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岐阜県各務原市 鵜沼宿

Unuma shuku,Kagamihara city,Gufu

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Oct.2017 柚原君子

中山道第52宿「鵜沼宿」

概要

中山道の前身は東山道。東と西を結ぶ重要な街道です。戦国時代には宿駅が街道沿いに設けられていますが、1600(慶長5)年に関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が本格的な整備に手をつけ、幕府直轄の五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州道中、日光街道)の一つとなります。当初は日本国土の中間の山の道という意味で中仙道と記されますが、1716年に徳川幕府により中山道と改名されます。五街道の中では最も長い街道で69の宿場を持ち、岐阜県にはそのうちの15の宿があり、鵜沼宿は江戸から数えて52番目の宿場となります。

鵜沼宿の一つ前の宿である太田宿(JR高山線美濃太田駅)から鵜沼宿に向かうには、途中で坂祝(さかほぎ)駅近辺を通過していきます。近辺の地名になっている土田(どた)氏、土岐氏、多治見氏、猿啄城(後の勝山城)など戦国時代の合戦のあとが多いのですが、現在は平地になっているところがほとんどです。岩屋観音、うとう峠(長坂)などを過ぎる辺りから鵜沼宿に入ります。この間の坂祝町から鵜沼宿入口までを歩きたいのですが、まとまった時間がとれないでいます。

鵜沼宿は江戸時代には尾張藩の領地でした。うとう峠が開削されたあとは街道が変更になり、宿場の真ん中を流れる大安寺川を境にして東町と西町に分かれていますが、東山道であった1651(慶安4)年以前はもっと木曽川べりにあった古市場、南町を通る街道だったようです。

1843(天保14)年の中山道宿村大概帳によりますと、宿内家数は68軒、内訳は本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠25軒、宿内人口246人となっています。しかし、1891(明治24)年の濃尾大地震で壊滅的な被害を受けて本陣、脇本陣も倒壊してしまいます。

鵜沼宿のある鵜沼町は1963(昭和38)年に稲葉郡那加町、稲羽町、蘇原町などと合併して各務原(かがみはら)市となります。ちなみにJR高山線は「各務ヶ原」。徒歩3分ほど南にある名鉄各務原線は「名電各務原」という表記で、いずれも「かがみがはら」と発音して、正式な市の名称と一致しますが、その他に「かかみはら」「かがみはら」「かかみがはら」などの呼称も残っているややこしい名称の地です。

かがみがはらの名称の由来としては村国真墨田神社に鏡作部の祖神である天糠戸命(アメノヌカドノミコト)が祀られていることなどから、古代に銅鏡などを作る特殊技能集団である鏡作部(カガミツクリベ)(律令時代には「各牟」←発音はカカム)がいたことからきていると『各務村史』にあります。

鵜沼宿一帯は広大な台地で木曽川に面して水はけはきわめて良く、稲作には適さない土地で、守口漬けの大根や人参の産地となっています。近年では広大な台地を利用して軍事基地や演習場があります。

また、周辺は名古屋、岐阜のベッドタウンとしても開かれていて、年々住宅化が進んでいます。そのため各務原市では景観を保ち、宿を観光の目玉とするために、町屋館(旧武藤家住宅)の修復、脇本陣の復元、景観重要建造物(古い町並みや酒蔵)の保存改修、電線を地下に埋めるなどの景観整備を平成23年までに終了させています。

鵜沼地域の木曽川の岸から、ジュラ紀の放散虫が豊富に出土しています。中には"Unuma"と命名された放散虫もあることも特筆すべきです。

1,東の見附跡→赤坂の地蔵堂→復元高札場→赤坂神社

一つ前の「太田宿」は「深田石像庚申塔」で終了しています。次の宿である「鵜沼宿」の間には岩屋観音堂やうとう峠などがあるのですが、時間がとれなくて歩けませんでした。機会があったら歩いてみたいと思います。本日は名鉄線「新鵜沼駅」から「東の見附跡」を目指します。

