秋田県横手市 増田
Masuda,Yokote city,Akita
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横手市増田町増田字中町63 佐藤家住宅 文庫蔵 重文 近代/住居 明治 明治前期 土蔵造、建築面積136.70㎡、二階建、鉄板葺 20170223
横手市増田町増田字七日町139 旧松浦家住宅 主屋 重文 近代/住居 明治 明治22(1889) 木造、建築面積224.41㎡、二階建、鉄板葺 "門及び塀1棟 門:一間腕木門、間口2.4m、鉄板葺
塀:南塀延長13.9㎡、北塀延長7.2m、鉄板葺" 20170223
横手市増田町増田字七日町139 旧松浦家住宅 座敷蔵 重文 近代/住居 明治 明治36(1903) 土蔵造、建築面積145.66㎡、二階建、サヤ附属、鉄板葺 棟札1枚:明治三六年三月 20170223
横手市増田町増田字七日町139 旧松浦家住宅 米蔵 重文 近代/住居 明治 明治23(1890) 土蔵造、建築面積139.50㎡、二階建、鉄板葺 20170223
Sep.2017 酒井英樹
横手市増田地区の街並み
秋田県南部の山間部に位置し、羽州街道から仙台藩領寒湯(ぬるゆ)へ抜ける小安街道沿いにある。
通りに沿って短冊形に割られた敷地に、意匠的に発展した切妻造妻入を主とする店舗兼住宅の主屋が連なる。
その背後には芋やと連続する鞘付土蔵を接続して、豪雪に対応した長大な空間を形成している。
近世期に整備された地割や水路を残し、近代にかけて繁栄した在郷町の歴史風情をよく伝えるものと評価され伝統的建造物群保存地区に指定されている。
旧松浦家住宅
旧松浦家住宅は横手市南部に位置する増田伝統的建築群保存地区のほぼ中央部に所在する。敷地は保存地区を南北に貫く旧街道に西面し、間口11m、奥行き94mで、敷地の西正面も前栽を隔てて主屋を建て、その後方に主屋から延びるサヤで覆われた座敷蔵を接続する。更にその背後に小庭をおいて独立した米蔵を配置する。
松浦家は、3軒南側の本家から明治21年(1888)に分家し生糸仲買を生業とした。その後明治43年(1910)に増田水力電気株式会社の設立に参画するなど発展を遂げ、明治期増田を代表する実業家となり、県会議員なども歴任した。
主屋は普請関係資料から明治22年(1889)竣工と分かり、桁行22.6m、梁間9.6m、木造二階建、切妻造、妻入、鉄板葺である。
主屋をはじめ接続する座敷蔵、独立して建つ米蔵の3棟は建築年代が明らかであり、主屋は当地方の伝統的な住宅形式を良好に伝えるとともに、増田地区における住宅の近代的変容の端諸をよく示しており、高い価値が認められ平成28年(2016)に3棟とも重要文化財に指定されている。
≪主屋≫
佐藤家住宅
佐藤家は横手市南部に位置する増田伝統的建築群保存地区のほぼ中央部に所在する。敷地は保存地区を南北に貫く旧街道に東面し、間口8.7m、奥行き111mで東端に主屋を構え、後方に蔵前を介して文庫蔵を建てる。
佐藤家は北隣にあった佐藤又十郎家から分家したと伝え、現在まで又六を襲名している。資料から宝暦2年(1752)には当地に居住していたとみられるが、近整の様相は定かではない。明治25年(1892)頃には荒物商を営んでいたと分かり、明治28年(19895)の増田銀行設立に際し、9代目が取締役に就いた。その後は味噌、醤油などを扱い、昭和41年(1966)以降、写真店を営んでいる。
主屋は、明治4年(1871)頃建築と伝え、小屋組などの技法からも明治初期の建築とされる。前寄りの桁行18.1m、梁間7.0mの規模を持つ主体部を、奥行きの長い切妻造、妻入の土蔵造として、サヤで覆い、1階前面に奥行き1間半の下屋を張り出す。主体部の後方には木造平屋建の附属屋を延ばし、背後に建つ文庫蔵の蔵前と接続する。屋根は鉄板葺である。
