岐阜県岐阜市 加納宿
Kano shuku,Gifu city,Gufu
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Jan,2018 柚原君子
中山道第53「加納宿」
概要:
現在のJR岐阜駅の南側に位置する加納宿(岐阜県岐阜市)は一つ前の鵜沼宿と同様に各務ヶ原台地にあります。酸性の黒い腐蝕土に覆われているために草原や雑木林にしかならない地質で、木曽川に面した広大な原野として手つかずの場所でした。中山道はこの低湿地帯を通るために周囲より少しでも高い堤防や扇状部の先端を通れるように工夫されています。
加納宿は中山道六十九次の中でも五本の指に入る大きな宿で、もちろん、美濃十七宿の中では最大の宿です。大きいゆえに合いの宿として「新加納宿」を併せ持っています。また中山道の中では数少ない城下町でもあります。
加納城は、もともとは文安2年に斎藤利長が築城したものです。しかしその後の天文の頃には廃城となっていました。慶長6年になって、関ヶ原の合戦で勝利して天下人となった徳川家康は、岐阜城を廃し、その礎石や楼閣を移築して1601(慶長6)年に加納城を再建します。そして、家康の長女亀姫の女婿奥平信昌に与えます。その後は大久保氏(一代)、戸田氏(三代)、安藤氏(三代)、永井氏(六代)と続いて明治維新を迎えています。また、宿が大きいだけあって枡形が多い事(6ヶ所)と、中山道でも左右の一里塚がそろって現存していることも特筆です。
加納宿はとても大きかったので前半の鵜沼宿寄りを「合いの宿、新加納宿」として区切っています。また一般的には宿と宿の区切り方に一定の法則は無く、一里塚であったり見附であったりもします。大きな宿ですので数え方によっては立場が4ヶ所あるというまとめ方もありますが、今回「三ツ池の立場(二十軒)」と「六軒茶屋の立場(六軒茶屋)」の2ヶ所を前の宿である鵜沼宿にいれるという区切り方をしました。
1843(天保4)年の「中山道宿村大概帳」によると、加納宿は加納藩領に所属して人口は2728人。家数805軒。本陣1、脇本陣1軒、旅籠数35軒、町並みは21町37間(約2.4km)、21町に分けられているとあります。
城下町として栄えた加納宿ですが、版籍奉還(明治維新後も存続した諸藩主が1869年・明治2年に土地:版と人民:籍に対する支配権を朝廷に返還したこと。廃藩置県の前段階)後の明治6年に加納城は堀や楼閣が壊されてしまい、現在は本丸跡に陸上自衛隊、二の丸跡に気象台などとなっています。城下町と宿場町の二面を持っていますので史蹟も多く、中山道から脇道に入っても楽しめる街道です。
1,合いの宿:新加納宿(西那加稲荷神社→茶屋本陣跡→新加納の一里塚跡)
民宿「吉野」に泊めて戴いて奥様に自転車をお借りして動き回っている加納宿です。加納宿はとても大きな宿でしたので、東京寄りに位置する名鉄線「新那加駅」から「新加納駅」に平行している部分が、合いの宿「新加納宿」として区切られています。合いの宿は、大きな宿に付随している事が多いのですが、中山道63次にカウントされることはありません。
鵜沼宿を過ぎて、合いの宿である「新加納宿」に入っていきます。各務原郵便局、那加栄町のバス停。その前にある「今尾Nosan」と書かれているビルは旧御殿医である今尾家の一族でしょうか。後ほどその旧家の前を通るはず。楽しみです。
