に祈り働いた。密告によって長崎の監獄へ護送され、3年3か月の間78回もの拷問にあい、最後は斬首された。死刑執行前に役人に託した聖物(キリストの架かれる黄金の十字架)は今なお外海切支丹の間で大切に保管され崇敬されている。
バスチャン隠れ屋敷
サンジワン枯松神社
かくれ切支丹の祈り偽装のための神社。バスチャンの師ジワンが祀られており、境内には信者の墓石が残る。
維新前後の切支丹受難
さて、時代は下って嘉永七年(1854)、日米和親条約を締結した日本はついに鎖国政策を放棄する。 安政五年(1858)には「日米修好通商条約」に従って、長崎、兵庫、神奈川、新潟、箱館を開港させた。これにより「外国人居留地内での教会建設ならびにキリスト教活動」が許されることになり、パリ外国宣教会のプティジャン神父らによって、慶應元年(1865)大浦天主堂が完成した。神父たちの使命は、キリスト教の再布教。そして切支丹禁制の下、潜伏していた切支丹を発見することだった。プティジャン神父は、豊臣秀吉により慶長元年(1597)に長崎西坂の地で処刑された日本二十六聖人に捧げるためにこの聖堂を建立した。そのため、正式名称は「日本二十六聖人殉教者聖堂」という。当時の人々は「フランス寺」と呼んでいたが、地名にちなんで「大浦天主堂」と呼ばれる。献堂式後間もない頃、浦上に代々潜伏していた女性の隠れ切支丹がプティジャン神父に密かに名乗り出るという劇的事件があり、これがローマ法王に報告され、東洋の奇跡と言われた。玄関正面のマリア像はその記念であり、慈悲深く大変美しい像だが、昭和二十年(1945)の原爆投下によって大浦天主堂も浦上天主堂も大きな被害を受けたことは歴史の皮肉だ。
浦上天主堂
原爆で首が吹き飛ばされた石像、眼が焼け焦げた堂内のマリア像などが訪問者の悲しみを誘う。
浦上天主堂の鐘 1946年1月7日 相原秀次撮影
明治六年(1873)に切支丹禁令が解けるまでは、日本人がキリスト教に入信することはまだ認められていないどころか、明治に入り隠れ切支丹への迫害は極度な凄惨をきわめていた。水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上四番崩れと呼ばれ、多くの切支丹が捕われて津和野などに流罪となるが、その地で激しい拷問を受けた。津和野では153人中36人が殉教している。また、長崎各地でも私刑をまじえた激しい拷問が行われた。
私刑は、切支丹禁教を理由に地元の異教徒が迫害したもので、その根底には地元での漁業などの経済的利権争いがあったと考えられる。この地区は従来から干しアワビ、ナマコなど俵物と呼ばれた重要輸出品の産地で、水産物などを巡る経済的対立が無ければ、宗教が違うという理由だけで隣人から私刑を受けるはずがない。現在最も濃いキリスト教コミュニティが残ると言われる平戸の生月島の住民に、かつてのキビナゴ漁の大隆盛時代の話を伺ったが、やはりここも海の幸に恵まれた土地だった。
新上五島 頭が島教会(国重要文化財)と拷問石。
キリスト教解禁後 ド・ロ神父と鉄川与助
禁令解除後の長崎は各地で隠れ切支丹が信仰復活を始めることとなる。隠れ呼び名の語呂あわせかどうか、クルス島とも呼ばれていた佐世保沖の黒島住民は信仰復活の公言とともに布教の重要拠点となり、壮大な黒島教会を造るに至る。
黒島教会(国重要文化財)
さて、理想郷とは何であろうか。切支丹禁令が解けた後、出津でキリスト教精神の理想郷作りに取り組んだマルコ・マリ・ド・ロ神父の功績は心を打つ。1840年フランスのノルマンディーに生まれ、ナポレオンの血筋ともいわれる貴族階級の出身であるが、彼の父親は革命を経た経験から、財産よりも大切なものを子どもに与えることを考え、革命の続く社会を生き抜くための実学的な教育を行った。ド・ロ神父は子どもの頃から農鉱業、土木、建築、医学、薬学などを学び、パリ大学で神学を専攻する。彼が28歳で長崎の地を踏むのは慶應四年(1868)のこと。来日後、3年前に落成したばかりの大浦天主堂に隣接して神学校を建設し、そこで石版印刷所を設立する。平板印刷の技術だけでなく、ひらがなでの印刷、キリスト教用語の統一など、後世に価値のある功績を残している。
