JAPAN GEOGRAPHIC

愛媛県内子町 内子

Uchiko ,Uchiko town,Ehime


May 2012 中山辰夫

町並散策

内子が木蝋生産地として栄えた出発点は、芳我弥三右衛門が新しい晒法(伊予式箱晒法)を発明した

19世紀中頃であった。

明治時代に入って内子の晒蝋は海外に輸出され、生産がさらに盛んとなった。

その後、西洋蝋が発明されて大正期に入ると内子の木蝋は衰退していった。

今の内子には、町が全盛期であった頃の姿が歴然と残っている。

  

内子では、歴史的遺産である民家や町並みを保存し、活用する町づくりを進めている。

内子の市街地の中心である本町通りから北に向かう八日市と、その北に位置する護国の約3.5haが

「重要伝統的建造物群保存地区」として町作りの核で、表通りの電柱を移設し、家々は伝統的な形式

に戻す修理や修景事業を進めている。

町の散策は、少し高台にある高昌寺から始めた。

    

朝の7時過ぎ、人影も少ない。内子中学校の高塀、向いは上芳我邸(重要文化財)

上芳我邸は豪商の構えと、その暮らし、木蝋文化を伝える基地となっている。

    

小学生の姿がちらほら見え始めた。旅館月乃屋やそうげん水車苑など覗いてみたくなる。

    

ひときわ高く建ち、意匠華麗な本芳我邸(国重要文化財)が登場する。

集団登校の集合場所となっている。子供たちの挨拶がよかった。隣の大村家(国重要文化財)は修理工事中。

    

さろんど八日市やあたらし屋など惹き付ける民家が並ぶ。あたらし家は江戸末期に紋の染物屋を営む商家だった。

    

あたらし屋の前が枡形と称される通り。藩政時代の大通りで、道を鉤形にして敵の侵攻を妨げたとされる。

    

天神社

通りを少し横丁に入ると天神社に登る約190段の石段道となる。息切れが始まる頃に見る町並と社。

        

境内の清掃をしていた男性は福島の被災者。阪神淡路でも被災に遭われたとのこと。

震災で、奥さん・店を亡くし内子へ。内子で仮住。ここの人々の優しさに感謝されていた。

某宗教の内子教会

大正年間に建立された教会。意匠も手が込んでいる。内子の町と同化している。

    

八幡神社

天文11年(1542)宇佐八幡宮より祭神を勧請し、森八幡宮と称し、天文19年(1550)に社殿が造営され

産土神として祀られた。

    

現在の本殿は享和3年(1803)、中殿、拝殿は文化5年(1808)年に建造されたものである。

    

町家資料館、大森和ろうそく屋と続く

    

酒六酒造の大きなお店や蔵が続く。森文太郎氏が明治26年(1893)創業。

米酢づくりから伝統醸造にこだわり醸し続けて118年。大型店で数ケ所に分かれる。資料室公開中。

    

少し外れるが、伊予銀行内子支店や「高橋邸」

銀行の頭部を鏝絵(こてえ)のデザインが飾る。ギリシャ建築のアカンサスの植物の模様である。

「日本のビール王」高橋龍太郎氏の生家はゲストハウス・高橋邸として宿泊ができる。

    

「下芳我邸」と「商いと暮らしの博物館」

下芳我邸は築後130年の旧家で石臼挽きの蕎麦と摘み草御膳を用意。ギャラリー併設。蕎麦は11時以降。

  

大正10年頃の薬屋の日常生活を再現した資料館。

  

内子座

大正5年(1916)、大正天皇の即位の儀式を記念し、町内の有志が株式会社をつくって創建した

本格的な歌舞伎劇場である。

妻側が正面になっている二階建てで、主屋の両袖の一階部分には下足預かり場となる櫓がある。

        

桝席があり、桟敷席が三方を取囲んでいる。

格天井にはクラッシクなシャンデリアも下がり、当時の西洋志向が垣間見える。

その他、路上からのアプローチ

各家で見かける「木」配りの郵便箱と「扇面にお亀」〜観光客へほほえみを!

