JAPAN GEOGRAPHIC 

東京都墨田区 向島百花園

Mukojima Hyakkaen,Sumidaku,Tokyo
Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 


Oct.14,2020 柚原君子

向島百花園(都立庭園)

所在地:東京都墨田区東向島3-18-3
交通 :東武スカイツリーライン「東向島駅」より徒歩約8分
 京成押上線「京成曳舟駅」より徒歩約13分
 都営バス 里22系統・錦40系統「百花園前」より徒歩約2 分
入園料:150円(65歳以上70円)
営業時間は9:00~17:00(入園は16:30まで)。お正月は隅田川七福神巡りの一環として入園無料

百花園を造った佐原鞠塢(さはらきくう)は奥州仙台の農民の出で、俗称は平八。江戸に出て中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公し蓄えた銭で日本橋に骨董屋を開きます。商売気のあった人で骨董品を競り市の様に仕向けたところ,幕府からお咎めがあり骨董屋を閉めて本所地区に隠居します。

芝居茶屋勤めや骨董屋商売のつながりで文人たちの知人が多かった佐原きくうは、自らも書画や和歌、漢詩などを深め、1804(文化元)年頃には剃髪して、「鞠塢菩薩」の号を名乗ります。そして同時期に向島にあった旗本・多賀氏の屋敷跡を購入し、自身の人脈で著名な文人達より梅樹の寄付や造園に協力を仰ぎます。才覚のある佐原鞠塢(さはらきくう)は書や,俳句などの会を開き、題材になる草木や泉水などで百花園を造っていきます。
造園に協力を依頼して集まった梅の木は360本に達しています。当時は亀戸にあった「梅屋敷」にならって「新梅屋敷」または「花屋敷」とも呼ばれていました。

明治以降は周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受けて、草木が枯死することもあり、一時は荒廃していますが、個人の所有から東京市に譲渡されて、1939(昭和14)年には公営の公園として出発。しかし、1945(昭和20)年3月の東京大空襲により全焼。それまであった往時の建物も焼失。
戦後は跡地を少年向けの野球場にしようという声も出たそうですが、「百花園」として復興されることとなり、1949年(昭和24年)に再開、という経緯があります。

現在でも園内の野草は数知れず、珍しい野草があると入口に鉢植えで展示されることも多く、草花を愛する人々には魅力のある園です。また園内には池泉もあり、訪れた秋の園内にはまっ赤なザリガニが顔を出していました。

文人たちが愛した風流な催しも多く受け継がれ、歴史ある句碑も多く、梅の花のみならず,ススキの月見、俳句、菊を愛でる、花菖蒲、萩のトンネル、秋の七草、春の七草など一年を通しての催しものも多く、余り広くはない園ですが、都会での憩いの場になっています。園内のどこからでも東京スカイツリーが見えるのも近年の風景です。

百花園の命名は「梅は百花にさきがけて咲く」ことから絵師酒井抱一が「百花園」と命名。また隅田川七福神の発祥の地としても有名で、佐原鞠塢が所有していた(ともいわれる)「福禄寿」が祭られていて、お正月は入園料が無料であることから七福神巡りで訪れる人も多いです。
ちなみに辞世の句は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春吹く風のこやしともなれ」です。