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千葉県鋸南町 鋸山
Nokogiriyama,Kyonan town,Chiba

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May.2005 撮影:中山辰夫

鋸山日本寺(のこぎりやま にほんてら)と石切り場跡

千葉県安房郡鋸南町元名

石段数が2639段、3333段の熊本釈迦院御坂参道に次ぐ二番目に石段の多い日本寺参道を訪れたのは5年前である。
その時は、丁寧に加工された御影石の石段よりも、鋸山の石切り場跡に大いに魅了された。

  

保田駅からみる鋸山
鋸山は標高330m、JRのホームからは穏やかな稜線を描いて見える。

  

が、浜金谷の海岸からは屹立するように聳えており、見るところからは岩壁のつながりがみえるとのこと。
300年ほど隔たるが、谷文晁の「日本名山図絵−鋸山」には南側が鋸の歯のようにギザギザになって描かれている。
山頂からは、富士山や伊豆天城山、三浦半島などが一望できる。
山頂へはロープウエーを利用すれば駅から3分で登れる。
そこからは富士山や伊豆天城山、三浦半島などが一望できるパノラマが広がっている。

         

日本寺

曹洞宗

日本寺は今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と光明皇后のおことばを受けて、神亀2年(725)、僧行基によって開かれた関東最古の勅願所である。
正しくは乾坤山日本寺と称し、帝より国号を冠する「日本寺」の勅額、他を賜る。
初めは法相宗に属し、天台、真宗を経て徳川家光政の時、曹洞宗になって今日に至る。
かつては七堂、十二院、百坊を完備して、良弁僧正や弘法大師なども訪れ修行した古道場であった。

昭和14年、不幸にも火災に遭遇し、堂宇・仏像・その他がすべて灰燼に帰した。寺院は目下復興を期している。
ここにある梵鐘は国の重要文化財である。
鋸山南側斜面を境内として、全域に御影石で造られた2639段の参道が張り巡らされている。

    

仁王門・仮本堂
      

参道風景
2639段の御影石よりなる石段と敷石の参道が続く。
近代的な造りである。蹴り上げも適当で、随所に敷石もあって歩きよい。
石段は世界救世教の寄贈による。
参道の両側は樹木が茂りひたすら歩くのみのケ所が多かった。アップダウンも気にならなかった。

               

大仏広場
昭和44年(1969)、4ケ年にわたる復元工事で再現なった総高31.05m、丈21.3m 日本最大の大仏である。
原型は天明2年(1783)に、大野甚五郎英令が門弟27名と共に3年がかりで完成したものである。
当時は御丈八丈、台座とも九丈二尺あった。

   

千五百羅漢道
県指定名勝
この近辺は護摩屈、維摩屈と石仏が多く居並ぶ。
曹洞代九世、高雅愚禅師の発願で、上総桜井(現木更津市)の名工、大野甚五郎英令が1779年から1798年に至る21年間 門弟27名と共に生涯をかけて1553体の石仏を刻み、太古よりの風蝕でできた奇岩霊洞に安置奉ったものである。

       

百尺観音
昭和41年(1966)、6年をかけて鋸山の岩肌に彫られた高さ百尺(30.3m)の大観音石像である。
交通安全の守り本尊として発願の趣旨は、一つには戦没者供養のため、また一つには交通犠牲者の供養のためとのこと。多くの崇拝を集めている。
交通安全の守り本尊として多くの崇拝を集めている。

      

地獄のぞき
頂上付近にある「地獄のぞき」は切り立った岩盤の上から下をのぞき見るスリリングな名所になっている。

        

日本寺の鐘
国指定重要文化財
元享元年(1321)製作 口径61.6cm
はじめ下野国佐野庄堀籠郷(栃木県佐野市掘米町)の天宝寺(現称天応寺)鐘として寄進され、60年を経て、鎌倉五山の一つである浄妙寺鐘となり、のち江戸湾を渡って日本寺鐘となった。
鋳工は、幾多の国宝や重文の茶の湯釜を残した佐野天命(佐野市天明町)の助光である。

鋸山は房洲石の産地、その露天掘り石切り場跡
江戸・東京は勿論、横浜は伊豆石から始まって房洲石・大谷石の存在で今日があるといえなくもない。
鋸山麓の北側にかつて房洲石(ぼうしゅういし)を切り出した石切り場跡が残っている。
それは、垂直に切り立った断崖となって残っている。その姿に驚かされる。
200年ほど前の石切り場がそのままの状態で残されているとして最近着目されている。

      

鋸山の石切り場は、江戸時代後期から採石業が起こり、平成の直前まで200年余の歴史があった。
金谷港から久里浜港までは約12km、船舶でドンドン運搬された。
その用途は江戸城下の街づくりから横浜港の建設、さらに七輪などの生活具の材料として、幅広く使用され貢献してきた。
晴れた日に見える対岸の建設・建築物をながめて、作業者は全部我われの切り出した石だと自慢し、苦しい労働に耐えたのであろう。
ロープウエイ駅の展示が歴史を物語る。

        

発展から衰微の経過は以下の通り。
延享 3年(1746)の金谷の古文書に石の輸送に使用した船の存在が書かれてある。
天保 9年(1838)には石取引や石工の記録が残る。
安政 6年(1863)横浜開港、築港用、外人居住地用石材として多用された。
明治 17年(1884)皇居造営に使用された。
明治22年(1895)富津沖に第二・第三海堡が始まり生産量が天文学的数字になった。
明治28年(1895)日清戦争や明治38年(1905)の日露戦争の終戦後各地の港湾・土木事業に使われ、金谷随一の産業となった。
大正初期、金谷住民の80%ほどが石関連の仕事についていた。
大正12年(1923)関東大地震 震災の復興はセメントが急増 房総石は急激な減産となっていった。
大正8年(1919)頃、石材の搬出は婦人の仕事で、一回につき、一個80kgの石のかたまり3個約240kgを(ねこ車)で運んでいた。
石の仕事は想像に絶するほどの過酷な労役であった。

 

房洲石の使用現場例
横須賀市汐入小学校・追浜天神橋の護岸工事・横浜港高島桟橋・同市港が見える丘公園・同久保山地区宅造・早稲田大学大隈会館石塀
靖国神社石塀・富津沖第二海堡・第三海堡・木更津航空隊護岸・横浜港護岸・横須賀港護岸

「横浜の近代建築追い詰め」なる記事が日本経済新聞(4月9日)掲載された。
鋸山から切り出された房洲石で構築された建造物は姿を消してゆく一途と思われる。
もう既に置き換わっているかも知れない。

 

港・横浜の近代化に貢献した房洲石の歴史を留めるためにも、石切り場だけでも遺跡として保存されるよう望みたい。

鋸山の石切り場跡では毎年、鋸山コンサートが開催されている。関心が高まることを願っている。



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