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愛知県名古屋市緑区 鳴海

Narumi,Midoriku,Nagoya city,Aichi 

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Mar.26,2016 中山辰夫

有松へ行く前に、東海道五十三次の41番目の宿場であった鳴海宿の面影を求めて散策する。とはいえ駆け足で殆ど見過ごした。

出発は名鉄鳴海駅。 極くわずかな範囲の立ち寄り先です。

浅間社

祭神は木花開耶姫命。1737(元文2)年に鳴海八幡宮の御旅所となった。通称浅間堂。境内には、火伏せ(防火)の神様である秋葉社が合祀されている。

  

扇川

    

いよいよ旧東海道に入る。すぐに目に入った案内

  

猩々(しょうしょう)が保管をされているので見せて頂いた。 

(有)近清商店

名古屋市緑区鳴海町字下中2番地 伝統工芸鳴海絞り、刺繍手加工品、婦人服や雑貨類の製造・販売、絞り染めのワークショップ

猩猩とはこの地方に伝わる架空の動物の大人形。例大祭の際人形の中に人が入り,祭礼行列に加わって歩く練り物の一種で、行列の先導警護役として,最先端に立つ役と,町の辻で子供を追いかけて遊ばせる役がある。人形は結構背が高く、重く、片手で支え、団扇を振って子供たちに迫る作業は大変。

        

近清さんは1917(大正6)年創業で、3代目。「絞り」の工程も見せて頂いた。

     

餅屋茂富 付近は「曲尺之手」(かねのて)

1857(安政4)年初代初次郎により開業以来160年にわたる和菓子の店

宿場町の中心付近で、道がクランクに曲がっており、この名がある。敵の侵攻を防ぐためにわざと道を曲げた。この角を利用して大名同士の鉢合せを防いだ。

    

萬福寺 

黄檗宗 永享年中(1429〜41)の創建で永禄三年(1560)兵火で焼失再建した。

永享年間(1429〜41)年の創建。本堂は、中興の連順和尚が1827年から25年を懸けて改築した。

幕末尾張藩主徳川慶勝の直筆による扁額「鳴海寺≫が残されている。名古屋の彫物師瀬川治助による本堂の欄間が見事とされる。

山門

          

本堂

      

    

瑞泉寺 曹洞宗

規模、構造の雄大さは市内屈指のもの総門は、宇治の万福寺総門を模して造った黄檗形式の珍しい建造物で、県指定の文化財。

名古屋市緑区鳴海町字相原町4

寺伝によれば永徳元年 (1381)大徹宗令が東遊の際、鳴海の平部山に庵を結び人々に説教したのが始まり。

堂宇は1396年建立。応仁・文明の兵火を経た後、宝暦年間(1751〜59)に豪族下郷弥兵衛の援助により伽藍が再興され寺観が整備された。

山門は、宇治の黄檗宗萬福寺の総門を模したもので県の重要文化財に指定されている。

法堂の裏には龍王堂があり、龍神伝説が残されている。徳川家康が近くを通りかかり休憩した際に、当寺に与えたとされる「香盤」が保管されている。

規模、構造の雄大さは市内屈指のもので、裏の墓地から西方の景観が素晴らしいとされる。

山門 愛知県指定文化財

三間一戸、重層四脚門、屋根は本瓦葺、段差のある二重門で、屋根両端に鯱を掲げる。

京都萬福寺の総門に模したのは、萬福寺と関係の深い下郷家の浄財によって建てられたことによる。規模や細部手法を忠実に模している。

     

本堂の正面に一本の柱が建っている。

現存する法堂・山門及び鐘楼は宝暦年間に再興されたもの。庫裏は文化年中(1804〜18)、僧堂は幕末1867(慶鷹3)年の再建である。

          

旧東海道の面影を感じさせる町並み−平部あたり "うなぎの魚仙"。街道には鰻屋がよく似合う。鰻屋さんが多いとか。

     

数少ないが古民家を見かける

   

金剛寺

鳴海町平部の旧東海道沿いにある。1760(宝暦10)年瑞泉寺二十世呑舟の開山。本尊は木像行者菩薩像で、当初は行者堂と称した。

    

千代倉

もと千代倉家。表札は千代倉、脇には「夢斎工房」の看板が掲げてある。数量限定のお蕎麦屋さんとか?

  

千代倉家(ちよくらけ)と芭蕉

鳴海の豪族下郷(下里)家一族は宿村役人を勤めた家で、本家筋に当たる下郷次郎八家(千代倉)は江戸時代造り酒屋で江戸へ船で出荷して財をなす。

二代目当主吉親(俳名知足)は文人で芭蕉の門弟の鳴海六俳仙の一人でリーダーであった。

芭蕉は熱田の俳人林桐葉を介して知足と懇意になり、熱田に来たときは必ず鳴海の知足宅に足を延ばし逗留して俳席をもった。

知足の子秀雄(俳名蝶羽千代倉三代目)、元雄(俳名亀世千代倉四代目)、孫の昌雄(俳名常和千代倉五代目)、寛(俳名学海千代倉六代目)ら多くの俳人を生んだ。

神明社

東海道から石段を登って神明鳥居をくぐると社があり、室町時代の創建で伊勢神宮の分祀社。

大昔は鳴海潟が展望できた景勝の地で伊勢遙拝の好適地であったとされる。本殿は昭和9年の造営で祭礼の夜祭は各町内の出物が有名であった。

崖下の東海道に松並木の名残の一本がある。

     

平部の常夜塔

文化3年(1806)宿場町の東入り口に建てられたもの。夜灯りをつけ、旅人の目印、宿並びに道中の安全を祈願したものである。石灯籠の四面に「永代常夜灯」「宿中為安全」「秋葉大権現」「文化三丙寅正月」と文字が刻まれている

   

ここまで来ると鳴海宿は有松に入る。

鳴海には寺が多くある。しかも大寺院が多い。旧東海道の面影は所々で散見できる程度であった。

参考資料

鳴門は更級日記にも登場する。江戸時代以前はもっと海よりにあった。

鳴海のある場所は「尾張の東の入口)に遭って戦略上重要な地点であった。戦国時代には信長が多くの砦を造った。

鳴海は1843(天保14)年の宿勢は、本陣1、脇本陣2、旅籠68、総家数847軒、人口3,643人で、多くの旅人で賑わった。

4度訪れた芭蕉が残した数多くの俳句と足跡が残る。

そして

鳴海球場が懐かしい.沢村・スタルヒン・ゲーリック、ベーブルスが加わった1931(昭和6)年の日米野球を皮切りにその後の球界の歴史に大きく寄与している。

       

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