見附とは通行人を監視(見張る)する場所のことで、宿の出入り口の両方にあります。京方面の見附、江戸方面の見附となりますが、東の見附、西の見附という名称も多いようです。鵜沼宿も東と西の見附跡があります。具体的な構造は分っていませんが、台状に土手を築いたり石垣を巡らしたりしたそうです。町中の見附は木戸番がそれに当たると思いますが、人が番人を兼ねて住んでいたようですが、この東の見附は人が住まわれていたのでしょうか。それともお城の見附のように人が時間制で立っていたのでしょうか。ともあれここからが鵜沼宿の始まりです。

太田宿から入ってくるこの道はかなり鋭角に曲がっています。宿へ不法侵入者の防備のためです。道角にある洞は「赤坂の地蔵堂」。1763(寶暦13)年、女人講の人たちにより建立されています。道標を兼ねているようで「左ハ江戸せんこうしみち(善光寺道)、右はさいしょみち(在所道)」と刻まれています。現在地より少し西側にあったのですが遺構は現存していないと、案内板に記されています。

少し歩いて「高札場跡」。高札場とは法令や禁令を書いた掲示板のようなもので、今でいえば政府や自治体や警察署からのお達しのようなものです。お達しですから宿場を通過する人には定めの事項を確認しなければ旅を続けることはできませんので、宿場ごとに高札場はあります。鵜沼東町ふれあいセンターの建物の前に高札場跡の案内板のみがあります。実際はこの場所にあったそうですが、現在は鵜沼宿の再生整備で宿の中央の方に移動して復元されています。

高札場のとなりに赤坂神社。門前の常夜燈は1756(寶暦6)年。赤坂地蔵堂より6年前に建てられたもの。神社も立派です。信号の分かれ道には尾州領傍示石。常夜燈。移動されて復元された高札場。多くの「定」と書かれたおふれの板が掲げられています。

                                    

2、町屋館(旧武藤家)→桜井本陣跡→旧大垣城鉄門→菊川酒造→脇本陣

大安寺橋を渡ると宿の中心らしい町並みとなります。ひときわ目を引く本陣かと思える建物は鵜沼宿町屋館(旧武藤家。江戸時代は絹屋と呼ばれた旅籠。明治の頃には郵便局)です。当時の家屋は濃尾地震で倒壊しています。現在の建物は1891(明治24)年のものですが、それでも江戸時代の旅籠の形式がそのまま表されている貴重な建造物となっています。町屋の中は見学無料。順路に沿って見学します。裏には蔵と庭があります。伊能忠敬も測量時には宿泊したそうです。

その隣は本陣。遺構はなく桜井本陣跡という案内板が立っているのみです。桜井家は庄屋、問屋、本陣と三役をこなした家。

向かい側には立派な鉄門が見えます。「旧大垣城鉄門(くろがねもん)」です。各務原市が指定する重要文化財。様式は高麗門。どうしてここに?ということですが、明治9年に各務原市の安積家に払い下げられて一時は安積門と呼ばれていたそうですが、市に寄贈されて宿を観光の目玉とするために現在の所に飾られているという経緯、と案内板にあります。

ちなみにこの門と同じ様式で現存するのは名古屋城表二之門と大阪城大手門とのこと。鉄砲の弾除けの鉄板で黒光りしている門をあとにして進むと、「菊川酒造」の本蔵。となりにあるのは豆蔵。創業は1871(明治4)年。登録有形文化財になっています。

脇本陣に向かいます(岐阜県各務原市鵜沼西町1-137)。実はビックリするほどの新築物件です(笑)。観光の目玉とするために平成22年に完成したばかり。木の香りもする脇本陣です。坂井家が務めていた脇本陣は明治の頃には現存していましたが濃尾大地震で倒壊してしまいます。現在の新築物件は当時の資料や江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに復元されたものです。

