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西の湖が結ぶ城下町〜安土・八幡
Sainoko, Azuchi,Oumihachiman

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水郷めぐり
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Culture
 
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Jan.2011 中山辰夫

水郷

近江八幡市白玉町・円山町
解説:滋賀県教育委員会発行資料

 

水郷については円山神社(近江八幡市 円山町)や西の湖を結ぶ城下町安土〜八幡(安土町)にも記載している。
日牟禮八幡宮かの東から西の湖にかけての一帯は水郷を配した、豊かな水環境で、風光明媚な所とされている。
屋形舟での水郷めぐりは、葦が育んだカイツブリや四季折々の味わいがあって近江八幡の観光には欠かせない風物である。




June 2010 撮影/文:中山辰夫

新緑が色濃さを増しつつある5月22日、安土町内《安楽寺港跡》〜近江八幡市内《八幡堀》まで、西の湖を和船で散策した。

安土町は平成22年3月21日近江八幡市と新設合併し、蒲生郡安土町から近江八幡市安土町となった。
もともと安土・近江八幡は隣り合った町同士で、歴史的にも深いつながりがある。

滋賀県教育委員会による合併にタイミングを合わせた催しであった。参加して、あらためて両町の“近さ”を確認した一日であった。

以下に続く解説は同委員会発行の案内パンフレットを主に引用したものである。

先ずは安土〜八幡の歴史を振り返ってみる。

安土〜八幡へ〜近江の織豊期(しょくほうき)
天正4年(1576)正月、織田信長は琵琶湖の東岸に位置する安土山を居城と定め、築城を開始した。それはまさに近江が近世社会へ歩みをすすめる、その序章ともいえる出来事だった。
中世の近江は、守護佐々木六角氏のもとに緩やかに支配されつつ、延暦寺や一向一揆をはじめとした在地の諸勢力が自立して存在するという、特殊な権力のあり方が見られた。

信長は、元亀の争乱の戦いを通してこれら諸勢力を滅ぼし、懐柔して自己の権力を拡大していった。
安土城築城は、近江から反信長勢力を一掃し、信長が近江支配を確立した段階で行われた行為であり、近江が織田政権のもとに統一されたことを示す象徴的な出来事だった。

安土城は高石垣の上に聳え立つ高層の天主と、屋根を飾る金箔瓦や金箔鯱瓦をもつ城郭だった。安土城は戦う城郭でなく見せることに主眼をおいた城郭といえる。
今まで見たこともない城郭を目の当たりにして、それまでとは異質な権力、統一権力の登場を実感したのではなかろうか。

信長は、築城と同時に城下町づくりにも着手した。
このあたりは豊浦庄(とようらのしょう)と呼ばれる薬師寺の荘園があった場所で城下町以前から集落が存在していた。
信長はその集落を活かしながら新たな都市を建設していった。
城郭と城下町がセットとなった都市安土は、信長の天下統一の拠点として、まるで首都のような賑わいをみせたことが記録に残る。

その後、築城開始からわずか7年後の天正10年(1582)6月2日、京都本能寺で信長は明智光秀の謀反により滅ぼされる。
しかし、安土城には直後に光秀が入城し、光秀が羽柴秀吉に敗れた後は、織田信雄や三法師が秀吉の後見を得て入城しており、安土城は廃城とならず、城としての機能を維持し続けた。
秀吉は、織田政権の象徴である安土城に入城することで、自らが信長の後継者であることをアピ―ルしょうとしたのである。

安土城が最終的に廃城になるのは、織田家の天下が終焉したときである。信長の死後も織田家の天下が存続していた。
織田家の継承者たりうるのは次男の信雄と三男の信孝だけだった。信孝は柴田勝頼と組んで秀吉と対立し、敗れて自害する。
信雄は徳川家康と組んで小牧長久手の合戦で秀吉と対決するが、講和を結び、結果として軍門に降りる。
こうして秀吉は織田政権の乗り越えに成功する。

こうなると織田氏の天下を象徴する安土城は邪魔になる。そこで秀吉は、天正13年(1585)8月、甥の羽柴秀次を安土に隣接する八幡に入れる。

秀次は、築城と城下町の建設を開始し、安土城下から八幡城下へ町ぐるみ移転させている。
この結果安土城は廃城となり、賑わいを見せた城下町も衰微してゆく。
八幡城築城は、織田氏の天下から羽柴氏の天下へと時代が移り変わることを示す象徴的な出来事で、ここから近江の近世社会が本格的にスタ−トすることになる。