ミセノマや居室からなる主体部を長大な妻入の土蔵造に納めてサヤで覆うという、独特な後世になる住宅で、明治初期に遡る保存地区最古級の遺構であり、平面構成などに当地方の近世以来の形式を保持しつつ、主屋のサヤの拡張や装飾化が増田家の経済的隆盛を背景とした住宅改修の趣向をよく示しており、高い価値が認められ平成28年(2016)に重要文化財に指定されている。
≪主屋≫
Oct.3,2017 瀧山幸伸
横手市増田伝統的建造物群保存地区は秋田県横手市増田にある伝統的建造物群保存地区。横手市の都市計画によって決定された保存地区であり、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
当保存地区がある増田町は横手市の中心部から南に12kmほど離れた位置にあり、また羽州街道からも南東に3kmほど離れた位置にある在郷町である。町中心部を南北に貫く県道108号線(中七日町通り、愛称『くらしっくロード』)を中心とした南北約420m、東西約350mの範囲が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
当地域は近世から近代にかけて流通・商業の拠点として繁栄した地域であり、江戸時代以来の町割りが残り、沿道には切妻造妻入形式の主屋が立ち並んでいる。各家の間口は5間 - 7間程度と狭く、一方奥行は50間 - 70間と長大な短冊形の敷地であることから、主屋の背後に内蔵(うちぐら)と呼ばれる鞘付土蔵を接続して、豪雪地帯に対応した長大な内部空間を確保している。重要伝統的建造物群保存地区の選定にあたっては、このような地方的特色を示す点と、東北地方で数少ない商家の街並みをよく残している点が特筆された。
伝建制度発足以来「町並み保存」が主眼とされてきたが、建物の外観からは知ることができない「内蔵」という内部構造が高く評価された点で、増田の町並みの重伝建地区選定は画期的とも言える出来事であった。
重要伝統的建造物群保存地区
選定範囲 - 秋田県横手市増田町増田字本町、字田町、字中町及び字七日町の各一部
種別 - 在郷町
面積 - 約10.6ヘクタール
保存地区都市計画決定告示年月日 - 平成25年7月1日
重要伝統的建造物群保存地区選定年月日 - 平成25年12月27日
選定基準 - 伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
伝統的建造物及び環境物件の特定数 - 143件(平成25年12月27日現在)
伝統的建造物(建築物) - 119件
伝統的建造物(工作物) - 9件
環境物件 - 13件
指定・登録文化財 (建造物)
国の重要文化財 - 2件5棟
国の登録有形文化財 - 16件34棟(伝建地区外の1件含む)
横手市指定文化財 - 7件11棟(伝建地区外の1件含む)
歴史
増田地区の起源は、貞治年間に小笠原氏が、現在の横手市立増田小学校付近に増田城を築いたことに始まると伝わるが、城は元和年間に破却された。一方で、増田は羽州街道からは外れるものの、手倉街道と小安街道が交わる交通の要衝であり、寛永20年(1643年)には現在まで伝わる増田の朝市が始まるなど、秋田藩南部の流通の拠点として栄えることとなった。元禄16年(1703年)の絵図に町並みが描かれていることから、遅くとも18世紀初頭には町の骨格が成立したものと考えられている。現在残る町並みは江戸時代末期の町割りを踏襲するとされる。
町屋の造りと「内蔵」
増田の町並みは、同じく「蔵の町」として知られる倉敷、川越、喜多方などとは違い、表通りを歩いて目にすることができる蔵はほんの数軒にすぎない。一見するとただの古びた商家の奥に豪華な内蔵が隠れているのが、増田の大きな特色であり魅力とも言えよう。
