福岡県太宰府市 光明寺
Komyoji,Dazaifu city, Fukuoka pref.
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福岡県太宰府市宰府2-16-1
臨済宗東福寺派
神護山 光明寺
1273年(文永10年)、円爾(聖一国師)の門下にあった鉄牛円心によって建立され開山となった。江戸時代には太宰府天満宮の緇素(しそ・天満宮に仕える人々とその家族)の菩提寺として、1616年(元和2年)に再興されて、1856年(安政3年)7月再営された天満宮の結縁寺である。
(ウィキペディア「光明寺(太宰府市)」より
枯山水の庭が二つある。庫裏玄関参道まわりの「仏光石庭」は拝観できるが撮影禁止、方丈前庭「一滴海の庭」は通常非公開である。共に重森三玲作庭。
光明寺庭園 現代 枯山水
まず門を入った庫裡玄関への参道を中心として、そこに光明寺に因む「光」の文字の地割の上に石を組み、特色のある枯山水を設けたのであった。この庭はは百五十坪の長方形の地割であるが、老木の楓などをそのまま保存して石を組んだのである。
さらに方丈前庭は南庭に当たり、三百九十坪を有し、全庭が、カエデの老木が多い自然林の中に、洲浜的な地割を施して、これに岩島手法一式の多数の石を組み、中央を白砂とし、四周を苔地とした池庭式の枯山水である。
園内多数の楓は、まことに美林であり、春陽の青緑と、秋霜の紅葉とは誠に美しい景観であるので、これをそのまま保存し、この美林の中央部を白砂敷とし、その中に多くの石組を施したのであるから、枯山水としてはまことに変化のある創作庭である。この庭に対して渡唐天神に因んで一滴海の庭という庭園名を付した。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」光明寺庭園より)
国博通り
藍染川と梅壺侍従蘇生碑
昔、太宰府の神官が京に上り、梅壷という京の女性と恋に落ちました。二人の間には子どもも生まれましたが、神官は太宰府へ。後を追ってきた梅壷は神官の妻に冷たい仕打ちを受け、藍染川に身を投げてしまいます。しかし、神官の祈りにより亡くなった梅壷は生き返ったという言い伝えが残っています。多くの和歌に詠まれた歌枕であり、能の題材にもなっています。
(だざいふなびウェブサイトより)
伝衣塔(でんえとう)
鎌倉時代、その頃すでに天神様となっていた道真公が一夜のうちに中国で禅を学んで悟りを開き戻ってきた証として道真公が与えられた法衣(僧侶の衣)を収めたという伝説の塔です。
(だざいふなびウェブサイトより)
石仏群
斜め前の家から見事な萩が国博通りに垂れていた。
福岡県太宰府市宰府2丁目16-1
聖一国師門下の円爾により1273年に開山された臨済宗東福寺派の禅寺。
庭が美しく、もともとあった庭に重森三玲氏が手を入れ1957年に現在の形になったとされる。前庭の石庭を仏光石庭、後庭を一滴海の庭と呼ばれている。
訪れた時は冬季で枯山水の趣が味わえたが秋は紅葉が美しいことでも知られる。
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