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岐阜県岐阜市 河渡宿

Godo shuku,Gifu city,Gufu

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Jan.2018 柚原君子

中山道第54「河渡宿」

概要

東海道本線「西岐阜駅」から次の駅「穂積駅」の間には長良川が流れています。広くて大きな川で柿田川、四万十川と共に日本三大名流の川です。岐阜県の大日ヶ岳を源流とする長良川は源流に近い郡上八幡辺りでは「上ノ保川」、美濃市に入って「郡上川」、河渡の辺りでは「河渡川」、大垣辺りで「墨俣川」と呼ばれています(江戸時代の浮世絵師 英泉は河渡宿として長良川の鵜飼いを描いていますが、その時は「長柄川」と表記しています)。

木曽川と揖斐川の間を流れる長良川は、下流の三重県桑名の近辺で揖斐川に合流して伊勢湾へと流れ出て源流からおおよそ166キロの長い旅を終えます。

中山道は第37「福島宿」の辺りからずっと木曽川に添うように進んできていますが、河渡宿の一つ前の加納宿辺りから木曽川を離れます。そして河渡宿に向かうために道は西にまっすぐ進み、やがて見えてくる長良川を渡ることになります。昔は渡し船でしたが、現在は河渡橋が架かっています。

渡り終えたら左の土手寄りに少し進んでから右に折れて、樽見鉄道「美江寺駅」の方に進んでいくのですが、地形からも解るように、河渡宿は長良川増水によって足止めされた人々のためにあった宿で、足止めでもなければ旅人に通過されてしまう小さな宿でした。

一つ前の加納宿もそうですが、地質は酸性の黒い腐葉土の湿地帯で、長良川の氾濫に幾度も襲われています。河渡宿は1815(文化12)年には、幕府の貸付金で砂、砂利、土の三段の盛土を1.5メートル程して家々も改築して宿全体を作り直した記録があります。盛土工事が完了した30年後の1843(天保4)年の「中山道宿村大概帳」によると、河渡宿内家数は64軒、本陣1、脇本陣は無し、問屋は2軒、旅籠24軒、宿内人口は272人となっています。町全体の長さは330メートル(前の加納宿は2.7キロ)。戦災によって歴史的なものもほとんど失われてしまい、街道の道筋だけが残っている宿場でもあります。

当時の住所は美濃国方県郡(かたがたぐん)河渡村。現在の岐阜県岐阜市にあたります。

1,鏡島(かがしま)大橋南交差点→乙津寺(おっしんじ)

お正月のこともあって歩く人もなく、宿には大体一ヶ所はある案内所もお休みで、その土地でしか頂けない案内図も手に入れられず、おまけに出発前に念入りに下調べをして「渡し船」に乗るのを楽しみにしていましたが、どう探しても見当たらず、訊く人も無く、あきらめて河渡橋を対岸に渡ってしまいました。

帰宅して調べたら、橋の所に行ったらもう行き過ぎで、実は橋の手前の乙津寺(おっしんじ)の奥を土手に上がっていくとその渡し場があったそうなのです。ああ〜。帰宅して資料整理の今の落胆は大きいのですが、当日は渡し船に乗ることが出来ないのも知らずに、乗るつもりで意気揚々と進んでいるところです(笑)。

「鏡島大橋南交差点」より出発です。秋葉神社の白い旗がお正月の松飾りとともに風になびいています。横に見える道は「鏡島追分」。岐阜街道との追分です。

乙津寺(おっしんじ)<通称鏡島弘法(かがしまこうぼう)または梅寺>に行きます。寺標に沿って入っていくと左側に赤い鳥居。倉稲魂稲荷神社。乙津寺の鬼門の守護神です。乙津寺の地域はもとは乙津島という地名。過ぎてきた交差点は鏡島という名称。その前の信号は鹿島。「島」名称がたくさんあります。ここから先の赤坂宿までは古代は海だったという言い伝えもあるそうです。それでも、長良川が氾濫して水が引かないところの島、という説もあり私的には長良川の氾濫説と思いたいです。

