JAPAN GEOGRAPHIC

岐阜県瑞浪市 細久手 

Hosokute,Mizunami City,Gifu

Map大くてから細久手

Map細久手から御嵩

Category
Rating
Comment
  General
 
小さな中山道宿場に今でも残る旅籠大黒屋。
  Nature
 
 
  Water
 
 
  Flower
 
 
  Culture
 
 
  Facility
 
  Food
 


Oct.26,2021 柚原君子

中山道 第48 細久手宿


概要

前宿の大湫の『湫』同様に細久手の『久手』も漢字こそ違え水の部分を示し、低湿地帯を表す時に使う漢字です。大湫が標高510メートルで細久手は430メートル。湿地帯を示すように石畳みで旅人の足元を保護したことの多い区間でもあります。
大井宿を過ぎて大湫、細久手、御嶽宿までは中山道で最も鉄道や国道から離れている地帯で、ほぼ山の中で小さな峠をいくつも上り下りしてたどっていく道中です。
現在でも大井宿の外れには「この先は食事処も何もありません。山道が30㎞あまりも続いていくので、計画を立てて進んで下さい」旨の手書きの木札が立っているほどです。

細久手宿辺りの村は安土桃山時代の1595(文禄4)年に日吉愛宕神社が村の鎮守として勧請されていることから中山道宿駅として開設以前にも集落があったと見られています。

大湫宿と御嶽宿の間があまりにも長かったため、両宿の人馬ではまかないきれず大湫宿開設より遅れること6年の1606(慶長11)年、中山道を整備している大久保長安(徳川家に仕えた武士であり政治家)が、当時の村の長であった国枝与左衛門に命じて1606(慶長12)年に七軒家と呼ばれる仮宿を開設させます。しかし大火で焼失。改めて1610(慶長12)年に再建を兼ねて正式な細久手宿としての町割が進んで行った、という経緯があります。

江戸時代の街道の宿は宿駅とも言われ、旅人は勿論のことですが、幕府の重要な郵便物や品物などを宿で中継しながら届けるという役目もあります。
それらの文書や荷物を次の宿まで運ぶその流通の管理・采配をするのが『問屋場』で、実際に動く人や馬は『伝馬役』(てんまやく)とよばれて、街道沿いに土地を持つものが無償で担うことになっています。
宿内だけで足りないときは近隣の村に助けを求め(助郷)、求められた助郷の人々は馬を引き荷物の運搬をしなければなりませんが、この場合は街道沿いに土地を持つ人々が駄賃を払っていたようです。

土地の大きさによって人馬を提供する荷役の規模もそれぞれあり、細久手宿は小さい宿で、後には二十五人二十五疋と決められますが、宿駅としての経営は難しかったようで直轄である尾張藩や幕府に、しばし下付金の願い出をしています。農作地もあまりない細久手宿は寛政年間に編纂された『濃川徇行記』によると「細久手は(宿高)無高 なれば第一往来の助力を以って渡世とす」と記されていて、小さい宿の割には旅籠が多く、当初は旅人からの収入を期待せざるをえない貧しい宿であった事がうかがえます。

遊行の旅人が増える江戸時代後期には、川留めの多い東海道を嫌い、多少の上り下りのある中山道のほうが確実に旅程が立てられるために善光寺参りや、讃岐の金比羅詣に賑わったこともあるそうです。
現在は東海自然歩道として良く整備されている街道筋です。迷うような所は一箇所もありませんし、十三峠などの名称はありますが、それほど恐れるような上り下りではなくハイキングコースとも言えるのですが、御嶽宿にぬけるまでの山道がただただ長く、歩けきるだろうか、と危惧してしまいます。

現在の旅人は、大井宿のはずれから「大湫宿」「細久手宿」を健脚であれば一息に行く人もいますが、そうでない場合はこの区間に唯一有る細久手宿の「大黒屋さん」に宿泊されるようです。宿内は枡形も何もないほぼ一直線の3町45間・410mの細い街道が一本通っているのみです。
天保14(1834)年の中山道宿概帳によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋24軒、家屋65軒。家数に対して旅籠の多さが旅人の往来で稼いでいた細久手宿を表しています。

1,東京~瑞浪駅~タクシー~細久手宿

先回は大湫宿の国際犬訓練所の先の竹藪の中に標柱が立つだけの『一つ家茶屋跡』で終了しています。トンボ帰りでその先を歩く時間が無く帰京。
本日は細久手宿メインで日帰りのこともあり、また健脚でない身ではこの長い区間を歩く自信が無く、途中区間2ヶ所をタクシー通過の予定で来ています。

