岐阜県美濃市 美濃市街
Mino downtown,Mino city,Gifu
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うだつの商人町。古い建物を動態保存活用する新しい試み | |
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美濃市曽代、曽代地先、前野 美濃橋 重文 近代/産業・交通・土木 大正 大正5(1916) 鋼製補剛吊橋、橋長113.0m、幅員3.1m、コンクリート造アンカーレイジ2基を含む 20030530
Jun 11, 2022 瀧山幸伸
A camera
今井家
小坂家
美濃橋
B camera
September 23,2018 大野木康夫 source movie
美濃町重要伝統的建造物群保存地区
美濃は、金森長近の城下町建設にはじまり、江戸時代を通して商業都市として繁栄しました。
主屋妻面の卯建、多彩な格子やむしこ窓、正面下屋庇上に設けられた辻堂風もしくは箱型の火防神などの意匠や造形に特徴があります。
江戸時代初期以来の独特の目の字型の街路構成を保ち、歴史的景観を良く伝えています。
(国指定文化財等データベースより)
小坂酒造場の酒蔵
俵町、常盤町
常盤町、泉町
泉町、加治屋町
加治屋町、俵町
俵町
小坂家住宅(重要文化財)
所在地 岐阜県美濃市2267
安永2(1773)年の建築
桁行11.4m、梁間16.0m、二階建、切妻造段違、北面庇付、桟瓦葺
September 23,2018 大野木康夫 source movie
美濃橋
所在地 岐阜県美濃市曽代、同曽代地先、同前野
大正5(1916)年の建築
鋼製補剛吊橋、橋長113.0m、幅員3.1m、コンクリート造アンカーレイジ2基を含む
美濃橋は、美濃市街地の北部に切り立つ小倉山の西方を、長良川が湾曲して流れる地点に架かる吊橋である。
美濃橋は、増水時などに対応しうる交通手段の確保を望む美濃町と対岸の安曽野村の申請を受けて、岐阜県の補助事業において建設が進められたもので、大正4年8月に起工、翌年8月に竣工した(起工年月は開通式に際して発行された美濃橋渡橋式の案内状(以下、案内状)、竣工年月は大正5年8月18日発行の大阪朝日新聞による)。
建設には、岐阜県技師戸谷亥名蔵(明治21年帝国大学工科大学土木工学科卒)の他、岐阜県技手堀宇三郎(後、堀正義。明治42年名古屋高等工業学校土木科卒)、武儀郡吏員の玉井義雄、が関与したことが当時の新聞等から知られる。
建設後、美濃橋は長良川を横断する主要道路の一つとして機能したが、長良川に新美濃橋等の他橋梁が架設されていくのに伴い、次第に交通量を減らしていき、昭和40年代以降、歩行者用道路として利用されている。
美濃橋は、長良川に対してほぼ直角方向に架かる、橋長113m、支間116m、幅員3.1mの単径間補剛吊橋である。
両岸に据えられたアンカーレイジに、主塔から吊るされた主ケーブルを碇着し、岸縁に配された二基の主塔間全体にわたり、吊ケーブルが主ケーブルと横桁を連結すると共に横桁が補剛桁に接合する。
また、昭和58年及び平成11年に取り替えられている木製床版部分を除いて、建設当初の部材が今なお使用されている。
主塔は、高さ9.8m、鉄筋コンクリート造で、各塔頂部に鉄製の滑動支承を設け、基部は隅部を算木積風とした玉石積とする。
下面を楕円形アーチ状とした主塔横梁の壁面陸地側には橋名を彫出し、右岸側主塔に「みのはし」、左岸側主塔に「美濃橋」と記す。
主ケーブルは19本線6撚共心構造で、サグ比を15分の1とする。吊ケーブルは37本線6撚共心構造で、横桁との接続部分にターンバックルを連結する。
右岸側アンカーレイジは、側面を玉石張、頂部をモルタル洗出仕上げとしたコンクリート構造物に、引張調整用の鉄製ソケットと接続する7本のストランドロープを埋め込んだもので、右岸側主塔より北西方向に約43m離れた位置に築かれる。左岸側アンカーレイジは、穿たれた岩盤に主ケーブルを碇着したものとし、前述の案内状によると、小倉山に穿たれた隧道に主ケーブルを引入れて碇着する構造としており、内部にはコンクリートが充填されている。
補剛桁は、アングル材とT型鋼を鋲結したダブルワーレントラスで、主塔基部を橋台とし、三格間毎に上弦材と横桁を斜材で繋ぐ対傾構を設ける。補剛桁左岸側に付けられた銘板より、「製作名古屋鐵工所」及び「大正5年7月竣工」であることがわかる。
美濃橋は、わが国に現存する最古の近代吊橋として、橋梁建設史上価値が高い。また、近代吊橋の要素を構造躯体全体に備え、建設当時わが国で最大級の支間を実現した、大正期を代表する吊橋として重要である。
(国指定文化財等データベースより)
美濃橋は美濃市中心部の北、小倉山公園の北麓の長良川にかかっており、現在では人道橋となっています。
現在は修理中で、木製の床板は取り外されています。
