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滋賀県彦根市 鳥居本宿
Toriimotoshuku, Hikone city, Shiga

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May 9, 2016 瀧山幸伸 movie

高宮宿方面から東に進む
                                                                     

有川家付近
                                                       

        

馬場宿方面へ 

摺針峠
               

    


Jan.5, 2013 大野木康夫 HD video

鳥居本の街並み

            

有川家住宅

 





Nov.2010 撮影/文:中山辰夫

彦根市鳥居本町

彦根から鳥居本に入るには何本かのルートがある。今回は自転車を利用して佐和山トンネルを抜けて入ることにした。
彦根駅前からは国道八号線を走り佐和山トンネルを抜ける。約250mの歩道向けのトンネルが併走している。
抜けてすぐに八号線を横断すると、鳥居本宿へ向かう旧道(朝鮮人街道)に入る。約1.5kmで鳥居本宿への分岐点となる。
       

鳥居本宿は、中山道の宿駅で江戸から63番目。前宿の番場(現米原町)から一里一町、次宿の高宮へ一里半。宿北端から北国街道南端から朝鮮人街道が分岐している。
鳥居本宿は高宮宿と同様に、本陣や脇本陣の建物こそ現存しないが、随所に重厚な家屋が残り、宿場の雰囲気が残されている「天保年間の宿村大概帳」によると、鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4km)と記されている。
宿は宿高115石、人口1448人、家数293軒、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠屋35軒の規模であったようだ。
この宿の名物は「雨合羽」と「腹薬の赤玉神教丸」および「すいか」の三つであった。
鳥居本合羽の「本家合羽所」と書かれた看板が残されている家屋や、「赤玉新教丸 あかたましんきょうがん」を今なお製造・販売する宝暦年間(1750〜60)頃建造とされる赤玉新教丸本舗の重厚な店舗が現存している。
中山道に沿って集落が延びている。現在も同様である。

年に一回の「とりいもと宿場まつり」は宿を上げて取組まれる。平成22年度は“街道を赤に染めて戦国時代情緒を演出しょう”だった。
宿場の商家や民家が公開されかつての宿場の賑わいが再現される。「赤」をテーマに全体で宿を維持しようとの熱意が伝わる行事である。

道標
彦根道(朝鮮人街道)と中山道が交わる箇所に立つ。文政10年(1827)に建てられた。
トンネルをくぐり国道八号線を越えてきた道が朝鮮人街道であった。
「右 彦根道」「左 中山道 京 いせ」「文政十丁亥秋建之」の銘文が刻んである。
三叉路になっている。
  

朝鮮人街道「別に記載する」 (ここから摺針峠まで約2.5km)
彦根道が朝鮮人街道で、佐和山の南を東西に走り、彦根城下と中山道を結ぶ道。ここから彦根城下までは1里の距離である。
佐和山が城郭をなしていた頃は城内の道で他所者の往来はなく、しかも山田町地先から中山道沿いの百々村までの間は道が無かった。
ここに新道が敷設されるのは彦根藩二代藩主井伊直孝の頃で、以後彦根道或いは朝鮮人街道と呼ばれた。
 

高宮宿を過ぎ小野村に入る。水田がつながり、中山道を挟んで右側には名神高速、左側には新幹線が走る。
中山道は、小野村から鳥居本の入口である西法寺村を経て鳥居本宿に至る。
  

鳥居本宿へ入る中山道
 

百々家住宅
登録有形文化財
 

百々山本照寺跡・八幡神社
鳥居本油敏局のすぐ横の左側へ入る小道を行く。名神高速のガードをくぐり右方向の小山を進む。
百々氏の菩提寺と伝える寺院跡。天台宗。阿弥陀堂のみが存在する。文明10年(1478)建立、元亀3年(1572)信長の兵火で焼失。
西法寺辺りに住いした梅本という人物が、本照寺持仏堂の永続を計り本尊を別院に秘蔵して隠すと共に、本照寺の境内に鎮守の神社を作り、八幡宮として百々村の崇拝神社とした。

      

専宗寺「別に記載する」
浄土真宗本願寺派
通りに面した大層な寺院である。
明応6年(1497)創建。開基は了明。彦根藩主の井伊家の帰依を受けて栄える。現本堂の建立年代は不詳であるが、向拝蟇股や紅梁の絵様から、18世紀後半のものと推定されている。太鼓門の天井には佐和山城の用材が使われている。
   

旧庄屋 住長新家(成宮隆夫家住宅)
今回の祭りで初公開された。構造は百々家と類似したごつい造りとなっている。
   

長池地蔵
  

街道の家並み
      

地蔵堂
    

合羽所「松屋」
看板は屋根の上に上げるのが正しい
    

脇本陣・問屋跡
小規模ながら、主客用、側近者用と家族用の三つの領域を持ち、貴人の客が宿泊できる構えを持っていた。
脇本陣の高梁家は、畳数117、喜良平脇本陣は68畳で、本陣とはかなりの開きがあった。高橋家は問屋も兼ねていた。
筋道を隔てた隣には高札場があった。
    

