MONTHLY WEB MAGAZINE Dec. 2013

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トピックス
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■■■■■ 10年の軌跡と未来 瀧山幸伸

Japan Geographicが産声を上げたのは2003年の4月。構想はインターネットが出てきた1990年初頭からだが、まずは通信環境などの技術を自力で開発することから始めたので、20年以上の悲願がようやく形になって表れてきたところだ。
10年を経て、現在の写真と動画のコンテンツ数は百万点以上に達する。
だが、それでビジネスをするのが目的ではなく、このサイトの理念、目的は教育で、そのための百年千年のアーカイブス蓄積だから、まだ生まれたばかりの状態だ。
当初は自分だけでコンテンツを収集していたが、ありがたいことに賛同者が通信員として加わってくださり、現在では10名ほどの通信員がアクティブに活動している。

理念
を達成するための今後の問題は数あるが、以下のような課題に取り組んでいきたい。

・永続可能な体制を確立すること
(まずは小さい目標だが、事務局の運営は資金的にも体制的にも私個人の負担では継続性が難しい。あきれつつも協力してくれる家族に感謝。体制拡大の現実は厳しく、一般登録者も寄付者も1名だけ。通信員の身近にも候補はいないという。)

・コンテンツを教材として加工すること
(中規模な目標として、日本の教育システムを嘆いていないで、ネットを利用した教育を、まず隗より始めよう。)

・世界に冠たるアカデミックな組織とすること
(大きい目標は理念のとおりで、大ぼら吹きとも取られかねないが、全ての教育の原点は同じようなものだ。世界の教育トップクラスのMITやオックスフォード、ハーバードなどの上を行く組織が千年以上継続でき、世界を幸せにすることが最終目的だが、道は険しく長い。自分自身も、成人した4人の息子たちも、学校や塾ではほとんど丸暗記で学び、深く理解することはできなかった。その割には教育コストは莫大だ。このような丸暗記方式やコストパフォーマンスの悪さがイノベーションを推進する世界の教育界やビジネス界で通用するはずがない。孫はまだいないが、孫たちにはぜひJapan Geographicで学ぶ喜びを味わってもらいたい。それも動機の一つだ。)
ありがたいことに、大学時代の恩師に励ましの言葉を貰うようになったし、同窓生で通信員になってくれた友もいる。
また多くの友がJapan Geographicが学校になったら講義を受け持ちたいと言ってくれる。同窓会の酒の席での話だが (笑)



■■■■■ 私にとっての Japan Geographic 川村由幸

Japan Geographicを知ったのは2006年、家内との旅行の情報収集でだったと記憶しています。
どこへの旅行を計画していたのかは、記憶が定かでありません。
どちらかというとJapan Geographicが動画に重きを置いていたと感じる時でした。
そして、そのコンテンツが日本の名所旧跡をほとんどカバーしていることに驚き、淡々とした記録の姿勢に感動したものでした。
その後、これもその経緯は失念してしまっていますが、2007年には画像の投稿を始め、2009年後半からは自身の投稿の記録をきちんと保存するようにもなっています。
通信員に入れていただいたのは、2007年私が58才の頃でしょうか。これも曖昧です。

あれから6年、Japan Geographicのおかげで写真撮影が自分の趣味として定着し、次はどこに撮影にでかけようかと思案する時間までも楽しんでいます。
画像・動画を投稿しだす前は、文化遺産や自然を訪ねても、ただ「美しい」とか「素晴らしい」とかで終わっていたものが、
今は、その文化遺産や自然を四方八方から眺めるようになり、細部を撮影するためにすごく接近しても見るようになりました。
そうしてみると、文化遺産や自然が違って見えてきます。

Japan Geographicに投稿する画像・動画撮影のおかげで文化遺産や自然の観察の仕方が変わり、自分の感じ方まで変化したようです。
その変化は私自身を豊かにする変化で、とても心地よいものです。
そして同じ場所に幾度でかけても飽きることがなくなりました。
それは見方が変化したことで都度違う感動を得られているからだと考えています。

