福井県福井市 養浩館
Youkokan,Fukui city,Fukui
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Jun 8,2022 瀧山幸伸 source movie
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May 2012 野崎順次 source movie
福井市宝永3丁目
名勝 養浩館庭園
撮影日: 2012年5月16日
名勝養浩館庭園は、江戸時代には「御泉水屋敷」と呼ばれ、福井藩主松平家の別邸であった。御泉水屋敷の成立時期については明らかでない点が多いが、元々この場所は、藩の重臣永見右衛門の屋敷地で永見氏が二代藩主忠直に成敗されてより藩主の別邸になったと伝えられる。この御泉水屋敷が今見るような姿に整備されたのは7代藩主昌明(のちに吉品と改名、元5代藩主昌親)の頃とされる。吉品は従来の御泉水屋敷である「本御泉水」の改造・整備に加え、西隣に「新御泉水屋敷」を建て自らの隠居所とした。吉品没後の御泉水屋敷は、茶会・饗応の席や藩主一族の休養の場、住居などとして使われたようだ。また幕末頃には洋式銃の製造所が設けられるなど時勢を反映した使われ方もされた。
明治時代、廃藩置県によって福井城は政府所有となるが、御泉水屋敷の敷地は引き続き松平家の所有地として、その福井事務所や迎賓館としての機能を果たした。明治17年には松平春嶽によって「養浩館」と名づけられ、その由緒については由利公正が明治24年に「養浩館記」を記している。また養浩館は、その数寄屋造邸宅や回遊式林泉庭園が早くから学会で注目され、すでに戦前に建築史・庭園史の専門家による調査がなされていた。
昭和20年の福井空襲により惜しくも養浩館は焼失し、その後は長く本格的な修復は行われなかったが、昭和57年、国の名勝に指定されたのを機に、福井市によって復原整備が計画された。江戸時代の文政6年(1823)に作られた「御泉水指図」を基本に、学術的な調査と復原工事が進められ、平成5年に完成、一般に公開された。
アメリカの日本庭園専門雑誌「Sukiya Living Magazine(The Journal of Japanese Gardening)」は、当庭園に高い評価を与えており、2008年以降、日本国内日本庭園ランキング第3位である。ちなみに2010年の1位は足立美術館、2位桂離宮である。
建物と庭園
庭園は、大きな池を中心とした回遊式林泉庭園で、広い水面に対して立体的な変化をもたせるさまざまな工夫がなされている。岸辺の周遊や舟による鑑賞、また屋敷内からの眺望も考慮していると思われる。
建物に入る。御座の間の背面に位置する東側。
「鎖ノ間」と「鶏鳴ノ板戸」
西北面に折りまわす浅い床・棚を配し、また、廊下境の間仕切りに入れた透彫欄間付杉戸には鶏が描かれている。
北端の御湯殿とそれに続く廊下。
建物の中心となるのは池の東岸に配された「御茶屋」と呼ばれた屋敷で、主座敷となる「御座ノ間」とその南東に設けられた「御月見ノ間」などから構成される。「御茶屋」は数奇屋造建築で、柿葺寄棟のむくり屋根で覆われている。
「櫛形ノ間」「御次ノ間」「御座ノ間」
「御座ノ間」はこの屋敷の中心となる座敷。池と向かい合うように西向きの構成をとっている。柱は杉丸太、天井は棹縁椹<さわら>板張りで、典型的な数寄屋造構造の座敷である。出書院の麻の葉模様の欄間<らんま>は桑材の一枚板で、精巧緻密な透彫になっている。
「御次ノ間」の縁
池に面した土縁には那智黒の小石を敷き、白大理石の手水鉢が据えられている。
御月見ノ間。脇棚は螺鈿造り。
庭園を東から時計と逆回りに歩く。
戻って西門から出る。
参考資料
福井市立郷土歴史博物館HP
ウィキペディア「養浩館庭園」
July 2011 瀧山幸伸 source movie
A camera
B camera
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