福岡県北九州市門司区 門司港
Moji port, Kitakyushu city,Fukuoka
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北九州市門司区港町7-1 旧門司三井倶楽部 本館 重文 近代/文化施設 大正 大正10(1921) 木造、建築面積451.8㎡、二階建、石綿スレート葺 幣串1本 19900319
北九州市門司区港町7-1 旧門司三井倶楽部 附属屋 重文 近代/文化施設 大正 大正10(1921) 木造、建築面積187.1㎡、一階建、桟瓦葺 倉庫1棟 19900319
北九州市門司区西海岸1-5-31 門司港駅(旧門司駅)本屋 重文 近代/産業・交通・土木 大正 大正3(1914) 木造、建築面積812.86㎡、中央部二階建、石綿スレート及び銅板葺、四周上家附属、鉄骨造、鉄板葺、南面上家突出部(第二乗降場上家の一部) 鉄骨造、桁行14.0m、梁間6.1m、石綿スレート葺 連絡上家1棟 19881219
福岡県北九州市門司区
門司港
パンフレット
JR門司港駅、駅舎(国重文)は修理中。
関門海峡らいぶ館(旧JR九州本社ビル、その前は旧三井物産門司支店)昭和11年(1936)
中では、海のペーパークラフト展開催中。
国重文 旧門司三井倶楽部(門鉄会館)大正10年(1921)
国登文 旧大阪商船(大阪商船門司支店)大正6年(1917)
大道芸人猿まわし、ホームリンガー商会など
跳ね橋(ブルーウィングもじ)
対岸の下関と関門大橋
関門海峡ミュージアム
旧大連航路上屋(松永文庫)昭和4年(1929)および昭和13年(1938)
中に入って、2階に上がる。
1階に下りる。各種展示など。
JR門司港方面に戻る。
旧軍馬水飲み場 昭和戦前
門司港出征の碑
それから
三宣楼 昭和6年(1931)
屋内へ
九州鉄道記念館、パンフレット、現地説明板
屋外車両展示
旧九州鉄道本社屋 明治24年(1891)
内部展示
門司港駅
Mojiko station
三井倶楽部
門司港レトロ
門司港レトロは、北九州市門司区にある観光スポット。
JR門司港駅周辺地域に残る外国貿易で栄えた時代の建造物を中心に、ホテル・商業施設などを大正レトロ調に整備した観光スポットで国土交通省の都市景観100選を受賞している
かって門司は「九州の玄関」と呼ばれ、本州から九州に渡るには、門司の通過が必須だった。門司は連絡船の船着き場であり、九州鉄道の始発駅であったことによる。更に門司港は石炭や米の集散地でもあり、朝鮮や台湾へ渡る船もここから出港していった。門司港は大陸に近いことから明治時代以降、国際貿易港として発展してきた
明治に入ると、三井・三菱の財閥系の企業が進出し、また石炭業によって財を成した地元の安川(松本)・麻生等の企業も生まれ、門司は九州の近代化の拠点として栄えた。
しかし1942(昭和42)年に関門トンネルが開通してからは連絡船が不用となり、「門司駅」は「門司港駅」となり、新幹線も通過だけとなった。駅名の変化は門司地区没落の前兆で、その後も交通拠点としての役割を失っていき、今から20年ほど前まで、門司駅の周辺は、かっての税関、倉庫だった建物などがわびしく残る地区であった。
しかし今の門司は北九州市の「レトロ地区」として多くの観光客が訪れる場所となった。門司港駅は、衰退した地区を活性化するために、近代化遺産・近代建築を利用した「レトロ地区事業」の核になっている。
門司港レトロエリアには、明治から大正にかけて作られた建物が今でも残っている。 木造建築の門司港駅を初め、大正浪漫ただよう建物たちがエキゾチックな雰囲気を醸し出していいる。
歴史的建造物を活かした町づくり、新旧が入り混じった佇まいが微妙なバランスの上に構成され、不思議な雰囲気をもって訪れる人を満足させている。
レトロは「門司港駅舎」がスタートポイントである。レトロの中心部は後回しで、周辺部から巡回する。
■JR「門司港駅」
北九州市門司区西海岸1−5−31
国重要文化財 竣工:1914(大正3) 構造:木造二階建 :
駅は、九州旅客鉄道鹿児島本線の駅で同線の起点駅。 関門トンネルが開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わった。