織田信長にとっても秀吉にとても琵琶湖は戦略上重要なポイントで、その制海権の掌握が必須の課題であった。
(毎朝、信長は入手した望遠鏡で琵琶湖を見つめ、戦略を練っていたのであろう)

安土城下
天正4年(1576)織田信長による安土城築城にともなって、安土山の西および南麓に形成された城下町である。
家臣団と職人・商人が同一の城下に集住している点で近世城下町の先駆とされ、一方で城下内部では武家屋敷地区と町屋地区の区別が明瞭でないこと、畑地が混在しているなどから、中世城下町の形態も多分に残していたとされる。

城下の中心は安土山西麓、現在の下豊浦・常楽寺一体である。
城下には下豊浦湊と常楽寺湊があり、両湊ともに六角氏時代からの湊で江戸時代には下豊浦湊は漁港、常楽寺湊は年貢積出港として賑わいをみせた。

安楽寺村と港
常楽寺村は、北は西の湖に面し、西は浅小井村(あざごい 現近江八幡市)。
朝鮮人街道が南北に通り、西の湖に通じる堀割には常楽寺湊があった。
地名はかつて沙沙貴神社の神宮寺であった常楽寺があったことによるが、同寺は戦国時代に焼失したといわれ、同寺にかかわる地名・礎石 仏像などが伝わる。
安楽寺については、野洲郡の錦織寺(既報)から阿弥陀本尊が預け置かれたり、明応(1492〜1501)頃の金剛輪寺(泰荘町 既報)の下倉米銭用帳によれば六角氏御用木材を常楽寺へ進上している記録が残る。
また、信長公記にも、織田信長が元亀元年(1570)2月安楽寺に滞留、元亀3年(1572)4月坂本から当地へ船で渡ったと記載されており城下町形成以前から当地は湊として、また宿場として機能していたとされる。
安土城時代には下豊浦村域とともに同城下の中核地域となり、当地はおもに町屋区域であったと想定される。

湧水地(北川・音堂・梅の川)
常楽寺村周辺は、繖山(きぬがさ)から北に延びる舌状台地の先端部に位置し、伏流水となった愛知川の水が湧出する場所となっている。
中でも、梅の川と呼ばれる湧水は、茶人としても有名な武井夕庵(たけいせきあん)がこの湧水を使って度々茶を点て、信長に献上したといわれる。
このほか通称「北川」や「音堂」と呼ばれる湧水地では、年中綺麗な水が湧き出ており、今でも野菜などを洗う人の姿が見られ日々の生活に役立っている。
北川は昭和62年、コンクリート岸の老朽化に伴って改修工事が実施され、現在の石畳になって、落ち着いた佇まいが周辺の景観に溶け込んでいる。
この北川が常の浜を経て西の湖に清水を注いでいる。

木村城跡
土豪木村氏の城館があったとされるところである。
木村氏は六角氏の被官であったが、信長の近江侵略後はこれに随い、一族の木村次郎左衛門尉は安土城下町建設後、町奉行になる。
また沙沙貴神社の神官の系譜の中にも木村氏の一族が出てくる。
木村城跡は安土町大字常楽寺字木村に比定され、常楽寺港につながる水路を堀として利用していたようである。
現在は畑となっているがかつての堀が水路となって残っている。

安楽寺湊は、中世から近世にかけて、近江湖東地域の物資の集積、流通の要所として重要な役割を果たしてきた。
信長は城下町構築の際も、港の機能を取り込むため、城下町に取り込んだ。
東海道線が開通するまで使われていた港は、ヘドロや雑草が繁殖し、環境が悪化したが、昭和58年に改修工事が行われ、「常浜公園」として整備され、今では美しい周辺住民の喜ぶ散歩道として親しまれている。
水辺の植物も彩を加えて人々に安らぎを提供している。
その周辺からは、かつての船着き場の様子を偲ぶことができる。

