青森県黒石市 市街
Downtown,Kuroishi city,Aomori
Category
|
Rating
|
Comment
|
General
|
|
|
Nature
|
||
Water | ||
Flower | ||
Culture | 独特な「こみせ」の通り | |
Facility | ||
Food |
黒石市大字中町38 高橋家住宅(青森県黒石市中町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 "宝暦〜明和 (1751-1771)" 主屋:桁行21.8m、梁間12.7m、一部二階、切妻造、妻入、東面こみせ・北面及び南面庇付、亜鉛引鉄板葺 土場材木直段書(宝暦13癸未年)1冊、材木直附帳(宝暦13癸未年9月)1冊、材木直段覚1冊、材木直段附帳入(宝暦13年11月晦日)1袋、土蔵棟上諸入用控(甲申年10月23日)1冊、板塀2棟 19730223
黒石市大字中町38 高橋家住宅(青森県黒石市中町) 米蔵・味噌蔵 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 土蔵造、桁行17.1m、梁間7.5m、切妻造、東面庇付、鉄板葺 20041210
黒石市大字中町38 高橋家住宅(青森県黒石市中町) 文庫蔵 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 土蔵造、桁行5.7m、梁間7.5m、2階建、切妻造、東面庇付、鉄板葺 20041210
September 15, 2019 野崎順次 source movie
青森県黒石市元町
元町こみせ通り
(Motomachi Komise Street, Kuroishi City, Aomori Pref.)
短い区間だが、こみせがよく残る。
中町こみせが有名だが、小規模で道路片側だけのこみせが元町にある。東西の道路の北側に横山文具、青屋根白壁の建物、旧佐藤酒造と続く。
黒石市消防団第二分団第二消防部屯所 築 大正九年(1920)
September 15, 2019 野崎順次 source movie
青森県黒石市
中町こみせ通り
重要伝統的建造物群保存地区 黒石市中町伝統的建造物群保存地区
明暦2年(1656)、黒石初代領主・津軽信英(のぶふさ)は、弘前藩4代藩主・津軽信政の後見人に命じられた。この時、信英は弘前藩から5,000石の分知を受け、「黒石津軽家」を創立し、以前から存在していた町並みに基づいて町割り行った。黒石津軽家の創立以来、多くの旅人が上ノ坂、前町、中町、浜町を通って青森(外ヶ浜)へと向かっていた。そのため中町、前町の通りは「浜街道」と呼ばれ、商人町として栄え、特に中町には造酒屋、醤油屋、呉服屋などが立ち並び、黒石の中心商店街としての機能を果たしていた。
この中町、前町の通りには、「こみせ」と呼ばれる木製のアーケードが連なって設けてられており、明暦2年(1656)に町割りを行った際に整備されたと言われている。こみせとは、表通りの正面に設けられた深い庇のことで、歩行者が雨や雪などを受けることなく快適に買い物を行うことが可能となっている。こみせの前面(道路側)は基本的には柱のみで、積雪期になると「蔀」や障子戸などを落とし込んで風雪を防いでいる。
このようなこみせが連続する町並みは、最盛期には山形町、前町、浜町、横町、上町、元町にかけて総延長約4,800mもの長さに及んでいた。しかし元治元年(1864)、明治2年(1869)に発生した火災や、国鉄黒石駅の開通、高度成長期による車社会の到来などによって人と物の流れが変容してしまい、こみせの大部分が消滅してしまった。しかし中町の通りは、こみせが伝統的形態を保ったまま存在し続けており、全国的に見ても極めて貴重である。
(黒石市ウェブサイトより)
パンフレットと現地説明板
市文 鳴海家住宅
鳴海家は、文化3年(1806)の創業以来約200年の伝統を誇る酒造店である。屋号は『稲村屋』を名乗る。
主屋の建築年代は不明であるが、1700年代後半の築造と思われ、中町に面した側には「こみせ」が設けられている。主屋は敷地の南西の角に置かれている。その南側は三間幅の通り土間で、中町への出入り口には吊り上げ式の大戸が現存している。また、主屋からは登録記念物に登録された大石武学流庭園を望むことが出来る。