  

大正14年に建った常設活動写真館「旭館」 一見、擬洋風木造建築だが、正面のみ飾った完璧な看板建築

  

鏝絵屋さん・・・修行中?

    

気になった建屋

         

主な建築物の細部

上芳我邸(木蝋資料館)

愛媛県喜多郡内子町2696

国重要文化財指

本芳我家から江戸時代末期に分家した。

上芳我二代目の孝治(弥衛美)が明治27年(1894)に建設したもので、居住部分と木蝋生産施設とが

同じ敷地内にあり、広い面積を占めている。全体が木蝋資料館として公開されている。

    

主屋は桁裄八間(15.9m)、梁間六間(12m)二階建ての大壁造りで、屋根は切妻造り桟瓦葺である。

主屋一階居室部

     

主屋二階展示室

   

主屋三階部の木組構造と大壁

     

目に入った居室の意匠

        

屋敷の庭園周り

            

派手な外観の意匠

    

炊事場まわり

    

本芳我家

愛媛県喜多郡内子町2888

国指定重要文化財

蝋花箱晒法を発明し、木蝋の品質を高め、内子における蝋生産の基礎を築いた芳我一族の本家筋で

本芳我は通称。

この建物は内子が国内有数の木蝋生産地として繁栄を極めていた頃のもので、質もよく、漆喰彫刻

亀甲つなぎの海鼠壁など、意匠も豪華で華麗である。

    

本芳我家は大村家の北隣で、表通りに面して規模の大きな二階建ての主屋が建ち、その南側に妻を

表通りに向けた土蔵が建ち、北側に土塀を廻らせている。

    

主屋は明治17年(1884)の建築で、規模・外観は勿論、内部の造りも、ひときわ格式が高く、共に

十畳の広さがある主屋二階の(鶴の間)(亀の間)には、一間半の床の間や違い棚、出書院が設けてある。

この二つの部屋は、かつては正座敷、副座敷として、遠来の客のもてなしに使用された。

亀の浮彫。土蔵や大壁造りの装飾として漆喰で造られるが、特に本芳我邸のものは華美である。

     

懸魚は漆喰を使った鏝絵で、細部にも手が入っている。

     

他の産地の製品と混ぜられないよう「旭鶴」のマークをつくり、製品に自信を持って海外に進出。

本芳我家だけはカタバミの家紋を使わず、このマークに徹した。

 

YAZAYE HAGAの文字が見える蝋のラベル。海外に輸出された内子の芳我製の本物。偽装品が多く出ていた。

 

本芳我邸の外観と庭園は公開される。中央の大木は、この家が建てられた明治期に植樹されたクスノキ

  

大村家住宅

愛媛県喜多郡内子町2892

国重要文化財

18世紀末の寛政年間(1789〜1801)に建築された民家で、内子の木蝋生産が盛んになる前の建物である。

内子では最古の建物。江戸末期の町家である。

 

大村家は商家で、最初は雑貨屋であったが、明治中期からは「大和屋」という屋号で、藍づくりや染物商

をしていた。大村家の屋号

  

屋根は切妻造りの桟瓦葺。三ケ所あるむしこ窓は額縁付きで、黒漆喰なども使い意匠的にはやや派手である。

 

主屋の他、裏屋敷、釜場、藍蔵なども残り、内子の古い商家構造のすべてを見ることが出来るとされる。

下芳我家

愛媛県喜多郡内子町1946

国登録文化財「主屋・隠居屋」

主屋は商店街通りに北面して建つ。

間口は約19mの規模で木造2階建,入母屋造。南側に木造平屋建の離れが付く。

  

正面は白漆喰と鼠漆喰を塗り分けて意匠を凝らし,屋根は千鳥破風に鶴の懸魚を付ける。

        

重厚な町並み景観を構成している。

隠居屋は主屋に東隣して建つ。木造2階建。

床柱や棚板に銘木を用いるなど,部屋ごとに吟味した材料を使い,遊び心を感じる意匠が凝らされている。

通りに面して入母屋破風を見せ,両脇には袖壁を出す。主屋と連担して町並み景観を構成している。

   