西那加稲荷神社を過ぎると狛犬ならぬ狛蛙がいる日吉神社に。御由緒によると、平安時代頃の創立。往時は境内に大きな瓢箪池があり多くのガマガエルが生息していた事から狛犬ならぬ狛蛙になって、当神社のお祭りは『げえろ祭り』といわれていたこと、伊勢湾台風前には樹齢数百年の杉や檜が林立していたこと、などが記されています。
正面右の狛蛙は背中に子蛙を乗せています。瓢箪池は今は砂利を水と見立てた小さな作り物になっています。その横に馬頭観音。寄進者の名前に今尾氏。
日吉神社を出て中山道に戻ります。標石があります。昔の字で「中仙道」。反対側に1861(文久元)年、皇女和宮が休息したという「梅村屋茶屋本陣跡」があるはずなのですが、案内板もなく見つけられませんでした。緩やかに左に曲がっていく道の突き当たりに「新加納の一里塚跡」。説明板には白黒の写真で、すげ笠をかぶった旅人が二人、何も無い松林の道を草鞋ばきで歩く姿が掲載されています。街灯もない石ころの道を草鞋で歩く旅。行き倒れの人や馬も多かったのでしょうね。
空に爆音。岐阜県各務ヶ原市には陸上自衛隊岐阜基地があるので、時々、空に自衛隊機の爆音が響きます。かなり低い位置を飛んでいます。う〜ん、当時の旅人が現在の空を見上げたら、卒倒してしまうのではないかしら。
2,合いの宿、新加納宿(高札場→今尾医院→善休寺→少林寺)
一里塚跡の左側の道をとります。正面に見えてくるのは高札場跡の標石と白いきれいな今尾医院の建物。今尾医院の先祖はこの地を治めた旗本坪内氏の御殿医とのこと。道を隔てた一角には登録有形文化財となっている立派な今尾医院の旧家が残っています。家を取り囲む黒板塀の上には七福神。重要文化財である「薬師堂」は修理中で見られませんでした。「中山道新加納立場」という解説板(加納宿には5ヶ所の立て場があり,その3ヶ所目にあたる)があります。合いの宿としての説明ですのでそのまま載せてみます。
『1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は、全国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行った。中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長百三十四里(約五三六㎞)の間に六十九の宿場が設けられた。各務原市内には鵜沼宿が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿の間は四里十町(約一七㎞)と距離が長いため立場(たてば)(建場茶屋)と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿の、ちょうど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の「間の宿」として栄えていたのである。(平成二十五年度 新加納まちづくり会)』
※旗本坪内氏……関ヶ原の戦いで功績を挙げた坪内利定。織田信長に仕えたのちに徳川家康に属し、3400石を知行。関ヶ原の戦い後は、旧領の美濃国羽栗郡、各務郡20村、6500石を治める旗本となる。拠点を川島の「松倉城」から美濃国各務郡新加納村に移して,知行所として新加納陣屋を築く。
中山道の面影を残す鍵の手に曲がる道を進んで『善休寺』に行きます。善休寺は織田信長にゆかりの深い本光院(京都市上京区七本松)の帰依が深く、筋塀(塀に三本筋入り)を許されて菊花紋入りの品を寄付され祈願所と定められた、とあります。また尾張徳川家が各務野にて狩りの折りには当山を宿所としたのでそれ以来信仰篤く、特別に「葵の紋」を賜る、ともあります。なるほど、水戸黄門の印籠と同じ葵の紋があります。親鸞上人の像の周囲のドウダンツツジも色鮮やかでした。