もちろん、良いことばかりではありません。
重いカメラ機材と三脚を担いで、古刹の急な石段を登るのはなかなかに厳しく体力が必要です。
厳冬時は金属部の多いカメラも三脚も冷たくて持っているのもいやになったりします。

でも、「非営利で自然と文化に関連する高品質な教育コンテンツを百年、千年先に伝える」というJapan Geographicの理念に共鳴し、
自分の撮影した画像・動画が千年先の人々に見られるかもしれないと考えただけでワクワクするではありませんか。
このところ、取材場所の選定で苦労し始めています。
近隣で出かけていないところが少なくなっているからです。
活動範囲を拡大する必要があると感じています。
そしてまた、カメラと三脚を担いで新しい感動に出会いたいと思っています。



■■■■■ 4年目 大野木康夫

私が暫定通信員にしていただいたのは平成22年(2010)10月2日でしたので、現在は4年目を迎えています。
それまではコンデジで京都周辺の国指定文化財建造物を中心に写真を撮り続けていましたが、撮影地の情報を得ようとインターネットで検索するうち、Japan Geographicに行きあたりました。
中山さん野崎さんの投稿を見て撮影情報を取り込んだり、行動範囲外のコンテンツのサムネイルを眺めているうち、自分が撮りためたものを投稿してみたいという衝動に駆られ、通信員にしていただきました。
しかし、通信員となって他の方の現寸の画像を見ると、コンデジ画像の限界が見えましたので、初心者向けのPENTAX K-xを購入し、相変わらず指定建造物中心ですが周囲も含めて撮影するようになりました。
昨年暮れからカメラはK5-Uに変わりましたが、基本的には変わらず活動しています。1枚当たりの画像サイズが大きくなり、油断するとPCのハードディスクの空き容量が赤表示(残り少なく)になるのと、マニュアル設定で撮影できるほどの腕がないので動きや暗所には弱いなど、改善すべき点を抱えながらなんとか投稿を続けています。
撮影に行く時にはほぼ自家用車を使うので、行程表代わりに撮影予定地の文化財指定建造物リストを準備します。
リストは変更に対応できるよう、1回につき20箇所程度のものを作成します。

(リストの一例)

といっても最近は滞在時間が予定をオーバーすることが多く、10箇所まわれればいいほうです。
撮影場所の滞在時間は他の通信員の方に比べて格段に短いと思いますが、以前に比べると数倍になったように思います。
撮影場所で心掛けていることは、とりあえずまずは目で見ることです。
人間の目は、コントラストの調整具合に加え、それまでの経験に照らし合わせて対象を認知するメカニズムも含め、その人にとって最高のレンズです。
大きいものはより大きく、鮮やかな色はより鮮やかにとらえ、すこぶる深い被写界深度を持つとともに瞬時に焦点距離を調節できるため、素人の写真ではそれを超えることは非常に困難(できないわけではないと思いますがハードルは高いです。)です。
そして、目で見て少しでも興味を覚えた場所では、Japan Geographic の投稿ガイドにもあるよう、「量は質に転換する」ということを意識し、シャッターを納得するまで切るようにしています。デジタルカメラは何枚撮っても確認してから整理することができるので、「心に少しでも引っかかったら枚数は気にせずシャッターを切る」ということを心がけています。
そのため、撮影に持っていくバッテリーはカメラに装着したもの、予備バッテリーともに充電済みにしていますし、泊りがけなら充電器も必ず持っていきます。
SDカードも32GBのもの2枚と16GBのもの数枚は持っていくようにしています。
そんなことをしていても、見た目の感動を再現した画像になることはあまりなく、サイト管理者の瀧山さんの御手を煩わせてばかりの結果になっていますが。

