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福井県若狭町 天徳寺

Tentokuji,Wakasa town,Fukui


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August 17 and 18, 2019 野崎順次  source movie(Aug.17)  source movie(Aug.18)

福井県若狭町天徳寺38-3

高野山真言宗

宝篋山 天徳寺

天徳寺縁起によれば、今からおよそ1300年前の養老年間、加賀・白山を開いた泰澄大師が当地宝篋ケ嶽に上り、馬頭観音像一躯を刻んで山腹の岩窟に安置し去ったことを以て寺の起こりとしている。縁起によれば、泰澄の開山から200年を経た天暦年間、この馬頭観音が岩上にあって七日七夜奇瑞を示現したため、元真僧都が急ぎ草堂に移した。観音の霊異は天聴に達し、時の村上天皇は宣旨を下して堂宇の建立に着手。天徳元年、七間四面の観音堂が成り、遅れて食堂、鐘楼、大門等が竣工し七堂伽藍を具備。次いで村上天皇より斎田二十町歩が寄進され、正治2年北条政子が源頼朝の菩提を祈る法華堂を建立寄進した等々と伝えている。爾来、本尊馬頭観音所在に約して山号を宝篋山とし、村上天皇治世の元号になぞらえて天徳寺と称すようになったという。

起源を、門前の湧き水の水神に対する強い信仰によるものとする説もある。すなわち、水源地である水の森に祀る水神(ここでは不動明王)に対する近郷の信仰は篤く、旱魃の際に近郷こぞって雨乞いの祈願をした記事がいくつかの史書に見えることからも水神信仰に起源をおいたことは明らかというものである(和歌森太郎編『若狭の民俗』)。

(ウィキペディア「天徳寺(福井県若狭町)」より)

パンフレットと現地説明板

   

参道を進む。

            

方丈(本堂書院)

             

町名勝 方丈庭園 江戸時代初期 池泉鑑賞式

本庭は本堂書院の南東庭に当たり、面積は約百四十四坪で、池泉は十八坪ほどの小庭であるが、池は東部から南部にかけて細長く曲がり、山畔を利用した鑑賞式の池庭であるが、その中央やや向かって左に石橋を架けてあって、地割は江戸初期の寛文延宝期のものにやや近く、やはりそれが少々退化して、天和貞亮期の典型的な作庭となっている。

山畔向かって右手には滝の石組がかなり豪華に組まれ、さらにまた石橋の近くにも滝と思われる石組があったり、洞窟石もあり、中央山上には巨石の蓬莱石が用いられている。

あるいはまた、池中には岩島が四五石あって、いずれも豪華な立石であり、全庭の石組と共に、その石組が傑出しているが、今日ではサツキの類が繁茂して、せっかくの石組がほとんど隠れていることは惜しい。左方部出島付近の石組もなかなか剛健な手法を見せていて、この時代の庭としてはよく出来ている。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、天徳寺庭園より」

おおむね、方丈から向かって右(南)から左(東)へ見ていく。

                                                

観音堂へ

                 

石上神社

     

観音堂庭園 江戸時代初期 ?池式庭園

なおまた、本寺には北方の川を渡ったところに観音堂があり、その下部に?池の庭園がある。この?池庭園は、百五十七坪の面積で、?池は二十三坪ほどあるが、?池の庭としては珍しい立派なもので傑出している。

?池というのは、池中の中央に橋を架け、水を両面に見る構成である。古くは毛越寺(平安期),永保寺(鎌倉期)など見られるが、その多くの?池は自然のままの形の池庭か、または人為的な長方形のものが多いが、いずれにしても、?池に石組などを用いたものは大体に存在しない。

だが、この観音堂?池は自然式の庭園的瓢形の地割で、中央に石橋を架け、南東角のところに滝を設け豪華な石組を作り、下部に自然石の橋を架けてある。そして池畔全体の石組はなかなか傑出していて、北東部には三尊石組を用い、北西部と南西部には傾斜角度の強い立石を用いたりしてあって、その石組が特に傑出している。

そして本庭の石組を一覧すると、やはり天徳寺本堂前庭と作庭年代も作者も同一人と考えられる手法をもっている。おそらく本堂庭園と共に、天和貞亮時いに作庭されたものと考えられる。ともかく?池の庭園としては、他に例のないものであり、特に傑出したものである。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、天徳寺庭園より」

                                                      

四国八十八ケ所石仏・大師堂

瓜割の滝上方の山道を100メートルほど進んだところに四国八十八ケ所石仏霊場がある。ここは江戸・文化年間、時の住持本如上人が空海(弘法大師)の夢告を受け造営したもので、佐渡島で彫られた石像88体が安置されている。かつて若狭から出た作家水上勉はその随想集の中で「石仏で名高い天徳寺。石仏は石段をあがりつめた山腹だが、四国八十八ケ所石仏といわれている。(中略)枝の混んだ杉、檜の木の木もれ陽の中で、静かに正座しておられる石仏をみていると、暗い奥山だけに、幽邃である。天徳寺は、また湧き水で名高い水の森があり、この石仏群のしじまのへ水音はきこえてくる。若狭は、やはり仏の国だと思う」と言った(『若狭路』)。

(ウィキペディア「天徳寺(福井県若狭町)」より)

                                               

英霊殿

     

若狭瓜破名水公園

        

水汲み場、食堂売店、美味しかった冷奴

       

帰途

          

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