続いて「少林寺」。坪内利定のお墓があります。稲荷堂は各務原市指定文化財。建立されたのは1804(文化元)年。正面扉の彫り物がきれいです。本堂の西側には「千体地蔵菩薩堂」があります。正面には菊のご紋。戦国時代は将軍から武将へ菊のご紋が下賜されたそうですけれども、どのような経緯でここに菊のご紋があるのでしょうか。この少林寺の南側が「新加納宿陣屋跡」といわれる一帯だそうですが、もはや住宅地と化していました。
3,加納宿へ(手力雄神社→切通陣屋跡→伊豆神社→細畑の一里塚→領下往還南交差点)
松並木があったそうですが、完全に住宅地。今は面影もありません。新加納通りと書かれた道を進み東海北陸道の高架をくぐり、袖壁のある古い家の前を通り、緩やかに曲がっていく中山道。途中の境川では白鷺が踊ってくれました。
やがて見えてくる神社は「手力雄神社(てじからおじんじゃ)」です。旧名は「鄙守神社」。時節柄、紅葉が鮮やかです。天の岩戸開きに関連する「天手力雄命(アメノタジカラオ」が祀られています。この神社で行われる春の火祭り(雨乞い神事)は、降り注ぐ火の中に神輿が入っていく勇壮なもの。県の無形民俗文化財になっています。中山道を進んでいく右側に大きな鳥居がありますが、これも手力雄神社の鳥居。二の鳥居。一の鳥居は美濃赤坂にあったそうです。鳥居の脇に「左木曽路」の道標。そして赤い鳥居。三の鳥居です。
道路をよく見ると要所要所が赤い色で示されています。中山道を歩く人への行政の心配り。今流の道標ですね。リュックを背に中山道歩きを楽しむ人と時々追いつ追われつをします。これも今流の楽しみです。
中山道時代には手力雄神社からこの先の浄慶寺までの間は立場や茶屋、履き物屋、菓子屋などがあってにぎわっていたそうです。門前のにぎやかさのようなものかと想像しながら通過します。
岐阜信金の一角に説明板。切通という地名由来の解説です。滞留水を境川に落としていたのでこの辺一帯を切通というそうです。少し先に陣屋跡碑があります。案内に添って右に入ります。安藤氏は陸奥の国、磐城(いわき)平において飛び地になるこの美濃国の切通周辺を治めるためにここに陣屋を置いた、と説明にあります。67年の間治められたそうですが、明治期に廃藩置県になり笠松県に統一されたとあります。一節によると「長森城」が有った場所でもあるそうですが、石に刻んだ説明文の「ところで」と続く話し言葉のような文字がなんだかおかしかったです。昭和30年、市の史蹟に指定されています。
伊豆神社の脇に馬頭観音様。伊豆神社の説明。
『当神社の創立年代は不詳であるが、御祭神は大山祗神の娘石長姫命で生命は岩の如くゆるぎないようにと健康長壽をつかさどる神であり、全国主要神社でこの神を主祭神とする神社は皆無である。また天手力雄命(手力雄神社の御祭神)が男の荒神であり、この神をおいさめするため往時の長森細畑字石長あたりに鎮座されていたのを水害等のため当地に遷されたと伝えられている』。
左手に「御成道」の標柱。1600(慶長5)年の関ケ原合戦の際、徳川家康が通った往時を偲び「岐阜お成り」と称して、歴代の尾張藩藩主が岐阜城に行くための道。
この辺りは旧家が続いています。母屋にかかる唐破風屋根付で「明治水」の看板が目を引きます。登録商標の右下、よく見ないと解りませんが、ほそばた印と読めるようです。この先に細畑の一里塚がありますからこの辺りの土地の名前だと思うのですが、登録商標の名称なのかも知れません。気になったので東京に帰ってから調べたところ明治期に東京日本橋区にある「明治水:発売元:円城半右衞門」発売元とありました。この時期は液体目薬が出始めた時期で、全国的にも××水、何々水がたくさん出ていたようです。