1891(明治24)年に建造され、1914(大正3)年に少し動かして現在の地に建てられた。その後、120年近く経過し、目下保存修復工事が行われている。
設計は九州鉄道管理局工務課が行ったネオ・ルネッサンス調の木造建築で、ドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの監修の下に建てられた。
当時の駅のモダンさを知るにはトイレを覗いて見ると分かる。青銅製の手水鉢や水洗式トイレ(当時としては非常に珍しい)、大理石とタイルばりの洗面所、御影石の男性用小便器などはとても重厚でモダンな造りである。
二階にはハイカラなみかど食堂があり、鉄道を利用する客で大変にぎわっていた。この門司港駅、駅舎としては初めて国の重要文化財に指定された。
生きたかたちで、使いながら重要文化財を保存する方法が始めて採用された。
工事前の駅舎
白く覆われているのが駅舎である。
工事は2018(平成30)年3月完成を目標に行われている。
■関門橋
山口県下根関市・北九州市門司区
関門橋は、山口県下関市と福岡県北九州市門司区の間の関門海峡を跨ぐ道路橋の名称、およびこの橋梁を含む区間の高速道路の通称。
広大な関門海峡のシンボルともいえる。1973(昭和48)年に開通。全長1,068m、海面からの高さ61m。
■門司港ホテル
北九州市門司区港町9−1
イタリアの建築家アルド・ロッシの遺作である。設計のテーマは門および鮫。インテリアデザインは内田繁。港湾・船舶関連企業が入居するオフィス(門司港レトロスクエアセンタービル)が併設されている。
■門司港レトロ展望室
建築家・黒川紀章が設計した高層マンション「レトロハイマ−ト」の31階にある展望室。このマンションはランドマークでどこからでも見える。
展望よりの景色
■出光美術館
出光興産の創業者、出光佐三氏が集めた陶磁器や絵画などの美術品を所蔵する私立美術館である。古い倉庫を改築したこの美術館は、大正期の雰囲気を伝える建物の外観を残している。
■旧岩田酒店
北九州市東本町2丁目
北九州市指定文化財 建築:1921(大正10)年 構造:木造2階建 店舗兼家屋
土蔵や防火壁に赤レンガを使用。酒類の販売業を営む。JR九州の本社を門司唐福岡に移すに合わせて本店を福岡に移す。門司港点は閉店した。
生家を門司港の栄華を語る建物として残したかったとの思いで、今は、岩田酒店カフェ&ギャラリーとして使用。
■栄町銀天街
北九州市門司区栄町
300mほどあるアンケードが続く。全盛期時代の門司区の食を支えてきた感じのする店が並ぶ。脇道や路地に入ると旧屋のあって大正・昭和の匂いが感じられる。
■JR九州本社ビル
北九州市清滝2−3−9
近代化産業遺産 竣工:1891(明治24) 設計:ドイツ人による設計)
通称「赤レンガ」と呼ばれた九州鉄道の中枢基地。門司駅の開業と同時に九州鉄道の本社として建てられた。以後、鉄道院、鉄道省、日本国有鉄道、九州旅客鉄道株式会社などへと所有は移ったが、一貫して九州の鉄道の中枢機能を担っていた。現在は九州鉄道記念館として利用されている。
旧大連航路上屋
北九州市門司区西海岸1−3−5
旧大連航路上屋は、1929年(昭和4年)に、国会議事堂等を手掛けた官庁建築課大熊善邦氏の設計により、『門司税関1号上屋』として西海岸に建設され、北九州・門司港の国際ターミナルとして使われていた。日本の近代化に大きな役割を果たした建物とされる。
出入り口脇の監視室が半円形に飛び出す等、幾何学形態を取り入れたアールデコ様式が特徴。
約5年の歳月をかけて完成時の姿を取り戻し、人と人とをつなぐ交流施設として、また門司港を訪れた方たちの憩いの場として生まれ変わった。
■関門海峡ミュージアム
北九州市門司区西海岸1−3−32
平成15年にオープンした、関門海峡の過去・現在を五感で感じられるミュージアム。
海峡にまつわる歴史を再現した「海峡アトリウム」「海峡歴史回廊」をはじめ、大正時代の街並みを再現した「海峡レトロ通り」など見どころ満載。
海峡レトロ通り
見ての通りである。
昼食は「焼カレー」
旧大阪商船