私がいったいどれくらい撮影をしているのかをまとめてみると、次のようになりました。

暫定通信員になる前、平成22年(2010)1月から9月までの9か月間で4,457枚、月平均495枚の撮影に対し、暫定通信員から通信員になってからの平成23年(2011)の同時期では20,519枚、月平均2,280枚とおよそ4.6倍に増加しています。
年間ベースでは平成23年(2011)が28,572枚、平成24年(2012)が22,969枚、平成25年(2013)が11月までで29,772枚と、多少の増減はありますが、撮影数は維持できています。
(枚数の絞りや未投稿もあるので、撮影数は当然ながら投稿数よりも若干多くなっています。)
月単位の枚数の標準偏差や有意差の計算をして分析しようとも思いましたが、標準偏差の値がきわめて大きい(非常にばらつきが大きい)のが分かった時点で断念しました。サンプルも少ないですし。

撮影に遠出する時は深夜に出発することが多く、家族から加齢による疲労を原因とする様々な危険(交通事故、不慮の事故)を心配されるようになってきました。
しかし、心のリフレッシュや運動不足の解消につながるので、目覚まし時計なしで出発予定時刻に間に合うよう起床できる間は、積極的に出かけようと思っています。
訪問場所も、3年間で何回も投稿しているものや、課題を残したまま再訪できずにいるものなど、いろいろでまだ満足できない(満足したら終わりだと思っています…)状態です。
特に祭礼や伝統芸能など、無形民俗文化財に課題が残っており(夜の行事には撮影の腕の課題も残っています。)、まだまだ見てみたいものがいっぱいあるので、精力的に撮影に行きたいです。

そんな今年の撮影で印象に残ったものを振り返ってみます。

1月 湖国の雪景色

2月 備前、播州の文化財と早春の紀州

3月 播州の文化財と富士山

4月 京都の桜風景と荒神輿

5月 初夏の但馬

6月 梅雨時の紀北と苔寺

7月 新緑の修学院、大原

8月 奈良、飛騨路、送り火と吉備路

9月 南信州

10月 三河、伊勢神宮と生駒

11月 越前北部と京都紅葉三昧




■■■■■ また12月になった 田中康平

年の区切りの12月31日が暦の上で何故この日なのか以前少し調べたことがあった。
その時の結論としては冬至と夜明けが最も遅い日の中間の日で1年を区切ったというものだったと記憶している。
シェークスピアの13夜はこの冬至から夜明けが早くなり始める最初の日に至る13日間の大騒ぎの物語でもあった。
ともかく夜が最も長く感じられる日で年を区切ったことのようだ。
クリスマスも本来キリストの誕生したのは現在の暦で9月頃だったのが冬至の祭りとくっつけられて今の日になったとも言われているようだ。
クリスチャンが少ない日本でもクリスマスが廃れないのも本来人間が区切りとしていた時期と重なっているためもあるのだろう。

まもなく今年も終わる。 振り返ると今年も世の中での色々な事件が頭をよぎるが、個人的には今年の最も印象深いことそれは無論北関東から福岡への引越しだった。
およそ35年住んだ家を売りに出しての引越しだけに捨て続け片付け続ける日々が過ぎ去った。
そしてそれは予想していたよりもすんなり終わった。

福岡に移って感じたことはクルマの走り方の違いから始まって数え切れないが、歴史感覚の違いも大きい。
この地に来ると古事記、日本書紀の記述に出てくる地名がそこらじゅうにある。
そして渡来人の痕跡や遺跡もそこらじゅうにある。
思いついたように時折遺跡を巡ってみると古代の日本という国の国境のあいまいさが感じられてくる。
そもそも弥生人はこの今の日本に外から渡って来た人々だったといわれる、そして今の日本人の主流となった、それがあらあらかさまに感じられてくる。
半島もこの島も同じ地域として人が行き来し割拠した都市国家のような国ができていた様に思えてくる。
丁度ペルポネス戦争時代のギリシアのように。
現在の国からは考えられないような世界だったのではなかろうか。
我々は本当にどこからきたのだろうか。考えてしまう。