なるほど目薬!それにしても立派な看板。看板歴としては100年くらいでしょうか。そんなことを考えながら細畑の一里塚に到着しました。
一里塚は江戸時代の五街道に、一里である3.9キロ事に塚を作って榎などを植えて旅程の目安にしたものです。街道の両側に対であるのが普通ですが、現在まで対で残っているのは珍しいことです。この細畑の一里塚は江戸から105里の場所。人足、馬、駕籠を貸す際の賃料の目安にもなった一里塚。女性の旅人はこの一里塚を1日で8〜9進んでいったのだそうですから、健脚だったのですね。このあたりの地名は長森細畑。長森城の名前が残っています。
その先は伊勢道追分と延命地蔵堂です。領下往還南の信号のもとに立派な長屋門。しばし見とれました。
4,加納宿に入る(茶所駅→森邸→鏡岩力士碑→東の番所跡→高札場)
加納宿に入ってきました。名鉄「茶所(ちゃじょ)」駅の手前右手にあるのは森邸。重要建造物ですが黒塀があって中は見られません。高札場が有った場所でもあります。少し行くと鏡岩の碑があります。鏡岩は力士。素行が悪かったのですが、改心をして、等身大の木像をつくり(この木像の名前が<ぶたれ坊>)、旅人に叩いてもらうことによって罪滅ぼしをした、と説明板にあります。
道標には「鮎鮨街道」とあります。長良川で獲れた鮎のなれ鮨を尾張藩が将軍家に献上するために岐阜問屋から笠松問屋まで届けるための主要路であったことを示すものです。この先の東福寺の辺りに問屋場(参勤交代における人足や馬の補充や飛脚・荷物の引き継ぎやその料金を収集する場所。役人が詰めていた)があり、そこが鮎のなれ鮨の継ぎ立て所でもあり、御用提灯も許されていたということですから、すごいですね。
駐車場の一角に「谷汲道標」。ぽっこりと丸みのある道標。1885(明治18)年建立とあります。明治になっても石の道標が必要だったの?と瞬間に思いましたが、東京と横浜の間の鉄道敷設が決定したのが明治2年の事ですから、地方の加納宿では、明治18年に新たに道標の石を設置するくらい、旅はまだまだ歩くことだったのだなぁ、……と思いながら道標を通過します。
宿の入り口らしく街道が角、角と曲がっていきます。
岐阜県といえば岐阜城が一番!と言えそうですが、戦国時代にあった山城の岐阜城は江戸時代に入った時にはなく、岐阜ではこの加納宿を控える加納城が中心地であった、と先の鏡岩の碑のある横の団子屋の壁の新聞に掲載されていました。
「東の番所跡」を通ります。一帯は住宅地で宿の面影はほとんどありませんが、曲がりくねった道の上で想像しながら歩くのも悪くない気分です。加納宿は岐阜街道とも交差しているので、南の番所、北の番所もあったそうです。
善徳寺、専福寺(専福寺文書……織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制礼状の三通が「専福寺文書」として岐阜市重要文化財指定を受けています)を過ぎて、鮎鮨も継ぎ立てられた問屋跡を過ぎて、道がまた角と曲がります。
加納城への道案内が目に付くようになりました。加納城大手門前清水川沿い、という場所のようです。加納宿最大の高札場があった、という標識が出ています。この先をもう一度角度をつけて(笑)右へ曲がります。旧加納町役場跡という大正末期に建てられた国の文化財があるはずなのですが、空き地になっていました(老朽化による撤去)。残念!
