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京都府京都市東山区 清水寺 

Kiyomizudera,Higashiyamaku,Kyoto city


Feb.2,2017 中山辰夫

本堂(国宝)の大屋根葺き替え

清水寺では2008(平成20)年から「平成の大改修」が行われており、総工期11ヶ年、総予算40億円の一大修復プロジェクト。

2月6日より本堂の大屋根の葺き替え工事が始まる。工事が着手される前に、本堂の屋根やその周囲を巡った。

清水寺は、778(宝亀9)年に大和国の僧賢心(のちに延鎮)が音羽の滝に至って草庵を営み、これに帰依した坂上田村麻呂が798(延暦17)年に仏殿を建立して千手観音像を安置したのをはじまりと伝え、平安時代から観音霊場として広く篤い信仰を集めている。

 

境内の建物は、1063(康平6)年の火災で全山を焼失したのを最初に、焼失と再建とを繰り返してきた。現在の建物は、1469(文明元)年の戦火後に再建されたもの[馬駐・仁王門・鐘楼・子安塔]と、1629(寛永6)年の火災後に、徳川家光の命により1631(寛永8)年から再建されたもの[本堂・西門・三重塔・経堂・田村堂・朝倉堂・轟門・本坊北総門・鎮守堂(春日社)・釈迦堂・阿弥陀堂・奥院]である。このうち本堂が国宝に、ほかの15棟が重要文化財に指定されている。

  

本堂は斜面上に建ち、正面に懸造の舞台を持つことが大きな特徴。

建物を覆う檜皮葺の大屋根は、「照り起り」と呼ばれる優美な曲線を持った寄棟造で、周囲の張り出し部分の屋根とを巧みに組み合せた複雑なものとなっている。

寺域の規模の大きさをあらためて見直す—城郭を越えるスケールの大きな石垣の上に建つ伽藍

          

乱層乱石積み(乱積みとも雑積みともいわれる)、下層部に大型の石、上層に進むにつれて小型の石を使う

年歴を積み上げた渋さを伴いいかにも美しい、舞台はこの石垣台上に設けてある。

見慣れてきた本堂の遠景(子安の塔付近より)

    

修復工事は、国内有数の広さの檜皮葺屋根を65年ぶりに取り換えるもので、本堂は修理の足場となる素屋根(すやね)で覆われる。(前回は1964・昭和39年)

修理中も参拝通路を確保され舞台に立つことはできるが、右に舞台、左に京の街並みといういつもの景色は2020(平成32)年3月頃まで見ることができない。

足場と雨除けになる巨大な素屋根は、幅約48m、奥行き約42m、高さ約21mの規模で、茶色の鉄板屋根とシートでかこまれるようだ。

葺き替え工事のイメージ (産経新聞より引用)

    

昭和修理時(昭和39〜42年)の素屋根建設中の様子出典『国宝清水寺本堂修理工事報告書』(京都府教育庁文化財保護課、昭和42年3月)

年間550万人が訪れる清水寺は798(延暦17)年の創建以来消失と再建を繰り返してきた。現在ある伽藍は江戸時代初期に建立されたもので400年近く経過している。これまで部分的な改修は行われてきたが、この度の平成の大改修となった。本堂大屋根の葺き替えは、大修理の一環で、前もって檜皮の手配や耐震性のチェックなどが終わり、着手となった。2020年の東京五輪までには修理を終えたいとされる。

前回の葺き替えから約60余年を経過した大屋根は痛みが目立つ。その面積は約2050㎡と大変な規模である。

本堂(国宝)全体−本堂は南面した懸崖に建ち、正面は舞台造である

      

桁行9間、梁間7間、一重、寄棟造、東西北にもこし附、正面両翼廊及び庇、舞台、西面翼廊附、総檜皮葺・附 逗子三基、各々1間逗子、宝形造、板葺

本堂の廻りを巡りながら目に入った屋根を中心に写す

本堂入口周辺−西側

              

