青森県弘前市 岩木山神社
Iwakiyamajinja,Hirosaki City,Aomori
Category |
Rating 凡例 |
Comment |
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |
|
![]() |
|
|
![]() |
弘前市百沢字寺沢27 岩木山神社 本殿 重文 近世以前/神社 江戸中期 元禄7(1694) 三間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、銅瓦葺 棟札3枚 19710622
弘前市百沢字寺沢27 岩木山神社 奥門 重文 近世以前/神社 江戸中期 元禄7(1694) 桁行一間、梁間一間、向唐門、とち葺形銅板葺 19710622
弘前市百沢字寺沢27 岩木山神社 瑞垣 重文 近世以前/神社 江戸中期 元禄7(1694) 一周延長四十間、とち葺、潜門一所を含む 棟札1枚 19710622
弘前市百沢字寺沢27 岩木山神社 中門 重文 近世以前/神社 江戸中期 元禄7(1694) 四脚門、切妻造、とち葺形銅板葺 19710622
弘前市百沢字寺沢27 岩木山神社拝殿 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長8(1603) 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、とち葺形銅板葺 棟札2枚 19080423
弘前市百沢字寺沢27 岩木山神社楼門 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 五間三戸楼門、入母屋造、とち葺形銅板葺 棟札4枚 19080423
Jun.10,2025 柚原君子
岩木山神社
所在地:青森県弘前市百沢字寺沢27
岩木山神社の歴史は古く、創建は諸説あるが、最も古い説では780(宝亀11)年、坂上田村麻呂が岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる、の記述。
その後、下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立されたので山頂の社は奥宮とされた経緯がある。
1091(寛治5)年、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ……阿弥陀・薬師・観音の3つの堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された)、と称したのが現在の岩木山神社となっている。
当初の百沢寺は1589(天正17)年の岩木山の噴火により全焼しているが、1603(慶長8)年、津軽為信により再建が始められた。
岩木山神社は、津軽富士とも呼ばれる美しい岩木山の南東麓にある神社で津軽国一宮。
「お岩木さま」「お山」という呼称で山岳信仰のパワースポットと言われている。
社殿は、神仏習合の時代の名残りをとどめ、鎌倉時代以後の密教寺院の構造がみられる中に、桃山時代の様式を思わせる色とりどりの絵様彫刻がみられ、そうした外観が日光の東照宮を思わせるとして、「奥の日光」と呼ばれることもある。(ウキペディキュア要約)御祭神は五柱の神(顕国魂神(うつしくにたまのかみ)大国主神・多都比姫神(たつびひめのかみ)・宇賀能売神(うかのめのかみ)・大山祇神(おおやまつみのかみ)・坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)。坂上刈田麿命は実在の人物なので「命」となっている。駐車場に車を止めると一の鳥居→二の鳥居→赤い三の鳥居→社務所→楼門(山門)→中門→拝殿(大堂)→奥門→瑞垣→本殿(下居宮)→登山道→頂上に奥宮。拝殿の横に白雲神社となっている。
1,参道
駐車場に車を置いてすぐに一の鳥居から一直線に伸びる参道。岩木山神社拝殿の上には津軽富士とも言われる優雅な岩木山がある。岩木山神社(いわきやまじんじゃ)と岩木山(いわきさん)。やま、と、さんと呼称が異なるが山頂を奥宮(おくみや)、麓の神社を下居宮(おりいのみや)と呼び、山頂の神社と麓の神社を合わせて岩木山神社となっている。
参道の一の鳥居と二の鳥居はコンクリートだが、三の鳥居は朱色。三の鳥居は1624〜44年の寛永年間に建てられたものなので朱色。麓の神社と山頂の神社が一直線になる境内の配置は非常に珍しく、参道はおおよそ300メートル続く緩やかな登りになっている。参道の中央は岩木山の石の石畳。中央は神様が歩くところなのでなるべく端の土の部分を歩く。朱色の三の鳥居の手前に五本杉のご神木。一つの幹から五本の杉が伸びている。岩木山神社は五柱なので、この杉は神木とされて注連縄が飾られている。おみくじの結びはハートの形になっていて、今流でかわいい。
2、楼門
楼門は1628(寛永5)年、弘前藩主2代津軽信枚により百沢寺の山門として建立されたもの。入母屋造、丹塗り、とち葺形銅板葺。構造は桁行16.6メートル、梁間7.98メートル、棟高17.85メートル、丹塗り一色の二層。柱は総円柱で階上まで通し柱、組物は両階とも三手先詰物、上層縁廻は高欄をまわす。内部は格子戸で内陣と外陣に仕切られ、外陣は板敷、内陣は段違床板張り。下居宮時代には上層に十一面観音、五百羅漢像を安置したが、神仏分離に際して取り除かれ、階下に随神像を祀り現在に至っている。(弘前市HPより)
朱塗りの色と壮大さがとてもいい。