東京発7時半の新幹線で出発。名古屋駅より中央本線で瑞浪駅下車。駅前のタクシー乗車で細久手宿の東の入り口まで。
その間の飛ばしたところは
『天神辻の地蔵尊』
『焼坂の馬頭様』
『弁財天の池』
『女男松の碑』
『奥之田の一里塚(瑞浪の一里塚とも言い両塚有り)』
『三国見晴台と馬頭様』です。

         

2,細久手バス停~天王様~高札場跡~庚申堂


細久手バス停より歩き始めます。天王様と日吉小学校跡碑があります。
日吉はかつて細久手宿の他11カ村を総称する郷の名前でしたが明治時代になって近隣の半原村を合わせて土岐郡日吉村となりさらに昭和に入り付近の町村と合併して瑞浪市日吉町となっています。
日吉小学校は昭和58年に閉校。

天王様の説明の手書きの看板。よく読めませんが「京都八坂神社の牛頭天王の信仰に始まる。牛頭天王は別名スサノオノミコト。本来は疫病の大神細久手宿では7月16日が御霊会であった。この季節は疫病や稲作病虫害の出やすい時であるため祭りをして山車や囃子で信仰を深めた」とあるようです(細久手宿西の出口に有る津島神社の説明の様子)。

少し行くと右側に『茶屋ヶ根』の看板。「旅人の休憩所であった。細久手宿の東の入り口で展望の利く場所であった。広重の版画がスケッチされた場所。北方に妙見山、東に霊峰御嶽山南にアルプス連峰、西に名古屋港の海が輝く」とあります。今は広い空き地です。

街道を下っていくと右手に高札場跡と庚申堂の案内と登っていく坂道があります。村の鬼門封じと厄除けの庚申堂。また旅人たちが休んだ庚申堂でもあります。

ここの説明版もよく読めませんが「宿内はもちろん、近郷や旅人からも細久手のこうしんさまと親しまれたお堂でここからは宿内が一望されます。境内には石造物が多く残っており300年あまり前のものもあって、当時の賑わいぶりが偲ばれます」とあるようです。

しかし、看板が色あせて読めないことが物語っているように、街道筋の保存にあまり力が入れられていない気がします。石仏群もありますが、周囲全体が荒れている感じです。
ほぼ一本道に近い小さな細久手宿ですが、庚申堂の見晴らしの良いところから眺めても人も生活の音も感じられません。
御堂内にカメラを向けてみましたら立像と座像が映し出されました。庚申堂に上がってくる道に掲示板があってそこには庚申堂についての説明があり、その中に出ていた「阿弥陀如来像」と「青面金剛像(庚申像)」のようです。いづれも棟札によると1785年~1805年の間のもの。200年以上も前のものです。堂内には荷物が乱雑に置かれていますし、お供えのお茶碗も傾いています。歴史があるのにもったいない。もうちょっと大切にされればいいのに、と思いながら拝みました。
庚申堂の裏の石窟には下駄を履いた像が。修験者とのこと。確かに下駄を履かれている図をよく見ます。山の斜面に石仏石塔群も今にも傾きそう。

                                        

3,旅籠大黒屋

庚申堂を降りてきて道が緩やかに左に曲がっていく右側に「大黒屋旅館」。酒井吉右衛門家(国の登録有形文化財)。江戸時代には「問屋」職。概要にも記しましたが、問屋場は土地の実力者が行う職で、また相当な財力が無ければできない職を代々行ってきた家柄です。問屋職の傍ら旅籠を経営していますが、諸大名の中では最高の格式を有した尾張徳川家が最高の格式であるが故に他の大名との相宿を嫌い、本陣には宿泊せずにこの大黒屋を常宿としています。そのために、問屋、旅籠でありながら格式を重んじる造りで準本陣の家構えになっています。

私達は宿泊をしませんでしたので、現当主が表に出ていらしていたので立ち話はさせていただきましたが、内覧したいとは言えず、上がり框など玄関先だけ写真を撮らせていただきました。館内には当時のままの上段の間もあるそうです。向かい側の広場からは卯建もあがる立派な広大な大黒屋の全景がみられます。

大黒屋は街道に面して軒廂付切妻造の2階建。本卯建の白さがまぶしい。最近になって「安政6年(1859)12月6日清七 米9合」の墨書銘が発見され、1858(安政5)年に再建された家であることが確証されたそうです。屋内の造りも江戸後期の見事な数寄屋造り。多少はがれ始めてはいるそうですが意匠も見応えのあるものだそうで、特に天井の高さは高貴な人々を泊める特殊な工夫となっているそうです。

大黒屋旅館の前は公民館。その入口に細久手の提灯まつりの絵。
山の中であるのに船の形の上に提灯を掲げているのは少し不思議ですが、元は津島神社の祭礼で津島本社は川に船を浮かべての夜祭りから来ているとのことで、舟形と夜の提灯で細久手宿のメイン通りを引き回すのだそうです。