それにしてもあまりに明るくアッケラカンとした脇本陣。まるで新築の親戚の家に遊びに来た雰囲気。松尾芭蕉が三度も滞在した歴史や、それなりにそのほかの歴史的資料もそろってはいるのですが……行政、力いれすぎ!もう少し木材の色を抑えられなかったものかと……少し残念。

                                                                                                   

3、二宮神社→坂井家住宅(丸一屋)→梅田吉道家住宅(茗荷屋→「梅田昭二家住宅」→「安田家住宅」→「丹羽家住宅」→西の見附→衣裳塚古墳→津島神社

脇本陣を後にすぐおとなりの二宮神社に。

鳥居が2つあってかなりの階段を上がるのですが立ち寄ることにします。円墳の上にある神社。横穴式石室もあります。西暦500年から600年頃のものとのこと。どなたが眠られていたのでしょうか。高台になりますのでここから中山道が見下ろせます。菊川酒造煙突の右側に市指定重要文化財・および登録有形文化財になっている旧家が連なって見えています。しばし良い眺めに浸った後に街道に戻ります。

坂井家住宅(丸一屋)。切り妻造りの主屋は明治27年の建物。「打物仕入所」という看板がぶら下がって揺れていました。次は梅田吉道家住宅(茗荷屋という旅籠屋さん)。この建物は160年前のもので明治の濃尾地震にも耐えたとあります。おとなりは「梅田昭二家住宅」。主屋は明治元年の建物。格子がとてもきれいです。切り妻造り、土蔵や門、座敷を複合する、とあります。最後は「安田家住宅」。若竹屋という旅籠屋さんだったそうです。四軒の中では一番新しく昭和5年の建築物。四軒ともに公開されていませんのでちょっと残念です。

小さな水路を渡ると右側に「丹羽家住宅」。大阪屋という旅籠だったとのことです。この先家並みが少し途切れます。石仏を見ながら葭池(よしいけ)に。その前にあるのは「西の見附」鵜沼宿の木戸跡、京都方面から来る旅人は入り口になります。この先にある空安寺で京方面から来た参勤交代の行列は装いを改めて格式高く鵜沼宿に入ってきた、と案内板に書かれています。

西の見附を過ぎて八木山弘法堂を過ぎると、右側に古墳があります。直径52メートルの県下最大の円墳の「衣裳塚古墳」(県指定史蹟)です。前方後円墳の可能性有り、出土物から年代を探ることはできない、と書かれています。少し歩いて「空安寺」。参勤交代の人々が宿場を格好良く通過するために着替えをした場所と想像されています。その先民家が続きます。鍾馗様が飾ってある家、蝋梅の黄色の花や柿の朱色に青い空が映えています。

名鉄「羽場駅」の近くまで来ているようです。右手に大きく津島神社。農村歌舞伎の舞台となった「皆楽座」(市指定重要有形民俗文化財)があります。回り舞台も奈落もある本格的な舞台だそうです。公演時は花道は別に設けられて観客は筵を敷いて座って観たそうです。濃尾地震で倒壊したので明治33年に再建された建物です。街道に戻り愛宕神社の常夜燈をみて鵜沼羽場町の交差点を過ぎて、おがせ町交差点脇の馬頭観音様に黙礼をして名鉄苧ヶ瀬駅にて、本日はひとまず終了します。

                                                                                                              

4、長楽寺→神明神社

鵜沼宿2日目スタートです。名鉄二十軒駅から国道を行きます。「昭和食堂」。映画の看板が数枚。力道山の写真、空手チョップ!嵐を呼ぶ男、おいらはドラマー?といっても今では何のことでしょうか、ですよね。しかし昭和を生きた人々には懐かしい映画の看板です。

国道ですので車の流れがすごいですが昔風の大きな養蚕農家も所々に見られます。ひたすら歩いて神明神社に。本格的舞台建築の拝殿で、村人たちが演劇を見たりして楽しんだそうですが、伊勢湾台風で倒壊。礎石だけが残ると三ツ池町の案内石がありました。「皆楽座」のようなものだったのでしょうか。

