フランス、ピカルディ、オワーズ ピエールフォン城
(Chateau de Pierrefonds ,Picardie, Oise, France)
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Oct.2010 撮影:野崎順次
撮影日: 2010年10月3日
1393年 コンピエーニュ近郊に、シャルル五世の第二子ルイ・ドルレアンによって、要塞屋敷ピエールフォン城がつくられた。この城は、オルレアン家のライバルであったブルゴーニュ公領の、フランドル地方とブルゴーニュ地方間の交易を監視していた。
1616年のルイ13世による攻囲戦は、城にとって致命的だった。城は陥落し破壊され、1810年にナボレオン一世に買いとられるまで、巨大な廃墟と化した。
19世紀になるとロマン主義的な廃墟への興味が次第に高まり、ナポレオン三世がピエールフォン城を仮住まいに改造します。その後、美術館として一般公開された。
1857年、ナポレオン三世は、建築家ヴィオレ・ル・デュクに修復を依頼した。ヴィオレ・ル・デュクは、この工事で中世に関する独自の建築解釈を適用し、ピエールフォン城を真の芸術作品に変身させた。1879年にヴィオレ・ル・デュクが死去すると、娘婿のウラドウが修復作業を引きつき、1884年にウラドウが死去するまで続けられた。
ヴィオレ・ル・デュクは、中世建築の素晴らしさを学んだ後に、フランスにおいて、ゴシック・リバイバルを最も精力的に推進した。ラ・マドレーヌ寺院の修復を手始めに、パリのサント・シャペル、ノートルダム、アミアン、ルーアンの大聖堂など多くのロマネスクやゴシックの教会堂、城館の修復、復興に携わった。1863年からボザールの教授になり、修復の経験を元に『中世建築辞典』(1854-1868年)を著した。
ヴィオレ・ル・デュクの修復手法には色々と問題も多く、彼が批判されるのは、その「創造的復元」であった。
「ピエールフォン城の修復は歴史的価値だけを重視する人々にとっては実に忌まわしい例であった。完全な形で残っている中世城塞建築がもはや存在しないフランスにおいて、もしピエールフォン城の修復が慎重に行われたならば、きっと貴重な資料になったに違いないからである。しかし現実には、皇帝夫妻の離宮として供されるのが目的で再建されたのである。そのためにヴィオレ・ル・デュクは後世の人々の最大の非難を浴びることとなるのである。」(羽生修二『ヴィオレ・ル・デュク[歴史再生のラショナリスト]』鹿島出版会、SD選書、1992年)
例えば、ここの礼拝堂の入口の真ん中に、自分自身の彫像を配置し、足下に自らの名前と職業を明示している。本来ならば、キリストや聖人の像が来るべき個所である。
パンフレットなど
城の外観。西から見る。実に楽しい。
町から城への入り方は坂を登り西側から時計方向に回っていく。ドキドキする。
城の南西側が入口である。
ゲートを二つ通って入ると、前庭である。柱廊がある。屋根などの装飾はモンデュイ工房による鉛工芸である。見れば見るほど、至る所にヴィオレ・ル・デュクの設計した彫刻や装飾がある。
前庭の東側に礼拝堂がある。入口にはヴィオレ・ル・デュクの像。
城の内部をめぐっていく。
応接間。豊かな装飾が施されている。天井にある植物モチーフの木工彫刻は、アールヌーヴォを約50年先取りしたものといわれる。
それから、
騎士の間(Salle du Roi Arthur)。豪華絢爛である。
それから、
傭兵の間。石造りで比較的質素である。
城の模型は、1878年の万国博覧会のために修復工事の調査官でもあったウィガノウスキーによって製作されたもの。
城の西側に町への降り口がある。
ピエールフォンの町はなかなかの風情
参考資料
ピエールフォン城日本語パンフ
The Chateau de Pierrefonds, English edition, by Gerard Dalmaz, Centre des Monuments Nationaux
加藤耕一のホームページ
Wikipedia “Eugene Viollet-le-Duc
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