「1868年歳事戊辰せん礼記」という教会カレンダーや、「聖教日課」など28種類以上もの本を印刷した。その後、明治十二年(1879)、外海地区の主任司祭として出津に赴任することとなる。28歳から74歳まで、祖国に帰ることもなく莫大な私財を投げうって布教活動を行い、出津の地に骨をうずめたド・ロ神父。布教に命を捧げるという姿勢はもちろんのこと、殖産を振興し、コミュニティ自律のために理想郷を築くというすばらしい業績を残した。
明治二五年(1892)頃の出津教会一帯
旧出津救助院 (国重要文化財)
ド・ロ神父による理想郷造りの結晶。一階はマカロニ・そうめん製造、染色、搾油作業場。二階は機織工場、修道女の生活の場、礼拝堂として利用されていた。
漁師の寡婦の働き場としての鰯網工場や診療所を設けるなど、明治初期の授産・福祉施設として他に類をみない文化遺産である。
五島列島や平戸島ほか多くの地に教会が建てられたが、世界遺産に挙げられている教会群建築のほとんどが五島出身の信者、鉄川与助の手によるものである。リブアーチ天井の内部は、信者でしかなしえない精巧な造りとなっており、建築費が嵩むのを厭わず理想の家(教会)を造り上げてきた信者の思いが伝わる。もちろん教会建築の経済的背景には漁業の隆盛があった。
その教会群も近年の漁業の衰退と過疎化高齢化の波には抗えず、野崎島の「旧」野首教会のように全島居住者が集団移住して無人島になってしまい、ぽつんと教会の建物だけが本来の目的を持たないで残るなど、多くの教会コミュニティが崩壊の危機に直面している。
新上五島町 青砂ケ浦教会(国重要文化財)
五島列島 野崎島 旧野首教会(長崎県文化財)
日本三大キリスト教殉教地
長崎や熊本ばかりではなく、暗く重く野蛮で哀しい切支丹話は山形の米沢と岩手の藤沢にもある。日本三大切支丹殉教地には、京都、津和野、金沢、江戸など諸説あるが、私は長崎と米沢と岩手としたい。江戸時代初期に全国で殉教した188名のうち、山形県米沢市北山原での殉教者は53名と全国で最も多い。初代藩主上杉景勝の時代は切支丹に関し寛容であったため、米沢には一万人もの信者が集まったと言われる。二代藩主定勝の時代、幕府の弾圧が厳しくなり、寛永五年(1629)やむを得ず家臣重鎮の甘粕右衛門ほかを処刑した。岩手の藤沢町大籠地区は仙台藩のたたら製鉄の地として栄えていたが、鉱山は閉鎖社会でもあり、宣教師による熱心な布教で多くの信者を擁していた。ここでも寛永十六年(1639)から数年間で300人以上の信者が処刑されたと言われているが、数の確証はない。その他、新潟県佐渡、大分県日出、福島県猪苗代町、秋田県湯沢市などにも切支丹殉教の遺跡が残る。
山形 米沢北山原
岩手 藤沢大籠
最後に、『沈黙』の主題の一つ、 「身代わり」についても長崎は偉大な人物を生んでいる。時代はずっと下るが、第二次大戦下アウシュビッツに収容され、妻子ある囚人の身代わりとなって餓死刑を受け、遂には毒殺されたコルベ神父。ローマ教皇庁から列福され、長崎の聖コルベ記念館に資料が保存されている。
永井荷風、夏目漱石や志賀直哉がこのような切支丹の苦難を知っていたかどうか知る由もないが、もし自分が迫害された人あるいは迫害した人の子孫であったら深く悩むだろうことは確かだ。全国各地の切支丹殉教に関わる地を訪問して、再度切支丹坂の地霊の重さをかみしめる。