この店の「石挽きそば」は美味いと聞く。が9時オープンで、蕎麦の準備に11時過ぎまで掛かるようで諦める。

邸宅内を拝見し、気に入った箇所をランダムに羅列する。

           

高昌寺

七堂伽藍を整備した曹洞宗の寺。約570年の歴史を刻む名刹。石仏「涅槃像」を安置している。

 

山門

文化4年(1808)の火災に難を免れたこの山門は、第16世真猊香達和尚(1745〜52)の代に現在地に

移築されたとされる。

均衡のとれた美しい形と重量感のあるこの山門は、近郷には珍しい建築物である。

    

中雀門

名のある武家屋敷の門を移築したものとも伝えられる。

清楚な構成の中に落ち着きと気品が漂い、天井には6枚の絵が組み込まれている。

山門と仏殿の中間に一誌、庫裏と僧堂を結ぶ廊下の中央に設けられる門といわれる。

    

内子中学校

中学校の学舎も街並に似せた設計となっている。塀笠の前は明治27年(1894)築の上芳我邸である。

    

町家資料館(旧米岡家)

寛政5年(1793)の建築で、大村家と同様に古い。昭和60年に根本的な修理が施され当時の姿に復旧された。

 

五間あまりの間口は表の通りに面している。通り庭の正面には潜り戸付きの跳ね揚げ式の大戸を吊り、もう一間

  

店の部分は土間で、二階へは箱階段。各部屋には家具や調度品が置かれ、当時の暮らしを再現している。

     

大森和ろうそく屋

創業200年以上を誇る老舗。現当主の大森太郎さんはこの店の六代目。

木蝋でつくる和ろうそくは大森家で代々受け継がれている。

   

すべての作業は手で覚えた加減と技術 代々受け継がれてきた和ろうそくを守るのは、太郎さんの手にかかる。

    

文化交流ヴィラ「高橋邸」

高橋家は戦国時代、近江国神崎郡の城主だった高橋津島守秀久が信長に滅ぼされ、その二男・助右衛門尉重久が

五百木村(いよきむら 内子町長田)に移住して、この地の豪族になった。文禄4年(1595)には大洲藩主から

五百木村の庄屋を命じられ、以来、明治維新まで庄屋を務めた。

内子の高橋家は庄屋の分家で、広大な田畑を所有する一方、「五百木屋」の屋号で大規模な酒造業を営み、藩政

時代は大洲藩の財政の一翼を担うほどの豊かな旧家であった。だが、明治維新で事情は一転し、豪家も縮んだ。

   

明治の当主・高橋吉衡(よしひら)は地域教育に尽力し、後に“内子聖人”と呼ばれるほどの人格者であった。

その次男が高橋龍太郎である。龍太郎は大学卒業後、ビール業界に入り、6年間ドイツで醸造技術を学び帰国。

明治39年設立の大日本麦酒株式会社を育成。樽材の国内調達や、原料のホップの国内生産で、念願の完全国産

化に成功した。生涯をビール醸造に捧げた龍太郎は、通産大臣を務め経済復興に尽力し、私財でプロ野球高橋

ユニオンズの設立もした。

  

龍太郎の生家は、長男高橋吉隆氏が相続したが長年住む人も居ないままとなっていた。

平成9年(1997)に町へ寄贈され、町は長い歴史を有する高橋家の建物を保全するとともに、一般公開した。

  

「商いと暮らし博物館」

明治からの薬商「佐野薬局」の敷地及び建物を内子町が購入し、博物館として公開している。

主屋は、江戸末期に建てられたもので、明治43年の増設されている。新旧二つの建物の庇の

高さを併せている。

   

母屋では、大正10年(1921)頃の薬局の暮らしを、当時の道具類や人形を使って再現している。

    

この建物は栂(つが)普請といわれ、長押に栂が使われ、床柱や床框(かまち)、天井板にも銘木が使われ

手の込んだ贅沢なつくりとなっている。

   

主屋二階の三室続きの書院座敷は、裕福な商家ならではの質の良い造りで、壮観である。

    

その他の意匠

            

薬の看板

   




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