神社には阿吽の様子で狛犬がいくつか並ぶが、岩木山神社には楼門への階段を登った左右に、玉垣にしがみつく形で、右側に上向きの立ち姿の狛犬(のぼりの玉垣狛犬)と、左側に逆立ち姿の下向く狛犬(くだりの玉垣狛犬)のユニークな姿があり有名となっている。上向きの狛犬は金運アップ、下向きの狛犬は恋愛運アップの御利益があるとされている。撫でてみたくなる笑顔の狛犬。取り付いて居る玉垣と一体になっていて石工が一日で彫ったと記録にある。
そして、神様から見ている形になるので、私達が見る左が「右大臣」。若い。力を司る。私達が見る右が「左大臣」。老年。知恵を司る。
3,中門・拝殿
中門……日光東照宮を彷彿とさせる彫刻が美しい。
中門は拝殿前に立つ切妻造の四脚門で、かつて別当寺百澤寺の大堂(現在の拝殿)の門として本殿、奥門などと同時に建てられたもの。柱などの軸部は黒漆塗りとし、木鼻きばなや袖切そできりなどの絵様部分には朱漆を用い、蟇かえる股またや欄間の彫刻には極彩色。門には「北門鎮護」の扁額が掲げられている。岩木山神社が本州最北に位置することから「北門鎮護」。書は東郷平八郎。日露戦争出陣前に必勝祈願として足を運んだといわれている。木鼻の彫刻が美しい。中門の木鼻は耳が小さくて火炎があるので漠。獅子と対になるというが獅子鼻は見うけられなかった。天井には龍がいっぱい描かれて、白龍、黒龍、青龍、緑龍の色に分かれている。宗教的に何か理由があるのかもしれない。
拝殿……百沢寺の本堂として1603(慶長8)年、津軽為信が再建を始め津軽信義の代で完成。朱色の建物。三の鳥居と同色。正面に大きな注連縄。神社にはよく見られる注連縄だが両サイドの結び方が井戸の「井」になっている。豊かな水を祈り、豊作を願っている事をあらわしている。建築構造は桁行5間、梁間5間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝1間、とち葺形銅板葺。内部は密教寺院本堂としての雰囲気を今に伝える。外部は全面丹塗り、内部は弁柄塗り。彫刻や蟇股は極彩色。慶長8年の棟札(長勝寺に保管)には大工職や鍛冶職に越前や丹波の工人が名前を連ねている。しかし、現状の拝殿は、内外陣境の結界、内陣の来迎壁、それに須弥壇や厨子が撤去されて開放的。これは、明治初期の神仏分離令によって百沢寺から岩木山神社へと移行し、密教寺院本堂から神社拝殿となった際に改造されたものであるからとのこと。
拝殿の外部正面には虎の彫刻が掘られている。これは津軽為信が弘前城築城を計画したとき、お城を「四神」と呼ばれる守護神の中心に配置したことに由来(岩木山神社は弘前城から見て西の方角になるので、西に配する「白虎」が掘られている)。
4,奥門・本殿・瑞垣
帰京して気がついたのだが、奥門、本殿、瑞垣に行っていないことに気がついた。行かれないところと思ってしまったのかとにかく写真が一枚しかない。残念無念。
5,奥宮への登山道
阿蘇山、八幡平、羅臼岳級の高さを誇る岩木山。近年の国土地理院衛星観測により1メートル低くなったものの標高は1624メートルある。200メートルの位置に本殿がありそこから登拝道が続いていく。山で霊魂が再生するという観念があり、中世以降修検道の峰入り修行の場となっていた。山頂の奥宮まで4時間の登拝道となる。順番に名称があるので頂上までを羅列する。
本堂→登拝道→桜林→箸立て→七曲がり→鼻コグリ(急坂)→姥石→大沢→焼止→坊主コロバシ→石穴(山の神)→アラレ坂→錫杖清水→種蒔苗代→大倉石→二神石→奥宮。
頂上附近に種蒔苗代という名称が不思議。種蒔苗代の無事を祈ったのか。
6、社務所
社務所として現在活用されているとの表示だが、人の気配はなし。下居宮の別当寺であった百沢寺の本坊あるいは客殿と考えられる建物。初めの建物は1839(天保10)年2月の火事で焼失した。1845(弘化2年から4年にかけて再建された。構造は桁行31.515メートル、梁間12.4メートル。木造平屋建て。入母屋造、茅葺。
上段に御座ノ間があり藩主の参詣を想定した造りで座敷のまわりに「土縁」、御座の間の下段に「御次」、「御膳立」などがある。茅葺の美しい建物である
7、白雲大龍神
白雲大龍神は岩木山神社拝殿の隣にある祠。岩木山神社における水神信仰の龍神様。岩木山大神の1柱である多都比姫神が祀られている。白い御旗が拝殿脇から白雲大龍神の祠まで導くように掲げられています。池は蛇池。
8,岩木山出雲神社
岩木山神社は百沢寺という寺院であったが、明治の神仏分離によって百沢寺は廃寺となり岩木山神社と名を変える。百沢寺の住職は寺の檀家の先祖の霊の祀るため別社「出雲大神」を参道脇に祀ったのが「奥富士出雲神社」の始まり。社務所本殿がある。御祭神は大国主神(顕国魂神
)。めずらしいのは狛犬の代わりに大黒様と恵比寿様が左右に。
『古事記』によれば、恵比須様は少彦名(スクナビコナとといい、大国主(大黒様)の国造りに際し、天乃羅摩船に乗り、鵝(ヒムシ=ガとされる)の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。『日本書紀』にもこれと同じ件があるそうなので、恵比寿様と大黒様は一対なのかもしれない。像は相当古い様子であちらこちら欠けている。恵比寿様は本物の竹が釣り竿のとして持たれている。本物の竹!神様なのに微笑ましく何故か身近に感じた。
とても暑い日で本殿の前の階段に坐って暫しボーとした。
Aug.2007 瀧山幸伸 source movie
楼門
中門、透塀、拝殿
奥門、本殿
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中