続いてみんなのお寺と書かれた「長楽寺」。三面六臂の馬頭観音様はきれいなお姿。この辺りは三ッ池新田という地名で鵜沼宿本陣桜井家の一族が開墾を行ったのだそうです。本堂の右側の石仏に掘られた文字も三池新田と読めます。明和という元号も。立場があるあたりでもあるそうですがその気配はありません。地蔵の祠、たわわに実った夏みかんなどを横目に先に急ぎます。

                                                 

5、六軒の一里塚跡(六軒茶屋立場跡)→竹林寺→神明神社→栄町秋葉神社

三柿野町の交差点を過ぎた先のYの字路を右に進みます。「六軒の一里塚跡」の標柱があります。江戸からは百三里目。一里塚の跡ですが六軒茶屋の立場跡でもあります。

江戸後期、勘定所に勤務していた御家人であり狂歌師でもある大田南畝(オオタナンボ)は大阪に出張して江戸に帰るにあたり、中山道を通って紀行文「壬戌紀行」(じんじゅつきこう)を残していますが、その中に六軒茶屋の前後を記したものがあります。

『此あたりより鵜沼までの間を各務野といふ。躑躅所々に花咲く。右に二本の松あり。三里四面ありといふ。更木新田の立場にいこふ。人家四五戸あり。あんころもち。木ちん。昼たき仕候などいへる書付を出せり。猶も野をわけゆけば松多し。六軒茶屋の村はわびしきさま也。一里塚をこえて左に芝山近くみゆ。藤波記に、のぎ山とていにしへ大福長者のありし。その庭とかや里人はいへりと書るは、此山をさせるなるべしとおもはる』

六軒茶屋付近の寂しさや、広々とした原野や茶屋があんころ餅を売ったり、宿泊やお昼の食事などができると書かれた紙がぶら下がっているなど、当時の旅路が想像できます。

現在は国道で車の流れがすごいです。南畝さんは狂歌師として今ならどのような歌を読まれたでしょうか……と思いつつ向かい側の「竹林寺」に。ビックリするほど大きな蘇鉄の実が有りました。これはすごい!(トオモウノハワタシダケデショウカ……)

次は「神明神社」。大きな神社です。馬頭観音があります。三面六臂。お顔はなんだかウルトラマンのようです。狛犬も躍動的。そして空には飛行機がかなりの音量とスピードで飛んでいきます。この辺りには航空自衛隊岐阜基地があるからなのですね。それにしても曲芸かと思われるような角度です。

しばらく街道を歩きます。名鉄六軒駅より次の駅各務ヶ原市役所前駅まで一駅分を歩きます。中山道から少し外れますが、各務原市役所前駅の裏手に中山道沿いから移転したもう一つ「神明神社」があるので訪ねます。

境内には「ねずみ小僧治郎吉の碑」が有ります。播隆上人の案内板も出ています。播隆上人は厳しい山岳修行に生きた人で、槍ヶ岳開山でも知られています。

奥の方には「ねずみ小僧治郎吉の碑」。ねずみ小僧治郎吉は義賊で大名屋敷に盗みに入って得たお金を貧しい人にあげる、という話しで有名です。また、長い間捕らえられなかったということを幸運の印として、お墓の石を少し削って持ち帰って幸運を呼び込むお守りに、というブームもあったようです。お墓は、両国の回向院・愛知県蒲郡市の委空寺、南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、当地の岐阜県各務原市等にあります。義賊に恩義を受けた人々が建てたと言われています。当地のお墓も、娘を悪人から救った物語があると、伝えられています。

公園の紅葉や川を見ながら街道に戻ります。門前町の交差点を過ぎて右側に「栄町秋葉神社」。ひっそりと小さい神社です。ここで鵜沼宿を終了とします。

                                                                    


June 10 ,2016 瀧山幸伸 source movie

西から東へ

                                                                                 

坂祝町

Sakahogi town

                           

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