Kyu Osakashosen
旧門司三井倶楽部
Kyu Moji Mitsui club
福岡県北九州市門司区港町7−1
国重要文化財
竣工:1921(大正10)年 設計:松田昌平設計
旧門司三井倶楽部は1921(大正10)年に三井物産の社交倶楽部として、門司区谷町に作られた。
建物はハーフティンバー様式(木骨様式)と呼ばれるヨーロッパ伝統の木造建築工法で作られたもので、木造の骨組みの間を漆喰やレンガ、石などを使って埋めて壁が作られ、木造の骨組みがそのまま外観デザインのアクセントとなっている。
外観
内装には各部屋にマントルピース(暖炉)が配置されドア枠、窓枠、大階段の親柱などには幾何学模様のアールデコ調の飾りがされており、大正モダンを深くうかがうことができる。当時、門司港がどれほどの経済力を誇っていたのかも容易に想像できる。
アインシュタイン博士が全国を講演する為に来日した際に、ここ三井倶楽部に宿泊している。アインシュタイン博士は大変、門司港と三井倶楽部を気に入ったようで、福岡に宿泊した際も門司港の事ばかりしゃべられていたといわれる。アインシュタイン博士が宿泊した部屋は今も当時のまま二階に、アインシュタインメモリアルルームとして残されている。
二階には門司出身の女流作家林芙美子の資料室や展示室がある。旧門司三井倶楽部は、一階がレストランやイベントホールとして使われている。
旧門司税関
北九州市東港町1−24
竣工:1912(明治45)年 設計:曾彌・中条事務所設計
旧門司税関は1909(明治42)年に門司税関が発足したのを契機に、1912(明治45)年に煉瓦造り瓦葺2階建構造で建設された。
昭和初期までは、税関庁舎として使用されていた。
1994(平成6)年には北九州市が赤煉瓦を特注し、建物の復元を行い、近代的なデザインとモダンなネオルネッサンス調が交わり非常に奥深い建物となった。
この旧門司税関は、赤レンガ造りの木骨構造でルネッサンス様式の美を追従した極めて優れた建築物とされた。
市港湾局の主導により保存・改修工事が平成4-6年(1992-94)にかけて行なわれ、近代的なデザインとモダンなネオルネッサンス調が交わり非常に奥深い建物となった。
興廃していた状態のまま残されたコーナーを見学した。
建屋は、歴史性を踏まえたうえで、新たな建築として蘇り、多目的市民ホール・観光施設として用いられながら現在に至っている。
国際友好図書館
北九州市門司区東港1−12
中国の遼東半島にある都市、大連市はかつて門司港とは国際航路で結ばれ交流が盛んだった。そして、1980(昭和54)年に両市は友好都市を締結した。
その友好都市締結15周年を記念し、ロシア帝国が1902(明治35)年大連市に建築した東清鉄道汽船事務所を、そっくり複製し建築されたものが国際友好記念図書館である。
ドイツ人技師が設計した特異な建築様式で作られていて、エキゾチックな外観がすばらしい雰囲気を醸し出す。。
外観
石屋レンガには工夫が施されている
タイル
国際友好記念図書館の一階はレストラン、二階は中国・東アジアの文献を収蔵した図書館、三階は資料展示室となっています。
関門海峡ライブ館
北九州市門司区西海岸1−6−2
旧三井物産ビルで、三井物産が1937(昭和12)年に門司支店として建設した建物。当時は「九州一の米国式高層オフィスビル」と呼ばれた。
戦後の1949(昭和24)年に旧国鉄が買収。民営化後はJR九州がJR九州本社ビルとして使用していた。
黒花崗岩で造った「門」の字の表玄関と、玄関上を飾る「海の女神」の浮彫りは竣工当時のまま。
観光案内所と関門海峡ライブ館が設けられている。
三宣楼(さんきろう)
Sankiro
北九州市門司区清滝三丁目6−8
案内
三宣楼は、太平洋戦争直前まで、門司港で羽振りが良かった商船三井をはじめ海運業者の接待の場に使われた名料亭である。
外観
1931(昭和6)年の建築で、木造3階建てで、現存する料亭の建屋としては九州最大級である。
経営者三宅家は文化・芸能をこよなく愛し、十六畳の大舞台で踊り、能、長唄などが披露され、その宴に多くの芸術家や文化人が訪れた。
