東京都文京区 炭団坂
Bunkyo Tadonzaka
文京区本郷4丁目32と35の間にあり、菊坂下道から真砂中央図書館方面まで南向きに上る坂。
始点 北緯35度 42分 34秒、東経139度 45分 23秒 標高 約10m
終点 北緯35度 42分 31秒、東経139度 45分 24秒 標高 約20m
坂延長 約50 m
Category
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評価とコメント
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General 総合評価
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Nature 自然環境(主に緑)とエコロジーへの配慮。
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急傾斜の階段
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Water 水への配慮 |
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Sound/Noise 音への配慮 良い音、騒音など |
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Atmosphere 大気への配慮(風、香り、排気など) |
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Flower 花への配慮 |
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Culture 文化環境への配慮(街並、文化財、文芸関連) |
坂上は坪内逍遥、正岡子規などゆかりの地
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Facility 設備、情報、サービス |
坂の景観を楽しむスポットはなく、無料休憩設備もない。
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Food 飲食 |
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現在の炭団坂
炭団坂下
坪内逍遥旧居跡
坪内逍遥旧居跡から菊坂界隈の俯瞰
国土地理院 1/25000地図
江戸切絵図 (国土地理院所蔵)
写真:明治後年の炭団坂
坂名の由来は、『御府内備考』に「此坂切立にて至て急成坂に有之候、往来の人転び落候故たどん坂と唱申候」とあり、『改選江戸志』には「此処はたどんなど商ふもの多かりしかばかく名付しにや、詳にその名の起る所をしらず」とあり、よくわからない。
炭団坂上に明治17年から20年まで居を構えた坪内逍遥が『小説神髄』『当世書生気質』(ともに明治18年)などを発表し、近代文学のスタイルが始まった地である。
写真:逍遥
写真:正岡子規
正岡子規は『当世書生気質』の読後、興奮して眠れなかったらしい。
同地は逍遥転居後、松山出身者向けの寄宿舎「常盤会」となり、子規、川東碧悟堂などが居住した。子規が常盤会に入居したのは明治21年(1888)。舎監は内藤鳴雪。
---ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に鳴くほととぎす 正岡子規 (常磐会寄宿舎から菊坂をのぞむ)
逍遥は明治39年(1906)島村抱月らと共に文芸協会を開設し新劇運動の先駆けとなった。
松井須磨子は、大正時代を代表する女優。須磨子は坪内逍遥の主宰する文芸協会付属演劇研究所の入学試験を受けた。その時の英文訳読試験の担当が島村抱月だった。妻子ある抱月と須磨子は恋仲となり、抱月は早大教授を辞め、妻と五人の子を捨てる。この二人を中心として芸術座が設立された。「カチューシャの唄」は空前の大ヒット。須磨子は一躍国民的人気女優となった。
松井須磨子
炭団坂の西側に鐙坂(あぶみざか)があり、坂上付近の高台は右京山と呼ばれていた。菊坂で陰鬱な生活を送っていた一葉の気晴らしの散歩道でもあった。
右京山付近
鐙坂
真砂町住宅と清和寮
戦前のハイカラ住宅とはどのようなものだろうか。同潤会は有名だが、右京山に開発された住宅地「東京市営真砂町住宅地」は、当時東京市が開発した市営住宅の中で唯一中流階級向けのものとして特筆される。
右京山という地名は、高崎藩主松平右京亮の中屋敷であったことに由来する。 明治になり、陸軍省を経て東京帝国大学の付属用地となり空地であったが、東京市が約六千坪の払下げを受け、大正12(1923)年から14年にかけて46棟75戸の市営住宅を開発した。中心部に清和公園を置き、周囲にフランス瓦葺の洋風住宅を建築した。
清和寮は独身男性向けの「理想的な文化生活」を目的に建築された集合住宅で、昭和5(1930)年築。大震災を踏まえ鉄筋コンクリート造とし、4階建て144室、浴室、社交室、ダストシュート、ガス暖房、水洗便所を備えており、入居者は、公務員、教員、新聞記者などであったそうだ。坂下、春日交差点には大正8年に真砂町小売市場(文京区設真砂市場)が、大正15年に公衆食堂が設けられるなど、東京市の社会福祉系公共施設が密集していた。
清和寮は平成8年に解体され、現在その面影は無いが、公共住宅開発の史跡として意義深い。
真砂町住宅の模型
東電ビル屋上より清和寮・真砂町住宅を望む(昭和13年)
資料:文京ふるさと歴史館
参考文献