                        

4,本陣~脇本陣


本陣は跡碑のみ。脇本陣は地元の話ではこの辺りだったろう、という竹藪だけで跡碑はありません。瑞浪市の観光資料によると隣接する御嵩町の御嵩城城主が小栗氏であったことから戦国時代、織田信長の時代を経て御嵩城が廃城になった経緯があり、その時に細久手に帰農したことが始まりであったのでは?と推察されています。
土着した小栗家一族が本陣、脇本陣を努めた事は帰農土着とはいえ、その位からは納得のいくところです。
現在跡碑の立つ家も本陣の一部ですが間口はこの3倍はあったそうで、桁行22間で約40mあり、部屋数は23、別棟添屋3棟あり建坪は約123坪の規模と記録されていますが、小栗家の方は明治時代に東京に転居(中山道ぎふ17宿歩き事務局のパンフレットに明記)されています。

竹藪でしか残っていない脇本陣は本陣より小さく、間口十間(約18m)、奥行三間半(約6.5m)の建坪35坪、部屋数7、別棟一つ、門構えはなしと記録にあります。
脇本陣のあった竹藪のならびに「日吉屋」という細久手では唯一残っている町屋がある、そうですが、案内札はなく、それでもそれらしく構えた商家が有ったので、写真を一枚撮りました。

              

5,細久手宿の町割図と南蔵院跡~日吉神社~津島神社


細久手宿の詳しい案内がないなぁ、と思っていたら、南蔵院跡の手前の家の塀に詳しく出ていました。しばしたたずんで見入りました。遺構がほとんど無い細久手宿ですがこの宿場図は面白かったです。例えば「大黒屋……尾州家本陣大黒屋半右衞門」、「浅井儀右衛門……庄屋役、問屋場」、「又四郎 後家」←夫に先立たれた女性が住んでいるということ?本陣に至っては奥行きがすごくある家の俯瞰図で「公儀御本陣 襲名小栗八郎右衛門 養子 小栗弁三右衞門」、細久手宿が成立する以前の仮宿を命じられて作ることになった人物、国枝与左衛門の子孫でしょうか「国枝善兵衛 宿長」の名も見られます。
江戸から入ってくる細久手宿東口に当たるところには「雲助小屋」と書かれています。雲助とは街道で荷物の運搬や駕を担ぐ仕事をしていて、大体は渡り者の無宿が多く、客を取ろうと蜘蛛のように巣を張って待ち受けているところから雲助と呼ばれて余りようイメージはありませんが、雲助たちが待つ場所もちゃんと明記されていて見ていてほっこりする図でした。

続いて『南蔵院』。三度の大火で二度も焼け残ったとある南蔵院ですが、そのあと無くなってしまったのか、今は「南蔵院跡碑」が立つのみです。南蔵院は昔修験者が住んでいて日吉愛宕神社や庚申堂をお守りして加持祈祷を生業としていた、とあります。庚申堂の後ろの石窟の中の像も下駄を履いていた珍しい姿ですので、この南蔵院の修験者だったのでしょうね。

宿の西口にあるのが日吉神社(愛宕神社)。細久手宿開設以前の仮宿を開いた国枝重円が1595(文禄4)年に創建した神社で、宿の守護神
街道を御嵩宿の方に向かうとすぐの山肌に『穴観音』。一度のお参りで9万9千日分をおがんだことになるので別名「九万九千日観音」。
その先には小さな社。ご本尊様は御簾に隠れて見えませんが、『津島神社』。別名『天王様』、宿の東の入口にあった良く読めなかった説明版の「天王様」は本来この津島神社の横にあったのではと思います。
由来は尾張津島神社、京都八坂神社、江戸天王社の分詞(ぶんし)で牛頭(ごず)天王社、津島様と呼ばれ、防疫の大神様。
昔は医療が発達していませんでしたので流行病(疫病)で命を落とす人々も多くあり、村にその悪が入ってこないように、注連縄を飾って結界としたりお社や庚申様を置いたりしていたのですね。村の外れの鎮守様です。過ぎると、次の宿へと続きます。
津島神社の先の三叉路で、道路脇ですが持参した昼食を。津島神社を過ぎるとだんだんに山の中に入り尾根道を進んでいくと案内にありましたので、健脚でなくなった私は津橋までタクシーで行くことにします。予約してあったタクシーで、次の御嵩宿の津橋に向かいます。

                                            


細久手と大くて

この間の街道は中山道の姿を良くとどめており、尾根沿いの道はハイキングに最適。

May.2005 瀧山幸伸 source movie

細くて大黒屋

   

奥之田一里塚

   

弁財天の池

       

琵琶峠

         


細久手と大くて

Aug.2003 瀧山幸伸 source movie

   

 

近隣の村

 

   All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中