前述の通り、増田地区の町割りは通りに面して短冊状に敷地が割られ、各家の主屋が通りに面しており、主屋背後に「内蔵」(うちぐら)と呼ばれる鞘付土蔵が接続されている。この内蔵は「鞘」(さや)と呼ばれる主屋と一体となった上屋に覆われており、外からは見えない構造となっている。
敷地内での配置は通りに面する側から、主屋・鞘付土蔵・庭の順で並ぶものが多く、庭では「外蔵」(とぐら)と呼ばれる独立した蔵が設けられる例も多い[2]。敷地背面が裏通りに接する場合、通りに面して門と板塀が設けられており、各家は「表通り」「側面・路地通り」「裏通り」において3つの異なる様相を見せる。
通りに面する「主屋」は切妻造り二階建て妻入りのものが多く、妻飾りとして化粧梁や化粧束を現し、更に巨大な梁首を突き出し斗?や木鼻といった寺社建築を思わせる装飾も見られる。(これらはあくまで装飾であり建物の構造体とは関係がない)二階窓には「霧除け」と呼ばれる小庇を出し、繁垂木や扇垂木、「二軒(ふたのき)」など装飾性の高いものも多い。妻側の「螻羽」は一間余りと非常に深く、建物の表情に陰影を与えている一方で、軒先は一尺から二尺と極めて短い。これは秋田県地方の町屋に多く見られ、有数の豪雪地方である増田においては特にそれが発達したものと考えられる。 この他にも、数は少ないものの入母屋造り棟入り(興文堂東海林書店)や、木造三階建ての主屋(旧石田理吉家)、土蔵造りの店蔵(旧村田薬局、旧佐々虎呉服店)なども見ることができる。内蔵のみならず、これら伝統的な町屋の外観を数多く残している点も高く評価されている。
主屋内部は建物南側を通り土間が貫き、入り口から店(見世)、おえ(居間)、水屋などが続き通り土間に面して中庭を設けて採光を図るなどの工夫も見られる。主屋から棟続きの鞘(覆屋)が続き高い吹き抜けの蔵前となり巨大な生活空間を構築し、通り土間の一番奥に内蔵を配するのが増田の一般的な町屋の構造である。
一般的な内蔵の造りは、前後に掛け子塗りの扉を設け、壁は磨き上げられた黒漆喰塗り、壁面下部及び扉は「鞘飾り」と呼ばれる漆塗りの木枠が配されている。 扉の蛇腹は五段にも及ぶものもあり、光沢を放つほどに磨かれた黒漆喰、工芸品のような豪華な鞘飾りなど建築・左官技術の域を超えて芸術的ですらある。
蔵の構造体は欅、栗、松などの良材をふんだんに用い、五寸五分の通し柱を壁面に一尺間隔でびっしりと並べる内蔵も見られる。梁は重ね梁や束立てといった和小屋組からトラス構造まで多彩で、建築年代による技法の違いを比較することもできる。これらの柱や梁を漆塗りで仕上げた内蔵もあり、今なお建築当時の眩いばかりの輝きを放っている。これら法外とも思える贅の限りを尽くした蔵の建築が可能だったのも、鞘に覆われた内蔵という特殊な構造あってのものだろう。
用途は、物品や文書を保管するための「文庫蔵」と、当主や家族の私的空間として使用される「座敷蔵」に大別され、前者は全面板の間、後者は1階奥を畳敷として内部を2室に分けている。座敷蔵の方が数が多く、文庫蔵を後から座敷蔵に改装したものも多く見られる[5]。ただし、寺社や酒蔵では、座敷蔵として使用されているものも文庫蔵と呼びならわす例があるとされる。
現在19棟(うち3棟は事前予約制)が公開され、見学が可能である。
(wikipedia)
佐藤又六家住宅 重要文化財
旧松浦家住宅
佐藤多三郎家
山吉肥料店
美しい内蔵の街
案内所
南から北へ
非公開の家
佐藤こんぶ店
蔵の駅
南へ
Sep.2004 瀧山幸伸 source movie
タバコなどの物産集積の街だが、ポテンシャルを残し、整備は遅れている。
*取材メモ
2004年9月 良い建物と良い水を持つポテンシャルのある町。街並を整備すれば素敵な歴史タウンに変身すると思う。
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