愛媛県宇和島市 大隆寺
Dairyuji,Uwajima city,Ehime
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January 9, 2021 野崎順次 source movie
愛媛県宇和島市宇和津町1-3-1
臨済宗妙心寺派
金剛山 大隆寺
宇和島市街地の南東部に位置する。慶長13年(1608年)頃、伊達家以前の宇和島藩主富田信高が亡父知信の菩提を弔うために建立した。建立当寺は金剛山正眼院(しょうげんいん)と呼ばれていた。
伊達氏入府後は等覚寺と並び伊達家の菩提寺となった。5代藩主伊達村候が自らの墓所と定めた。寺院名も村候の法号から大隆寺と改められた。宇和島藩主の菩提寺は母親や藩主の法号からその名がついているため、領民には寺院を山号で呼ばせた。
2013年3月18日に同市教育委員会が明治時代に当時の様子を俯瞰した銅版画の原画を発見、タイトルは「金剛山大隆寺之景」で戦災で消失した霊殿の山門や祈願などで行う参籠堂のほか本堂と御霊屋をつなぐ渡り廊下が「設計中」として刻んで残っている。
『ウィキペディア「大隆寺(宇和島市)より』
一昨日夕方からの大寒波の大雪に覆われた境内
市名勝 金剛山庭園 江戸時代末期 池泉観賞式
今本庭を一覧すると、本庭は本寺隠寮、庫裡、書院等の後庭(東庭)として築造されていて、面積は約二百坪ほどあって、山畔を利用した池泉回遊式と材料が優秀であり、石組手法も寛政十年以後の江戸末期作庭とは考え難いほど傑出していて、一見桃山末期または寛永期の作庭といった感じを受けるほどである。しかしこれはおそらく本寺が早く上部に開創された富田氏時代に、正眼院の庭として作庭されていたものを、本寺の移建と共に移築したものとえることができるし、それならばこそ、これほど立派な庭として出現したのであろう。これは石組の上では、とても江戸末期の庭とは何人も思われぬほどの作品として驚目するものがあるからである。
ただしかし、本庭の池庭部地割を一覧すると、さすがに江戸末期としての作庭であることが首肯される。池庭は南北に細長くつくられていて、しかも中央部対岸が大きく出島的となり、さらにまた、手前も北部に栗石敷の出島を大きく作り、全体的にはよく末期の地割を示している。北部には大きな土橋を架け、中央と南部のニケ所にも自然石の巨石の石橋を架け、南部の石橋のところも栗石の出島となっている。
本庭では、山畔のずっと上部に滝を組み、水を落として、漢流として長く水を流して本庭中央の滝として落としてある。上部の滝の石組は豪健な滝添石 (三尺七寸と三尺三寸)
を用いたもので、その滝の上部には板橋が架けられている。これはいうまでもなく、玉燗流作庭の伝統をもつものであるから、正眼院時代に玉礪流の庭があったのかもしれない。しも玉醐流の庭は慶長期に多かったことからも考えられる。
この流れは長く漢流として下方に流れ、途中に切石橋大小二枚があり、ずっと下って池庭の中央部に豪華な滝として落とされている。この下部の滝石組はやはり末期的な自然式の石組となっているが、滝の上部に豪華な切石橋がここでも用いられていて、その両端奥部の橋添石が巨石を立てて用いられているから、滝の奥行と豪華さを誇っている。
本庭には橋が多く、いずれも橋添石が必らず一石立石として用いられ、他は臥石となっているし、多くの護岸石組と共に美しい。さらにまた書院縁先の鉢前が、手水鉢を横に用いることは、この地方の特色であり、合理的な扱いとして注意を要する。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」より)
積雪のため、石組の細部が全く分からないが、いい庭らしい雰囲気である。
伊達家墓所へ向かう。
県・市史跡 伊達家墓所
県史跡 伊達秀宗正室の亀姫の墓
さらに奥へ
市史跡 伊達家墓所
墓所に葬られている藩主および主な一族、家臣は以下の通り。
伊達宗時(秀宗二男)、伊達宗職(秀宗七男)、稲姫(二代伊達宗利正室)、伊達村候(五代)、護姫(村候正室)、伊達宗紀(七代)、観姫(宗紀正室)、伊達宗徳(九代)、宗徳生母、伊達康虎(宗徳二男)、十代伊達宗陳生母、山家公頼(藩惣奉行)廟、桜田玄蕃(家老)ほか
『ウィキペディア「大隆寺(宇和島市)より』
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Jan.21,2020 瀧山幸伸 source movie
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