本堂正面周辺(舞台上)

      

改修工事がほぼ終わった釈迦堂と阿弥陀堂−葺き替えの終わった屋根が眩しい

本堂出口周辺−東側

            

地主神社境内周辺より−背面

          

葺き替えに必要な大量の檜皮は、長野県、兵庫県など全国各地から取り寄せられ、少しでも長持ちするようにと、通常よりも厚いものを使い、屋根の厚さも現在の約2倍近い約17cmとなるようだ。京都府では8年前から檜皮を全国から集めていたとされる。

檜皮が厚く長くなる分、葺き上げるのが難しいとされ、今の美しいラインが出せるかどうか腕の見せ所と施工業者が語る。

東側−釈迦堂・阿弥陀堂をバックにする周辺

            

舞台

本堂に付帯する舞台は高さ約12m、幅約22m、奥行き約9m。

檜皮について〜日本特用林産振興会HPより引用

檜皮の必要量

檜皮とは屋根葺材用に檜から採取した樹皮で、樹齢70〜80年以上の立木から採取する。一度採取すると、樹皮がもとのように生成されるまでに8〜10年を 要する。

重要文化財に指定されている檜皮葺の建物は約700棟(重要文化財以外も含めると1,650棟)あり、700棟の維持に年間約3,500㎡の葺き 替えが必要である。

檜皮採収の現況

檜皮の採取は原皮師(もとかわし)が行う。檜皮を用いた屋根の歴史は古く、1,200年以上にわたって、檜皮は供給され続けてきた。

近年、檜皮の不足が生じることが明らかになってきた。その一つは原皮師の著しい減少である。原皮師の仕事は危険で、きつい仕事であるためである。

剥がした檜皮を1束30kgに束ねて原皮師の山での仕事が終わる。

荒皮と黒皮

立木から最初に剥がされた皮は荒皮と呼ばれ、檜皮として品質が悪く収量も少ない。一度皮を剥いで8〜10年くらいたつと、新しい表皮が形成され2度目の剥皮ができる。この皮を黒皮と呼び品質も良く収量も多い。以後8〜10年毎に採取できる。

ヒノキ立木の減少

もう一つの問題点は、檜皮を剥ぐためのヒノキ立木の減少である。樹齢70〜80年以上の立木はいつ伐採されてもおかしくない収穫対象木である。

森林所有者の収入が減少しているとき、70〜80年以上のヒノキはかけがえのない収入源といえる。

檜皮葺建造物全てを葺き替えて行くには3,000 haの檜皮採取に適した檜林が必要と試算されている。

参考資料『国宝清水寺本堂修理工事報告書・清水寺史・清水寺の謎・ほかより引用』

清水寺本堂は南面した懸崖に立ち、その正面は崖縁に長太い柱を立て並べ、貫を縦横に差し通して張り出す床を支える雄大な舞台造りの国宝である。

本堂に付帯する舞台も国宝で、高さ約12m、幅約22m、奥行き約9m。

清水寺=『清水の舞台』とされる本堂の舞台は清水寺と懸造の代名詞的な存在である。

  

その特異な建築ゆえに耐震性が懸念されるが、鹿島建設・他が、花折断層を震源とするM7.3の模擬地震動を、立体三次元精算解析モデルを用いて解析を行った結果、本堂が倒壊する可能性が低いという結果を得たとの報告がある。

本堂の舞台は創建時には備えてなかったとされる。

清水寺は様々な文学作品、『枕草子』や『源氏物語』にも再々登場する。特に清少納言(960〜1025)の枕草子には清水寺が多く取り上げられているが、舞台について何ら書かれていない。このことから、西暦1000年〜1005年頃にはなかったとされる。

初めて登場するのは、平安時代末期に、蹴鞠名人の青年公家が舞台欄干上を蹴鞠しながら往復したと書いた日記といわれる。

その他『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』『義経記』などから、舞台の敷設が平安時代後半であったろうことが推定されている。