1955(昭和30)年廃業、2005(平成17)年売りに出され、地元有志による「三宣楼を保存する会」が所有権を獲得。その後北九州市に寄贈され、現在は「三宣楼運営協議会」が建物を借り受け運営している。
内部は数奇屋造り、百畳の間と呼ばれる大広間、各部屋・階に見られる床の間・欄間・下地窓等の意匠が目を惹く。営業中の為各部屋には入れない。
見事な意匠…往年の雰囲気が伝わる。
目にした意匠の数々
付近にあったに木造三階建ての民家
甲宗八幡宮
Kosohachimangu
北九州市旧門司区1
甲宗八幡神社は860(貞観2)年に清和天皇が創建したと伝えられている。「甲宗」という社名は甲を神体とすることによる。
神功皇后が三韓出兵の際着用したとされる兜を神体としているが、50年に一度行われる大祭でしか拝観できない。
2008(平成20)年の大祭の後は50年後の2058年となる。
第2次世界大戦中、空襲により社殿が焼失したが1962(昭和37)年に再建された。
境内には、壇ノ浦の戦い<壇之浦合戦>で入水した平知盛のお墓と供養塔がある。
和布刈神社
Mekarijinja
北九州市門司区門司3492
和布刈神社は、関門海峡の最も狭く、潮の流れの速い早鞆(はやともの)瀬戸に面した九州側に建っている。
関門橋が本殿の真上を通っている。
社伝で伝えられる限りでは神功皇后の三韓征伐後奉祀されたもので仲哀天皇9年(200年)創建とされる。古くは「隼人明神」とも呼ばれた。
壇ノ浦の戦いの前夜には平家一門が酒宴を開いたと伝えられる。
海峡の守護神として崇敬を集め、建武3年(1336年)足利尊氏、応永年間(1394年〜1428年)大内義弘、天正3年(1575年)仁保常陸介などによる諸社殿の修築造営が伝えられている。現社殿は明和4年(1767年)小倉藩主小笠原忠聡の再建によるものである。(ウイキぺデイアより)
神事
福岡県無形文化財
旧暦元旦の早朝、和布刈神社の神殿の前の干潮の海で、わかめを刈り取って、神前に供える和布刈神事が行われる。
わかめは、万物に先んじて、芽をだし自然に繁茂するため、幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として昔から重んじられてきた。
和布刈神事は、第十四代仲哀天皇九年、神社創建以来続いた神事で、発端の古く莊重な事は社殿が渦潮たぎる海峡の景勝地に有る事など、相伴って全国諸神社中有名な神事である。「神社HPより抜粋」
当神社に伝存する中世文書九通は、市の有形文化財に指定されている。
旧大阪商船の建物が工事中でネットが掛けられており、見ることができませんでした。
国際友好図書館、旧門司税関、旧門司三井倶楽部、門司駅と古い洋風建築を堪能しました。
門司駅以外は、レストランや観光案内所といった建設当時とは異なる目的に利用されていました。
見学者のみをあてにする観光施設となるよりは有効利用され保存のコスト負担にも有効な形だと感じました。
Dec.2008 瀧山幸伸 source movie
古くから船運の要衝であった門司は、有史以前から大陸と本州を結ぶ重要な拠点であったと思われる。
新羅を後ろ盾とした磐井の乱が527年に起こり、これを征伐した大和朝廷は535年、九州の玄関口のこの地に屯倉(みやけ)を置き、 門司は大和勢力に組み込まれることとなった。
その後大化の改新の時に、門司に関所が置かれた。
源平合戦で有名な壇ノ浦はすぐ脇。
鎌倉時代には、北条泰時が門司を西国で一番重要な要と考え、地頭職を置いた。
その後、足利尊氏、豊臣秀吉の時代にも門司は水路の拠点として重視される。
武蔵と小次郎の巌流島は言うに及ばないが、ドラマの生まれる地だ。
江戸時代、門司は九州諸藩参勤交代の宿場としても繁栄する。
明治22年(1889)門司港は特別輸出港に指定されたのを機に大貿易港へ発展して行く。
明治24年(1891)鹿児島本線のターミナルとして門司駅(現在の門司港駅)ができた。
しかし、昭和17年(1942)に関門トンネルが開通すると、隣りの大里駅に「門司」の名が付けられ、元の門司駅は門司港という駅名に変更された。
関門連絡船は残っていたものの、門司港駅は九州の玄関口を譲る事になり、門司港地区は衰退していった。