鏡島や近村には魚漁をする人もいて長良川で鮎を捕り加納宿に売りに行ったそうです。

乙津寺(おっしんじ)は738年(天平10)年に行基が草庵を築いたのが始まり。813年(弘仁4)年、嵯峨天皇の勅命を受けた空海がこの地に赴き、秘法を用いて龍神に向けて鏡をかざしたところ、この地が桑畑に変わったという。このことからこの地を鏡島(かがしま)と名づけたといいます。乙津寺の別名の「鏡島弘法(かがしまこうぼう)」はここからきています。翌年、真言宗乙津寺を建立。1467年の応仁の乱でこの地に逃げてきた「一条兼良正室 東御方」のお墓もあります。1540(天文9)年、洪水の被害を受けますが、その後の1545年(天文14)年には鏡島城主石河駿河守光清が寺を再興する、と説明にあります。

太平洋戦争による空襲で建物が全焼していますが、本尊は持ち出されて無事。1958(昭和33)年に現在の寺の姿に再建されています。本尊である「木造千手観音(十一面千手観世音菩薩)立像(平安時代)、その他、木造毘沙門天立像(平安時代)/木造韋駄天立像(鎌倉時代)はいずれも国指定の重要文化財です。本堂にはガラガラ回してご利益を頂ける大数珠。本堂奥には国宝が安置されているはずです。

四国八十八箇所の霊場を巡れるお地蔵様の列が本堂裏にぐるりとあります。お地蔵様の奥の方に長良川の土手が見えます(実は……そこに上がればお紅の渡し)(上がらずに過ぎてしまい、この宿の目的の一つであった渡し船に乗ることも見ることも出来ませんでした。とても残念です)

                      

2,レトロ建物→神明社→北野神社→鏡島湊跡

中山道時代には関係ありませんが、右側に昭和の香りがするレトロな建物が見えています。旧鏡島郵便局です。建築年は昭和10年とのことですから築84年の建物。空襲に遭わずに残ったのですね。ご自由にお入りくださいとありますが、お正月だからでしょうか、無人です。中には昭和の頃の人形など展示してある模様。外観写真を撮らせて戴いて先に進みます。

この先の神明社には大きな木に小さい可愛い桜が咲いていて今日の青空によく似合います。

街道から長良川寄り側は湊村。さらに先の北野神社を過ぎると南無地蔵尊が見えます。道はここから緩やかな登りのカーブで、長良川の土手も視野に入ってきます。

土手を上りきった左側に「鏡島湊跡」の説明板があります。江戸時代になると、各地で城下町や門前町・宿場町などの建設が盛んに行われましたので、そのために必要な大量の材木を、筏に組むなどして上流から流されました。また幕府や大名の御用物資・年貢米などの輸送に使われた他に、各地の商品生産と流通が発展し、荷舟による舟運の役割も中山道時代は一層重要となります。長良川流域でも各地に川湊ができていて、この鏡島湊もその一つです。大小の川船が行き交い人足たちが荷を乗せたり下ろしたり、また陸路への手配をした場所なのですね。

「鏡島湊跡」の説明板を要約します。

『1592年、岐阜城主 織田秀信は鏡島の馬渕与左衛門に新町を造る事を命じ、ここ以外での船荷の陸揚げを禁じました。分流し水量が少なく川瀬の関係で荷を積んだ舟がそこ以上さかのぼるのがむずかしく、長良川と伊勢湾を結ぶ商品流通の重要な要となっていたことから、岐阜城下町の外港として整備し、自らの支配下にしようとしたのです。

鏡島湊の権益は、関ヶ原の合戦後、加納藩が成立してからも認められました。鏡島を通る東西の街道が中仙道として公道化すると交通量が大幅に増し、渡船の利用者も増加、街並みは長く伸び発展しました。明治維新後は鉄道の開設、陸路整備で陸上輸送が発達したのでその役目を終えています』(要約)

雄大に広がる長良川の上流と下流を見渡せるように説明板が立ち、川風・陽光、申し分ない青空ですが、どこを見渡しても「お紅の渡し」はありません。河渡橋を右へ左へと自転車を走らせてみましたが探し疲れてあきらめました。……乙律寺の奥に行くべきであったと、前述の通りなのですが。ひどく落胆!