嘉永5年(1852)の『屋敷間数歩割下帳』の記録によると、中町の稲村屋文四郎宅について「間口十一間五尺、奥行四十三間三尺五寸、末幅三十一間」という記録があることから、藩政時代から大規模な屋敷を構えていたことがわかる。
鳴海家住宅は、200年以上経過する建築物でありながらあまり改築、改修をされずに今日に至っており、伝統的な店構えを守っている。また、「こみせ」を完備し、町並みの景観にも非常に重要な役割を果たしている。
(黒石市ウェブサイトより)
鳴海家室内および店舗
国登録記念物 鳴海家庭園
鳴海氏庭園は黒石市中町伝統的建造物群保存地区の中に位置する、大石武学流の様式を持つ庭園で、明治20年(1887)に鳴海家3代目文四郎の求めに応じて、武学流4代目小幡亭樹(ていじゅ)とその弟子5代目池田亭月(ていげつ)らによって作庭されたとされる。
庭園はT字型を成しており、庭園の南西側は17世紀頃に建てられたとされる母屋が、東側には大正2年(1913)に建てられた文庫蔵がある。座敷縁側前に設置された沓脱石からはV字状に飛石が配置されており、一方は礼拝石(らいはいせき)、もう1筋は蹲踞(つくばい)へと延びている。南北に伸びる不整形の池の北端には大小3石から成る枯滝石組があり、その周辺には深山石(しんざんせき)や野夜燈(やどう)が据えられている。その他にクロマツやサツキ、カエデ、カシワなどが植えられており、庭園の主景観を成している。また、クロマツの東側には、守護石と呼ばれる大きな石が配置され、池の北西側には明治43年(1910)11月に建立された3代目文四郎の銅像が設置されている。
鳴海氏庭園は大石武学流の特徴を良く残しており、当時の流派を理解するうえで重要である。
(黒石市ウェブサイトより)
盛家住宅
盛住宅側から見た鳴海家住宅
国重文 高橋家住宅
高橋家は、代々理右衛門を名乗る黒石藩御用達の商家である。主に米穀を扱ったことから、屋号を「米屋」という。味噌、?油、塩等の商いも行ったという。高橋理右衛門が中町に住みついたのは享保2年(1717)で、敷地を購入したのが宝暦5年(1755)である。高橋家住宅は、同13年(1763)に建築された。さらに明和7年(1770)と寛政12年(1800)の二度にわたって敷地を拡大している。
(中略)
東側、通りには、「みせ」と呼ばれる部屋が二部屋あり、藩政時代には広い一部屋として利用されたこともあった。「みせ」と「こみせ」を仕切る柱間には摺り上げ戸を完備している。「みせ」の上には、奥行2間の2階が設けられ、8畳の座敷と4畳ほどの板間が中央の棟をはさんで左右対称に配されている。2階は側桁が低いため、梁を「与次郎組」という技法を用いており、これによって室内の高さを確保している。このほか、細部においても藩政時代の面影が残っており、非常に貴重な建造物である。
(黒石市ウェブサイトより)
玉垂 中村亀吉酒造
それから
松の湯交流館
武学流庭園
県重宝 黒石市消防団第三分団第三消防部屯所
第三消防部屯所は、大正13年(1924)に建築された木造の2階建て建物である。建築当時は、1階に蒸気ポンプを格納し、2階前方にバルコニーを設けていた。しかし、昭和3年(1928)にノーザン式消防自動車の配備に伴い、1階部分を増築したためバルコニーは取り外され、現在は廊下になっている。また、2階部分前方に火の見やぐらとして設計された望楼を3段載せており、全体として5階建ての建物になっている。
1階は消防車を入れておく空間を大きく取り、2階は、18畳間と12畳間の部屋が縦列に並んでいる。当時は結婚式や会合などが行われ、集会所として利用されていた。
黒石市には望楼を載せた消防屯所が6箇所あり、一番古いのは元町の第二部屯所であるが、本件は造形的にも優れ、保存状態も良好である。
(黒石市ウェブサイトより)
Aug.2, 2014 瀧山幸伸
こみせの通り
高橋家
Takahashike
鳴海家と庭園
金平成園(澤成園)
有志のまちおこし活動
酒屋
まちおこし建築に「こみせ」をフィーチャリング
*取材メモ
2005年4月
弘前でかなり時間を費やし、夕方の訪問。こみせを通り抜ける子供達の自転車がほのぼのとした風景を作っている。郊外の大型店に買い物客をとられ、通りの賑わいはない。かといって、観光で町おこしするほどの地の利でもない。一生に一度は訪れたいと言えるほどの画期的な魅力を作り出さなければ、このまま衰退するだろう。ヒントは体験滞在型マイブランドプログラムにありそうだ。
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中