西の湖を囲む山々
安土山(ハ見寺跡 そうけんじ)から見た西の湖

繖山(きぬがさやま・観音寺山)から見た西の湖

八幡山から見た西の湖

いよいよ西の湖めぐりである。約90分、和船(エンジン付)で巡り、近江八幡到着後は徒歩で散策する。

安土町のスタートは安土駅を起点に浄巌寺(既報)から始まった。八幡堀までのコースは次の通りである。

常楽寺港(常浜公園)〜山本川〜西の湖〜長命寺川〜西の湖園地〜ヴォーリズ記念病院〜八幡堀〜白雲館

内湖=西の湖について
かつては、大中の湖や入江内湖といった大きな内湖が琵琶湖の沿岸にいくつも点在していた。
大中の湖は内湖の中で最大のもので、その南には中洲を境にして西の湖をはじめとする三つの小中の湖が接していた。
西の湖以外の内湖は干拓されてしまい、現在では西の湖が琵琶湖に残された最大の内湖である。

舟上から見える安土山と繖山(ハ見寺跡の三重塔の水煙が見える)

山本川から西の湖へ入る

対岸の景色

ヨシの群生
イグサ栽培はすたれたが、近世ではこの辺りの特産品だった。
ヨシは簾や衝立、屋根葺の材料に利用されたが、今も利用されているヨシ原の半分以上はこうした用途のための生産ヨシ田である。

釣り人

エリ漁と淡水真珠養殖
西の湖はエリ漁場としてすぐれており、13世紀には沿岸の村が競ってエリ漁を行なっていたことがわかっている。
また、イグサやヨシの栽培も中世にはすでに行なわれていた。
内湖の資源を多角的に活用して生業とする生活は、かなり早くから行なわれていた。
淡水真珠の養殖は続くが、魚類の捕獲量は激減している。外来魚が在来種の繁殖を阻害していることによる。
琵琶湖の固有種が繁殖できるように内湖の機能が戻り、環境が整備されるよう、内湖を復元する努力が緊急課題である。

長命寺川に近づく
琵琶湖へ出るにはこの長命寺川をさらに直進する。

水門
手前をまわってヨシ原を通る水路に入る。

ヨシキリ
声はすれども姿を探すのは難しい。

水郷風景
西の湖のヨシ原を通る水路は、やがて田んぼの間を抜けて白王(しらおう)・円山(まるやま)北の庄に到着する。
これらは田船で家と仕事場を行き来する場として利用されていた。
かつては豊富だった魚は、エリで多量に捕獲されて商品として売りに出されるだけでなく、水路際に仕掛けたウケやタツベで捕って自家消費もされていた。
また、内湖にあった泥や藻は水田の床土(とこつち)と入れ替えられ、イネの肥料となり、掘り出した粘土は瓦の材料にされた。
(近江八幡市 かわらミュージアム 既報)

西の湖に残された水郷の風景は、長年にわたるこうした生活によって生み出され維持されてきたのである。
縦横に水路がめぐる田んぼやヨシ田の風景は、かつては琵琶湖の他の場所でも見ることができたが、今では西の湖など僅かな場所しか残されていない。

西の湖西部の水郷地帯は、平成18年に文化財保護法の中に新設された「重要文化的景観」の第1号に選定され、また平成20年10月30日にラムサール条約の湿地に西の湖が追加登録された。

約90分の和船の水郷めぐりは西の湖園地に到着して下船となった。これからは徒歩での散策である。

八幡城下について

近江八幡市内に向けて散策開始

礼拝堂

近江療養院本館ツツカーハウス
ツツカーハウスは老朽化し危険なため立ち入り禁止である。病院の規模は大きい。

八幡堀(既報)

白雲舘(既報)

ここで解散となった。安土・八幡は近かった。琵琶湖に抜けるにも船の利用は利便性が大きい。

安土城お堀めぐり
6月のはじめの日曜日。合併を終えた安土町では第22回目の“信長まつり”が安土城を主会場に盛大に開催された。
この日には、安土城の外堀を手漕ぎ和船でめぐる、期間限定の和船試乗体験が出来ると聞いて出かけた。
外堀とされる安土川は普段水量が少ないが、5月6月の間は田圃に水を入れるため、水深約1.5mの深さになるため和船に乗れる。
船上から見上げる安土山やヨシ原をゆっくり・のんびり眺めながらの数十分は気持ちよかった。
5月末に行った西の湖巡りとは似たようで、また、異なった風情があった。

参考文献《滋賀県の地名、滋賀県の歴史、湖と城と近江、内湖からのメッセージ、滋賀県教育委員会配布資料、他》

 





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