愛知県一宮市 妙興寺
Myokoji,Ichinomiya city,Aichi
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一宮市大和町妙興寺2438 妙興寺勅使門 重文 近世以前/寺院 室町前期 貞治5(1366) 四脚門、切妻造、桟瓦葺 19200415
妙興寺は正式には妙高報恩禅寺、南北朝期創建の臨済宗妙心寺派の寺院です。
明治期に火災で多くの建物を失いましたが、勅使門(重要文化財)は創建当時のものです。
総門
勅使門(重要文化財)
扁額は後光厳天皇の勅額です。
境内各所
June 2011 柚原君子
正式名称 臨済宗妙心寺派長嶋山妙興報恩禅寺
所在地 愛知県一宮市大和町妙興寺2348
妙興寺は鎌倉時代の貞和4年(1348)創建とされる臨済宗妙心寺派の古刹。室町幕府から手厚く保護を受け、足利2代将軍義詮(よしあきら)が祈願所としたところから五山制度の諸山と同格に。
境内は鎌倉建築様式を保つ七堂伽藍様式を維持。
開山当時、衆僧100名。米一日約1俵以上を使っていたというくらい大変栄えていたそうです。
撮影中も修行される方でしょうか、僧侶の方が礼儀正しく姿勢良く境内を歩かれていました。
足利時代より200年ばかりは政争の巻き添えで捨て置かれた寺になっていたそうですが、後に豊臣秀次が荒廃した妙興寺を見つけて改修したそうです(このときに臨済宗建長寺派から妙心寺派に変更)。
そのような理由で妙興寺には異なった家紋が2つみられます。総門に上がっている「丸に二つ引き」が足利尊氏の定家紋。仏殿の扉にある「五七の桐」が秀吉の家紋です。
仏殿は申し込めば中に入らせてもらえます(月曜日休)。
妙興寺全体が森のように樹木が深く多く、附近を名鉄が通る(妙興寺、という駅が有ります)町の中とは思えない静けさの中にありました。
総門
妙興寺入り口の一番初めの門。その後に勅使門、竜王池、三門、仏殿、左に折れて方丈、庫裏、鐘楼と続く。総門は伽藍の中心線上にはなく東にやや寄った所にある。朱色の文様が周囲の大木が落とす影の中で際立っていた。昭和34年伊勢湾台風で倒壊後、37年再建。59年に愛知県一宮市指定文化財になる。形式は三間薬医門。どこかで見た形とネットで調べたら、東大の赤門も三間薬医門でした。
※薬医門とは本柱の後方に控え柱を立て、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)をかけ、切妻屋根をのせた門のことだそうです。
勅使門(国 重要文化財。大正9年指定)
勅使門は貞治5年(1366)に後光厳天皇の勅願によって建立したと伝えられる四脚門。切妻造、屋根は桟瓦葺。本格的な禅宗様式。
総門をくぐるとやや西よりに勅使門がある。妙興寺創建当時からの唯一の建築物であり、一宮市でも最も古い建築物。門にかかげる勅額「国中無双禅刹」は1353年(文和2年)後光厳天皇より賜わったもの。勅額を撮影するにはかなり下側から狙わねばならず、地面にはいつくばって撮影。綺麗な額です。
ちなみに勅使とは
以下、ウィキペディアフリー百科辞典より。
『勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨を伝達することから、勅使を迎える者が、たとえ官位において勅使よりも上位であったとしても、天皇への臣礼同様、敬意を払うこととされた。主に鎌倉幕府成立以降、勅使は将軍宣下や勅令の伝達を主として担った。江戸幕府では勅使下向に際し、外様大名のなかから勅使や院使の饗応役を任じてこれを接遇した。
江戸時代に将軍宣下が江戸城内で行われるようになると、勅使は下座に坐し、将軍が上座に坐すという変則が常態化した。しかしこれも幕末になると尊王思想の浸透により公武の権威がふたたび逆転、勅使が上座、将軍が下座となる。
勅使を受け入れる施設や宿場、寺社には勅使専用の部屋や門を造られ、現在でも勅使の間、勅使門として残されているところがある。
現在では、正倉院の「開封の儀」や皇族男子の婚約相手の家で執り行われる一般の結納にあたる「納采の儀」の際に、モーニングコートにシルクハットで威儀を正した勅使が派遣される。勅使には、侍従や掌典が遣わされるのが慣習である』。
三門(山門)
三解脱門を省略して三門というそうですが、のちに山門と書かれるようになったそうです。(三解脱門とは、仏道を歩み、菩提を求める者は、空・無相・無作の三つを解脱しなげればならないということ。空とは、真理の本体そのものをいう。真理から下界をみるとなんら執着する姿はなく、これを無相という。私たちは欲望と嫉妬と妄想に苦しみ物の実相を見ることができない。執着(無相)せず、悟るべきである(無作)と)。
門といっても扉もないせいでしょうか、くぐるとなぜか大きな世界に出たような気がしました。扉はつける場所はあるそうで、明治11年(1878)再建された門は、明治24年濃尾地震によって壊れ、復興のさなかのあわてた修理で扉もつけなかったということらしいです。おおらかな門をくぐるとなんだか気持ちが良く、扉はいらないじゃん、と思いました。
6月の樹木は茂りに茂って、三門全体を撮るため後に下がったり斜めに走ったりしましたが屋根の一部がどうしても欠けて、私のカメラ技術では無理でした。三門の下で楽器練習中のおじ様。一度も曲が絶えることなく(私たちを見ることもなく)、なかなか良い雰囲気でした。
仏殿
石段を積み上げた上に、釈迦三尊像を安置した正面5間、側面五間の正方形の重厚な仏殿があります。入母屋造りの優しくなだらかな曲線の屋根と、どの角度から眺めても木組みの美しさとが際立ちます。撮影日は月曜日で休日。拝観はできませんでしたが仏殿のわずかに開いていたところにカメラを置いて中を撮影しました。天井には極彩色の龍の洋画がありました(仏殿には珍しいそうです)。絵師は山喜多二郎太氏。
方丈
庫裏
明治三十年再建の庫裏には、台所口に必ず韋駄天像を安置する。韋駄天とは、韋駄天走りの名が起こる本尊であって、払暁、寺院の近隣を走り回って、その寺のその日の食料を集めて来る役目の仏だそうで、そのために足が早い。ゆえに本来、速歩の神というのではなく、台所の食料神である。
禅寺の庫裏は、高く大きい切妻を正面とし、目に染みるほ どの白壁に縦横にわたされた柱・束・梁・貫の構成がひときわ目立つ。そして大棟に煙出しの櫓をのせる。(妙興寺HPより)
注:韋駄天が釈尊のために方々を駆け巡って食物を集めたとの俗信に由来して「ごちそう(御馳走)」という言葉が出来たそうです。
鐘楼(県文)
四本柱の方一間で二階建て。一階を白壁にしているが、もとは袴腰(板張り)であったと思われる。東側の中央に横長の窓を、西側に縦長の窓をつける。二階の外部に突出した縁回りには、擬宝珠高欄を設ける。二階の周囲も白壁にして、東側の中央に円形窓を、南側と北側に花頭窓をつける。西側には撞木があるので、白壁を四角に区切る。白壁の上部に波連子欄間をめぐらす。江戸時代再建の鐘楼であるが、各所に古い様式を残して、簡素なうちに変化のある意匠が優れている。切妻屋根は創建当時、桧皮葺であったが、解体修理の際、銅板葺にした。(妙興寺HPより)
一宮市マンホール
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