5,二文字屋→加納城址跡→当分本陣跡→本陣跡→脇本陣跡
左側に二文字屋が見えてきました。にもんじ屋と呼ばれる1620(元和6)年創業の旅籠です。中山道時代は御勅使、大名高家の御飛脚使宿だった料理店でしたが、現在はうなぎを主とした割烹料理屋さん。ここには宿泊した左甚五郎が彫った月夜に河原で餅をつくウサギが欄間にあるそうですが、この旅籠が火事になったときにこの欄間の河原から水が噴き出して火事を止めたと……表の標識にあります。で、ウサギの欄間は残っているのでしょうか、と、それは書いてありません。う〜ん。商売の集客には何かとPRが必要なのは、今も昔も変わらないということでしょうか。
これより先に進みますと、加納城址から遠ざかってしまいますので、少し戻って加納城跡に行きます。
徳川家康が関ヶ原の戦いの後、岐阜城を廃城にして、礎石や楼閣を移築して1601(慶長6)年に加納城を再建します。そして、家康の長女亀姫の女婿である奥平信昌に与えます。
本丸北面の石垣がきれいに残っています。算木積みという石垣でこれほどきれいに残っている石垣はなく、遺構としても優れているそうです。他は残念ながら明治維新で取り壊されて現在では石垣と土塁だけが残っている状態です。
先ほど通ってきた御鮨街道は本来の名前は岐阜街道で、加納宿の中心辺りで中山道と交差しています。殿様もいる城下町でもあり、人や物流の重要な地でもあった加納宿はけっこうな賑わいであったでしょうね。城下町には武家屋敷もあったそうですが、城は明治維新でこわされ、その他の物は戦災でほとんどが焼けてしまったという加納宿。それゆえ、道筋だけが忠実に残っている宿ともいわれています。
※加納城の役目は築城当時は西国大名を押さえる拠点になっていましたが、徳川幕府の全国的支配が安定しはじめる大阪の役(1615年頃)以後は、城下町としてよりも、交通の要所としての宿場町として繁栄していったようです。
中山道に戻って「当分本陣跡」。この言い表し方はちょっと面白いです。従来ですと当分家が本陣を務めていた跡地、と読めますが、この場合は「当分の間」「本陣として」「利用された」というつまり予備本陣みたいなところ。通行人増大で本陣が満員で使えないときに、宿の有力者の家を本陣として使用した、という意味です。本陣跡(和宮様が宿泊された際の歌が石碑になっています。松波家)、西問屋場跡(松波家)、脇本陣跡(森孫作家)、もう一つの脇本陣跡(小林家)と続いていきますが、お住まいの方とのお名前も違うようで、いずれも石の標柱のみが残っている状態です。
6,西方寺→妙明寺→阿賀多神社→加納の一里塚跡→医王寺→多羅野八幡宮
西方寺の前を通ります。川端康成の「篝火」に登場するお寺だそうです。続いて鏡岩の碑にあった「ぶたれ坊」が鬼子母神堂に安置されているという妙明寺。そして程なく西の番所です。阿賀多神社を経て加納の一里塚跡に出ます。江戸の日本橋より106里目にあたります。
この後、体調不良により一年の間、中山道を訪れる事ができませんでしたが、2018年1月より再開しました。
加納宿の残りの一里塚跡より撮影を開始するために、東京を6時30分ののぞみで出発しました。
岐阜駅到着。駅前には黄金の織田信長像。東京には多分無い感覚。宿泊ホテルで自転車を借りて出発です。JR東海道本線のガードをくぐって医王寺に。馬頭観音様は立派なお堂に入れられていました。説明書きより「賽銭」を請う案内の方が大きくってちょっと失笑。
街道に戻り神明神社を過ぎて「鹿島町8西」の交差点の手前にだらり餅の手書きの説明板がありました。それによると、この辺りは家もなく背丈ほどの笹が生い茂っていて、盗賊が潜み、おいはぎが出没したことから、この先にある多羅野神社は「盗人の宮」と呼ばれているくらいだったそうです。
また、多羅里は加納宿と次の河渡宿の真ん中辺りで、旅人が丁度休憩する場所であり、「松屋」という茶屋の「だらり餅」というあんころ餅が名物として旅人の間で知られていて、「行こうか河渡へ 帰ろうか加納へ ここが思案の だらり餅」と謡われた程の繁盛だったそうです。かなり繁盛した「松屋」は向かい側の四階建てのマンションの位置、と書かれてありました。
多羅里という地名でだらり餅ですが、この先のだらり餅で有名な(立て場でもあったそうですが)多羅野神社は「里」が「野」に変わって、だらり神社と呼ぶそうです。「里」と「野」似て無くもない字ですが……。信号の脇にその多羅野(だらり)神社があります。この先鏡島大橋を渡っていくと河渡宿ですので加納宿をここで終了します。
June 10 ,2016 瀧山幸伸 source movie
西から東へ
加納城跡
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