今年Japan Geographicに投稿した映像を並べてみるとなつかしい。
奥日光の雪原はもう見ることが難しそうだ、しかし新しい環境が眼前に広がってきているのがわかる。
漂うように生きていくのだろうか、それがトレースできていく未来も面白い。

1月:櫛田神社 2月:奥日光 3月:能古島 4月:一心行の大桜
5月:対馬  6月:金隅遺跡 7月:縄文杉 8月:久住高
9月:宗像大社 10月:王塚古墳 11月:九年庵 12月:まだ見ぬ奄美大島
 





■■■■■ 湖上から見た白髭神社と他 中山辰夫

11月17日「湖城クルーズ」に参加、大津港を出発し、約6時間かけて琵琶湖を一周しました。近江は1300もの城郭がひしめく「城の国」、琵琶湖からも実に多くの城が遠望できます。今回は、歴史に名を残す50強の城や城址を目にしました。それらの城には今も縄張りや当時の状況がそのまま残っており、合戦の追跡が出来ることも近江の魅力のポイントです。これら城の中には、古墳や寺院跡を利用し築城されたのも多く,渡海人との関わりのもとに開けた古代近江との関連も分かります。

「城」は別の機会に廻して、目にした光景を二つ並べます。
「シジミ採り」
瀬田川のシジミは殊のほか有名でしたが近年は取れなくなったと聞いております。近江大橋の袂で懐かしい、その姿を見かけました。前方は膳所城跡です。

「白髭神社」

白髭神社は、県道558号線(旧国道161号線)を高島に向かって走ると必ず目に入ります。近江最古の神社ともいわれ、全国白髭神社約200社の本社です。
本殿・他は豊臣秀頼が寄進したもので、国重要文化財です。徳川家康が豊臣家の財力を削ぐために社寺への寄進を促したうちの一つです。

社殿背後の三角形の明神山は頂上に磐座があり、渡来人の古墳群や神社の社殿を包み込んだ山で、湖上から仰ぐと山全体が霊山であることが分かります。

琵琶湖に向かって開かれ社殿は、大鳥居によって海とつながります。大鳥居の正面前方は近江八幡沖にある神の島・沖島につながります。
湖上から見るとその関係が明瞭です。湖中に建つ朱塗りの大鳥居は境内にある常夜燈と共に航行する船の目印でもあったようです。

船上から見る大鳥居

この大鳥居、室町時代末期に描かれた屏風「江戸名所図 ・重要文化財」にも見られ、朱色の鳥居がこの頃既に琵琶湖の中に建っていたようです。

その他・資料を参考にして
1937(昭和12)年に、大阪道修町の薬問屋小西久兵衛氏が寄進されて復興されました。
小西氏は明治〜昭和に活躍されました。大阪天王寺にある1907(明治40)年建立の小西朝陽館は、政府の要人や皇族方が来遊、宿泊された別荘(非公開)で今も健在です。また大日本製薬(株)の発足にもタッチされたようです。

天王寺の「一心寺」に、1918〜9(大正8〜9)年に流行したスペイン風邪の慰霊碑も寄進されています。この一心寺、興味事が多いお寺のようです。
「大正八九年流行感冒病死者慰霊」碑

大阪道修町には、国重要文化財の「小西家住宅」がありますが、上記小西氏とは関係なく、小西屋(後に小西儀助商店、現コニシ」の屋敷兼社屋です。
小西家は、1870(明治3)年、初代小西儀助が薬種業を創業したことに始まり、2代目小西儀助の代に大躍進を遂げました。
この木造建築は、1903(明治36)年に建てられもので築後110年になります。現在も社屋として使用されています。


Japan Geographicの存在は、当方にとって日々を過ごす糧となっています。動く範囲、視点は狭くなる一方ですが、引き続きお付き合いさせて頂きたくお願い致します。