本陣跡
本陣跡は木綿屋の合羽の看板の向にあるヴォーリス設計による洋館建の寺村家。横の小屋前に本陣の門が残されている。
本陣寺村家は畳数が201あった。文政12年(1829)から天保12年(1841)の13年間に161回・3594人であった。一回の利用者数は22.3人、最多は80人、最小は2人、実際は50〜60人が収容限度であった。街道に面して北から表門、板間、主屋と並んでいた。
参勤交代の大名の供揃は200〜300人に達し、全員の収容は不可能で下宿を必要とした。当宿の場合、安芸廣島藩・筑前久留米藩・紀伊和歌山藩・阿波徳島藩・出雲松江藩・長門萩藩・美作津山藩・伊予松山藩などが利用しており、下宿を利用する大通行が年間数回ずつあった。
       

鳥居本駅
本陣跡の向い、国道8号線と面している。
近江鉄道 昭和6年(1931)開業と同じ建築(別報)
  

合羽所木綿屋
木製「道中合羽形」の看板。「本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門」の字。大田南畝「壬戌紀行」には、「此駅にまた雨つつみの合羽ひさぐ家多し。油紙にて合羽をたたみたる形つくりて、合羽所と書きしあり。えどにて合羽屋といへるものの看板なり」と記されている。
    

旅籠屋・大藤屋跡
卯達に藤の家紋を漆喰塗りで浮き出させていた。
   

湖東焼自然斎住居跡(別に掲載する)(旧鳥居集会所)
   

赤玉神教丸本舗
万治元年(1658)創業。現在も製造・販売中
  

明治天皇石碑
 

上品寺
   

松並木
鳥居本のはずれに松並木が現存する。冬には防寒手当てが施される。
   
 
鳥居本の案内を経て磨針峠(すりはりとうげ)を越え、次の宿・番場宿へ向かう。

   

合羽
江戸中期から戦前まで合羽清蔵は鳥居本の重要な産業の一つだった。
鳥居本宿で合羽の製造が始まったのは、享保5年(1720)の馬場弥五郎の創業とされ、大阪で奉公後、合羽製造に柿渋を用いることを奨励。
保湿性と防水性に富んだ良質な合羽の名声が高まり雨の多い木曽路に向かう旅人の必需品となった。
最盛期には街道沿いに25軒の製造業者がいた。鳥居本合羽が赤いのは、柿渋を塗る時に弁殻を入れることによる。
天保3年(1832)創業の木綿屋は、東京や伊勢方面に販路を持ち、商家や寺院を得意先として大八車などに覆いかぶせる合羽を主に製造していた。
       

湖東焼
湖東焼は江戸時代の後期、彦根で生まれた。城下町の商人・絹屋半兵衛たちによって始められ、13年後彦根藩に召し上げとなった。
当時の藩主は十二代目の井伊直亮。彼は雅楽器や美術品をこよなく愛した。彼のもとで絹屋以来の高級品生産の方針に拍車がかかった。
8年後藩主になる直弼は楽焼に手を染めるなど、焼物に強い関心を持っていた。藩主になると釜場の規模を拡大し、全国から優れた職人を招聘し、経営改革にも乗り出した。こうして湖東焼は黄金時代を迎えた。この時代に逸品が多く生まれた。
しかし、桜田門外の変で直弼が暗殺されてからは、パトロを失い、2年後に藩窯の歴史は終わった。
湖東焼の黄金時代を中心に民業として民間で上絵付(うわえつけ)を行なう4人の仲間がいた。4人の仲間とは、鳥居本宿の自然斉、原村の床山、高宮宿の赤水、城下白壁町の賢友である。彼らは安政3年(1856)に彦根藩より窯元の免許を得て、藩窯などから素地を
求め、それに上絵付を行なった。
その内の一人、自然斉は「米屋」という旅籠を本業としていた。赤絵、金彩を加えたもの、色絵と多彩で、中には青磁の肌に赤絵色彩を施した特異な作品もつくった。この自然斉の住居が、旧鳥集会所である。
明治を迎えると湖東焼の窯も宿場もともに衰退し手行った。
  

朝鮮人街道
中山道の脇往還で、主要地方道大津能登川長浜線の一部で約40km。鳥居本から中山道と分かれて、彦根・安土・近江八幡を経て、野洲行畑で中山道に合流する。
もとは屈曲の多い野道だったが、織田信長や豊臣秀次が築城の際、城下町繁栄の為に貨物や旅人を東山道から迂回させるように拡充した。
さらに関が原合戦で勝利を得た徳川家康は、この道を通り京都に入ったので、縁起のいい古道とされ、歴代将軍の上洛時の通路となった。
このため、能登川町伊庭と野洲町永原には、御殿という将軍専用の休憩宿泊所が設置された。
徳川幕府は、隣国朝鮮との友好親善を重視し、朝鮮通信使を優遇するためこの街路を通行路にあてた。朝鮮通信使は、将軍の就任祝賀のため代始め毎に派遣された。この街道を往復したのは十回であった。

広重 木曾街道六十九次之内 鳥居本
 

鳥居本宿の北側で中山道と北国街道に分岐する。中山道は東(右手)に折れ、急な山道を登り摺磨針峠(すりはりとうげ)を越える。
浮世絵は峠にあった望湖堂(ぼうこどう)という本陣構えの茶屋(昼食や茶・菓子などを提供する休憩所)付近から琵琶湖の絶景を望んだ光景である。
ここでは「すりはり餅」が供され、参勤交代の大名や朝鮮通信使らも立ち寄って休憩した。現在では内湖が干拓され、ここから望む琵琶湖の湖岸は遠くなってしまった。


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