「門司港レトロ」は平成7年(1995)オープンと比較的新しいが、地域おこしの成功例となっている。
門司は、小樽と同様、異人の港町ではなく、産業港、交通港としての歴史を持つので、小樽と同様の街並景観を呈する。
小樽に比べれば大陸文化の影響を濃く受けており、ハイカラだ。
小樽は運河と倉庫をフィーチャーし、門司は「門司港レトロ」をフィーチャーしている。
また、環境庁の日本の音風景100選に「関門海峡の潮騒と汽笛」が選ばれている。
門司港駅 (重文)
大正3年(1914)建築。ルネサンス様式。
関門連絡線は、明治34年(1901)から昭和39年(1964)まで運行された。
駅舎内部や外観は、当時の繁栄を復元し、なつかしい趣を演出している。
駅員に女性が多く、駅の雰囲気がさらに和らぐ。
人力車
旧三井倶楽部 (重文)
大正10年(1921)建築。
設計は松田昌平。
木造2階建。外壁の柱と梁を顕すハーフティンバー形式が特徴。
三井物産門司支店の社交倶楽部として門司区谷町に建築された。
平成2年に国の重要文化財に指定され、平成6年に現在地に移設された。
竣工直後の大正11年には、日本を訪問したアインシュタイン博士夫妻が宿泊した。
現在はレストラン等として活用されている。
日本郵船門司支店
旧大阪商船三井船舶株式会社門司支店
大正6年(1917)建築
河合幾次の設計。
大陸航路の待合所として建てられた。八角形の棟屋を持つ、門司港のランドマーク建築。
旧門司第一船だまり
石炭などを運搬する「はしけ」の係留施設として、明治から昭和50年代まで使われていたが、その用途がなくなり、その後「門司港レトロ」として観光目的に再生された。
日本唯一の歩行者専用はね橋「ブルーウイングもじ」
関門橋
旧門司税関
明治45年(1912)建築。
昭和初期まで税関として使われていたが、その後倉庫として使われていたり、空襲に遭ったりで大きく原型を損ねていた。
背後のマンションは黒川紀章氏設計の31階建て。
街並景観に調和するかどうかで議論を呼んだ。
旧東清鉄道汽船会社事務所(複製)(国際友好記念図書館)
大連市にある旧東清鉄道汽船会社事務所(明治35年(1902)建築)の複製。平成6年(1994建築。
ボルチモア風の商業施設
門司港ホテル
平成9年(1997)建築。
アルドロッシの設計。
「門」をモチーフとしてデザインした。
ボルチモアのインナーハーバーは商業港再生のモデルだが、かの地には、有名な水族館、子供博物館、ペリーのサスケハンナ号の係留などがある。
この地には、そういう点で魅力が足りない。
あるいは、あまり「ロマンス」を感じないと言ったほうが正確かもしれない。
サッポロビール門司工場のレトロな建物を活用した麦酒館も二駅先にオープンしたが、今ひとつ「滞在型」のデスティネーションとしての魅力に欠け、団体の通過観光地に甘んじている。
緑と水とベンチが不足していることも落ち着かない理由だ。
ボルチモアなどの物真似町おこしでは限界がある。
係留船は、アメリカ式の外輪船ではなく、門司の歴史を象徴する関門連絡船やはしけであろう。
歴史が無い観光地が訪問者をとりこにするためには、物語を創作するしか手段がないのだが、この地には歴史はふんだんにある。
それの再発掘とフィーチャリングはほとんどなされておらず、大いなるポテンシャルの展開はこれからの作業だ。
例えば、関門海峡をフィーチャーするのであれば、対岸の下関と積極的な共同プロモーション戦略を展開すべきであろう。
門司の洋と下関の和を合わせ、一泊需要を喚起しなければ、せっかくの夜景がアピールできない。
日本でこのように間近に大型船の往来を見られる地は他に無い。
船の往来の夜景と、霧の多い夜の霧笛はロマンチックだ。
壇ノ浦、巌流島、瀬戸内、韓国への玄関口、そして、フグなどの和食ブランドを持つ下関との連携を深める。下関には水族館もある。
大内、毛利家の栄華が残り土塀が美しい長府の街並を堪能してもらう。
これからの時代、行政単位、観光協会単位の縄張り争い、タコツボ型の観光戦略では限界がある。
広域観光ネットワーク戦略が重要ではなかろうか。
長府の街並
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