■■■■■ 我楽多会(がらくたかい) 野崎順次 

われわれは兵庫県立神戸高等学校を1964年に卒業した。団塊の世代の直前である。男女共学であるが、旧2年4組(担任は木村先生)の男子有志の集まりである。今や、年齢は67〜68歳、現在のメンバーは19名である。今のところ、物故者はいない。

高校3年になると大学受験の準備に専念しなければならないから、2年の秋に瀬戸内海を西に修学旅行に行った。その楽しい濃密な経験を共有する仲間である。田畑君、大西君と私が、近くの同じ大学に進学し、しょっちゅう行動(酒とパチンコ)を共にしていたのが始まりである。かなり早い段階から、我楽多会の名前が使っていた。由来は単なる思い付きで、語呂もよかった。夏休みなどには関西の他のメンバーが加わって、7,8名になった。

■大学時代のエピソード

夕方に一升瓶と薪を買って、神戸港第2突堤に出かけた。寄り添うアベックを追い出して、火を焚いて酒を飲んで踊った。また、応援団風に「フレー、フレー、ガ・ラ・ク・タ」などと叫んだ。

小舟君のおばあちゃんの家が富山県の海辺(氷見あたり)にあり、夏休みに泊まりに行った。ムンムンする田んぼの中に直線に伸びる農道を歩き、小さな丘を越えると海水浴場があった。この風景が妙に頭にこびりついている。夜はいつも酒盛りであった。

坊岡君のおばあちゃんの家は和歌山県御坊にあり、やはり、夏休みに遊びに行った。私が酔っぱらって夜の海に飛び込んだ時は、全員で助けてくれた。最後まで、酔いつぶれなかった大西君と武部君は、風呂でついに倒れ、朝まで真っ裸で寝ていた。

沖縄返還や海外旅行ブームの前である。南西諸島、特に与論島には関東の女子大生がたくさん押し寄せ、開放感のあまり理性を失いやすいとの怪情報があり、田畑君、大西君、武部君と私4人で出かけた。大阪から鹿児島までは急行列車の通路に座り込んで、花札を打ち続けた。船に乗り継いで、島伝いに南行し、荒海の中で小舟に乗り換えて与論島に着いた。夏とはいえ、天気が悪く、女子大生など皆無であった。

■20代の悲しいこと

大学を卒業して半年で私は結婚した。仲人にはわれわれ2年4組の担任だった地理教師の木村先生をお願いした。ご夫婦そろってお忙しい中を真摯に努めていただいて、ひどく疲れさせてしまったことを覚えている。先生のお宅にはみんなでよく伺ったものだった。その数年後に先生は自ら命を絶たれた。他高校に移られ、厳しい状況下で教頭先生の職務に奔走され、うつ病になられたのだった。突然の悲しい出来事であったが、最終的には我楽多会の絆を深くしたと思う。

■それから

小畠君は銀行に就職しスペイン語研修でメキシコに派遣されたが、現地女性と恋に落ち、銀行を辞めて当地に留まった。八巻君は北海道の大学から当地の大企業に採用され、めったに関西に帰ってこなくなった。クラスの委員長だった小舟君は建設省に入り、国内各地の勤務、横須賀の研究所を経て、海外工事を担当するようになった。など、など、それぞれ人生の多忙な時期を迎え、我楽多会はしばらく途絶えた。

そのうち、やはり海外勤務が続いていた田畑君が、年末や期末(3月)に帰国するたびに皆で集まろうと声をかけてきたので、年に1,2回集まるようになった。

晩年になって暇ができたせいか、旧クラスメートの参加希望が増えた。

■今年は元町のちゃんこ屋で

今年も11月末に神戸JR元町駅前のちゃんこ屋で集まった。前述の通りフルメンバーは19名であるが、3名が欠席した。闘病中の桑田君(脳腫瘍末期)、昨年に欧州3千キロサイクリングを達成した夏目君は自宅で骨折、中野君は急な会社の会合のためだった。しかし、メキシコの小畠君、イラクの海外工事の合間に帰国した小舟君、北海道の八巻君が出席した。