 

観音信仰の広がりで、清水寺は平安時代中頃から参籠者が増え続けた。そのため本堂を拡張するにも用地がないことから、南側の崖に張り出すように広げたと解釈されている。

その舞台は御本尊に習得・上達した芸能を披露する場−舞台であった。ヒノキの舞台の上で、観音様に芸を奉納する−「檜舞台を踏む」こと、すなわち「檜舞台」の語源は清水の舞台からという説につながる。

舞台床

    

畳百畳敷き(約190㎡)の広さ。舞台は少し傾斜を持ってつくられ前面南側がやや低い。

正面18m強、側面10m弱の床面前面に、平均の長さ5.5m、幅30cm〜60cmの大きく、分厚い木曾産・天竜産のヒノキ板410枚が敷き詰められている。

床材を下部から見る

  

耐用年数は20〜30年ほどで度々張替えが行われている。

清水寺参詣風景−「風俗屏風」・清水寺本堂参詣風景−「坂上田村麻呂将軍縁起」

   

舞台面には屋根がなく雨ざらしである。軒の出は3m〜1.5m、雨水がたまらないように欄干の下部は水が流れ落ちるようにあけられている。

    

更に舞台から落ちてきた雨水を避ける装置の部材として、小さな傘が数多く取り付けてある。

舞台の高さは13m、4階建のビル高さに相当する。勝手は自殺の名所となり、江戸期には浄瑠璃、歌舞伎にも登場。明治には飛び降り禁止令がでた。

    

舞台を支える柱

      

せり出した舞台を支える柱数は18本で平面十六角形、最も太い柱が舞台下に使われており、樹齢400年以上のケヤキの柱で、周囲2.30m(直径73cm)、長さ12mである。柱は6本が参列に配置されている。

舞台を支える柱は18本であるが、懸造部分を支える柱は、西車寄せ下丸柱3本、礼拝廊下の下(角柱)12本、東西両舎下(角柱)12本、東廊下の下(角柱3本)、礼堂下(丸柱)30本、桂8本の大小の柱が懸造部分を支えている。

伝統工法−懸造りの妙

    

柱と貫(ぬき) 貫は柱等の垂直材間に通す水平材

各柱にはケヤキの厚板が貫として縦横に通してある。貫は柱の両側から通し、柱の真ん中でかみ合わせをつくり、組み合せている。

ノミもないころに、貫を通す骨孔は穿出なかった。どのようにしてあけたのだろうか・・・。

継ぎ手

      

柱と貫の接合部分の内部は「継ぎ手」と呼ばれる技法で組み合わせ、わずかにできた隙間は楔で締めて固定されている。

格子状に組まれた木材同士が支え合い、衝撃を分散することで通常、建築困難な崖などでも耐震性の高い構造をつくり上げることを可能にしている。

釘は一本も使われていない。しなやかな木材だけで組み上げられたこの構造が、舞台を何百年間もしっかりと支えてきた

土台礎石

   

基礎。柱礎石は全て花崗岩切石。

足元は地面(土)と接しているので、他の部分に比べて少なからず湿気を含みやすい。

根継ぎ

   

足元は定期的に検査を実施して、損傷した柱の痛んだ部分を切取って新しい木材を継ぎ足して、創建当初の形状を維持して補修されてきた。

舞台を支える柱は、樹齢400年を越すケヤキの 大木である。寺社の大工さんの言い伝えに「日本のヒノキヤケヤキは、柱に使う場合、樹齢と同じ年数を欠けて衰えて行く。つまり樹齢400年であれば、800年くらいは持つ」といわれるとか。

清水の舞台の柱は樹齢400年以上。舞台の年齢は現在約370年。計算ではあと400数年は持つことになる。そこで、京都府下数か所に山を手当てし、ケヤキ3000本とトヒノキの植樹が行われた。400年後に舞台を支えるケヤキや檜皮用のヒノキが育ってくれることを祈って・・・。

 


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