                         

   

3,河渡橋→馬頭観音堂→燈籠モニュメント→一里塚

長良川に架かる河渡橋を渡ります。右後方の遙か先の山の頂に岐阜城が見えます。橋の下には渡し船のような船が船底を見せて上げられています(渡し船で長良川を渡ることがまだあきらめられず、写真に撮る)。

橋を渡ってすぐ左に折れて土手道を。馬頭観音の小さな祠があります。三度笠の旅人が行きそうな土手道。川の方に降りて行く道筋がありボートが伏せられています。河渡橋には現在も航行されている「お紅の渡し」と明治14年に橋ができてからなくなった「河渡の渡し」とがありました。河渡の渡しは江戸時代には二艘の渡し船が常備されていて渡し賃は一人6文、荷物は18文、なんと武士は無料だったそうです。

土手から河渡宿方面を見下ろすと愛染堂と燈籠のモニュメントが見えるので降りて行きます。愛染堂は1842(天保13)年、荷駄役人足が100文ずつ出し合い、道中家内安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を祀るため六間四面のお堂を建立したものだそうですが、最近建て直された様子です。祭:いこまい中山道と書かれた大きな燈籠もあります。その脇にこれ見よがしに立てかけられた選挙ポスターの板。確かに目に付くけれども無粋で品格なしのように見える気がします。

中山道という赤枠で囲われた矢印が畑の下の方に。手作り感あり。ありがたく矢印に沿って街道に入ります。戦災と長良川改修でほとんど何もなくなった河渡宿。枡形もなければ街道の面影となる緩やかに何度も曲がりくねる道もありません。ただ一直線。

街道の右側。民家と民家の間に河渡宿碑。側面に「一里塚跡」と刻まれています。概要にも書きましたが、河渡宿は1815(文化12)年に未曾有の大洪水に襲われて壊滅状態に陥ります。その時の代官であった松下内匠は幕府の助成を受けてこの地を地上げして宿全体を作り直します。そのことを感謝しての社と顕彰碑です。

進んで左側に「杵築(きづき)神社」。一段高いところにあるので洪水の時の避難所でもあったそうです。燈籠モニュメントにあった「いこまい中山道」のお祭りが執り行われる場所でもあります。この辺りが河渡宿の西口に当たります。

                               

4,馬場地蔵堂→本田地蔵堂→代官所跡→高札場跡

生津の信号の手前右一帯は馬場小城町。電柱に表記があります。問屋場が2ヶ所あったとのことですから、この辺りにそれがあり、荷を引き継ぎする馬もいたのでしょうか。それとも、街道の少し先は本田代官所跡や高札場があり、江戸時代中期にはそこに本田村陣屋が設置されていたそうですから、そこを平城と見て馬場があったのでしょうか。一本の電柱の表記からいろいろと想像しての宿場歩きの楽しみです。

生津の信号の先は道が右に大きくカーブします。突き当たりと思える場所に「馬場地蔵堂」。右に続いている枝分かれの道は「馬場追分」で墨俣街道へと続く道です。馬場地蔵堂の説明は特にありません。

郵便局の先に見えてくる橋は糸貫川橋。この橋を渡ると本田。本田村は当時東町、仲町、西町と分かれていて、東町の方に本陣があったそうです。河渡宿の中心に入ってきた風情があり、旧家も残っていますが本当に小さな宿であったことも感じられます。

糸貫橋を渡ってすぐ左に本田地蔵堂。1809(文化6)年建立。高さ90センチの石物座像、延命地蔵様の柔和なお顔を見ることが出来ます。旧家があります。

続いて右側に「本田代官所跡」そして「高札場跡」。代官所の詳細は定かで無いとしながらも、やっと宿らしい絵にであった気がしますがどこの宿にも必ずある「本陣跡碑」は河渡宿にはとうとうありませんでした。

中山道を京に向かう時、左側の建築物は午後の逆光になります。逆光は苦手(笑)。それなので、通り過ぎて振り返る形の写真になることも多くなる中山道道中です。本田松原という信号のところで河渡宿を終了します。次は美江寺(みえじ)宿です。

                        


June 10 ,2016 瀧山幸伸 source movie

                          

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