出席した16名のうち、癌の経験者は6名(前立腺3人、食道、甲状腺、喉頭各1人)である。もちろん、完治しているが、比率的には三分の一を越える。そういえば、ここ10年くらいは病気の話題が増えてきた。奥さんや孫など身内の話がほとんど出ないのは男の気楽さであろう。色っぽい話はしばらく聞いたことがない、としておこう。




■■■■■ 看板考「最上みりん」 ゆはらきみこ

千葉県佐原の馬場醸造にあった看板



馬場本店酒造は江戸時代の天和年間(1681年〜)の創業。清酒、白味醂を製造販売。特に白味醂は江戸時代からの製法を変えずに旧式の手造り味醂で、その作り方は全国でも数少ないそうです。みりんはもち米と米麹と米焼酎から創られるものだけが本味醂と言われ、ほんのりした甘みとコクがあり飲んでも美味しいそうです。ちなみに標準的な味醂は醸造アルコールや水あめが入ります。みりん風調味料となるとさらにブドウ糖や化学調味料などが添加されていきます。本みりんのみが法律上の酒類でお酒屋さんでしか売れません。本みりんの文献の歴史をたどると馬場醸造が創業した頃の1713年(正徳三年)頃の『和漢三才図会』には、本みりんの製法と共に、「按美淋酎近事多造之其味甚甘而下戸人及婦女子喜飲之」と表され、下戸や婦人に好まれて飲まれていた、という記述があります。この頃は麹40%、焼酎24%、エキス1.2%という配分で甘い焼酎のような味、とあります。戦後は麹が13%、焼酎が61%、エキス46%lとなり現在と変わらない味になったようです。戦争がはじまる昭和18年から8年間は米不足の影響でみりんの製造が禁止されています。その後再開されても贅沢品として高い酒税が課せられたので、高い酒税から逃れるために造られた代替品が「新みりん」「塩みりん」と呼ばれるものでした。これが今日まで続いている、いわゆる「みりん風調味料」で、みりんはこのような歴史もあわせもっています。

この看板はいつ頃のものかなぁ、と眺めます。字体は古くはないのですが価格が銭を示していますので、そのあたりもおもしろいと思います。
お金のない時代は等価交換にあたる物々交換でした。ヨーロッパでは金が価値を決めていたそうですが、金をいつも持ち歩くわけにはいかず、その代わりに金の価値を書いた紙を証書として出して、物の取引をしたそうです。それがやがては価値のある紙幣へと変わり、それらの証書で融資をしたのが銀行の始まりと言われています。
日本では金山銀山の開発もあり、地方によっての豊かさが違っていました。室町時代の頃より離農を避ける政策もあって<米>も通貨の代わりをします。江戸時代は両、分、文(金貨、銅貨、銀貨)または藩札などを使用したのですが、幕末期明治の初頭には外国から銀貨が入ってくるなどお金の制度が混乱したので明治政府は1871年(明治4年)に新貨条例を作ります。1円を100銭として5・10・20・50銭の4種類の銀貨と、1厘(10分の1銭)・半銭・1銭の3種類の銅貨が定められます。現在のように1円以下を切り捨てて円に統一されたのは意外に近年で、1953年(昭和28年)の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」によります。ただし特例があって株価や為替などの使用に銭の単位は認められて現在に至っています。
貨幣制度から見ると看板は明治4年から昭和28年の間のものとなります。
看板にあるみりん一合で45銭をアンパンにおき変えてみると、明治15年だとアンパン1個一銭でしたからみりん一合でアンパンを45個買えたことになります。高っ!昭和13年ですとアンパン1個5銭ですから、みりん一合はアンパン9個買えたことになります。それでも高っ!ですね。もうじきお正月。照りが綺麗に仕上がる本みりんの小瓶を買っておせち料理作ろうかと思います。

 





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Japan Geographic Web Magazine
http://japan-geographic.tv/
Editor Yuki Takiyama
yuki at sapienza.jp (Replace at to @)
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