美濃橋付近の長良川河原では多くの人がバーベキューをしており、大変賑やかでした。
日本の中心部または岐阜県の中心部に位置し、美濃和紙の産地として有名である。
「うだつのあがる町並み」として知られる市街地は1999(平成11)年5月13日に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された歴史的風致の街である。
案内
豊富で良質な地下水と良質な楮{コウゾ)が得られるこの地は、古代から良質の美濃紙の産地として1300年の伝統と技術が受け繋がれており、2014(平成26)年にユネスコ世界無形文化遺産に登録された。
主要な産地「槇谷」は牧渓郷とも呼ばれ、周囲を山塊にかこまれた平地の少ない農作に不向きな地であったが、、豊富な地下水に恵まれ、「津保草」と呼ばれた良質の楮が周辺に栽培されたこと、中世後期に、美濃藩守護土岐氏の産業振興策により、美濃和紙の生産が保護されて、主要産地に発展した。
牧谷(古くは牧渓郷といわれ、板取川の清流と豊富な地下水が流れる)
江戸時代の初め、「うだつの上がる町並み」は城下町であった。長良川の左岸の小倉山城の築城に合せて造られた城下町は、二筋の大通りを中核に明治時代から大正、昭和にかけて継続され、その中核が重要伝統的構造物保存地区として、守り伝えられている。
1606〜11(慶長11〜16)年の僅か6年間、城下町であった。
新たなまちづくりに取組んだ金森長近は、上有知(こうづち)を商業の中核とするため、美濃紙を礎に城下町を発展させた。湊の開港で水運の貢献もあった。
金森家断絶後、幕府直轄領、尾張藩領となり明治維新を迎え、城下町上有知、商業町上有知、美濃町へと変革した。
上有知は美濃紙により繁栄し、幕末から明治、大正、昭和初期に最盛期を迎えた。その象徴であるうたつの上がる町並みが今に引継がれている。
小倉山展望台からみるうだつ町並み
「うたつ」は元来火災の際の防火壁であった。城下町から商業町に発展する過程で、防火壁の機能と共に商人の権威の象徴としての意味を含むようになった。
鬼瓦、破風瓦、懸魚瓦、軒桟瓦で豪華に飾られたうだつは、江戸時代後期から1872(明治5)年に掛けてつくられ19棟が今も残っている。
同じ家でも二種類かかる(小坂家)
うだつの上がる町並みは江戸から明治にかけて度々大火に見舞われた。屋根神様と呼ばれる火伏せの神様である秋葉様や津島様を祀り、安泰を願った。防火への意識が高い。
町並みの商家の多くは、時代の変革と供に業種を変えて営まれ、今も活気ある商家、商店が集まり、残っている。
うだつの街並み通り
岐阜県美濃市加治屋町1959−1
美濃市は江戸時代の商人の町、町並みには、江戸〜明治時代にかけてつくられた商家が軒を連ね、古いたたずまいを見せている。
国の伝統的建造物群保存地区に選定されたうだつの町並みには「うだつ」が多く残っている。
商家のなかでも、国重文指定になっている造り酒屋の小坂家住宅や市指定文化財の旧今井家住宅は庭や蔵などに往時の繁栄を今に伝えている。
最寄駅—長良川鉄道美濃駅から徒歩で約10分、番屋2号館を過ぎると「うだつの通り」である。
案内
城下町の町割りは「一番、二番割り」として二筋の大通りからなった。
東西およそ400mの通りが並行して二本並び、間を垂直に路地がつなぐ形状から「目の字通り」とも呼ばれ、魚屋町、俵町など、当時の賑わいを偲ばせる名が今も残っている。
うだつの残る商家に注目が集まるが、うだつの無い一般商家・町家も多く残り町並み形成に応じている。
今も残されている。この通りに沿って散策する。
二番町通り略図
通りの景観
特長のある住宅・他を並べる
喜楽精肉店は60年続いている店。まちの駅「にわか茶屋」や「鈴屋(呉服)」、「山本屋」−俵町
山田家ギャラリー−俵町
1721(享保6)年に開業した町医者の住まいで、現在はギャラリー
今廣酒販店−相生町
江戸時代末に建てられた切妻造の建物で、1901(明治34)年から「今廣商店」を営む。入口の大戸口前に馬繋ぎ石が残り、荷馬車が明治まで往来した。
漆喰で化粧された「みせの天窓」は市内で最大のもの。電話室は1909(明治42)年に開設された。明治の香りが店内に溢れている。陳列棚もある。
丸栄食料品店・ほか—相生町
小坂家住宅 (小坂酒造場)—国重要文化財−相生町
1772(安永元年)より酒造業始める。現在の建物は1795(寛政7)年頃の建築。間口6間、奥行き8間半、切妻造、背面段違いで、軒はせがい造。
屋根は桟瓦葺で起(むくり)を付むくりを付け、ウダツを付ける。長良川の伏流水を使って、銘酒「百春」を醸造している。
美濃市内には江戸時代に建てられた商家が十数軒現存している。その中で代表的なものが小坂良治家である。
1772(安永元)年頃の尾張藩政下から酒造業を営み、もとは「杉本屋」と称された。
1983(昭和58)年、半解体修理が行なわれた。
その結果、主屋入口に打ちつけられた祈祷札の一番古いものが1773(安永2)年であり、主屋背後の酒倉の二階柱の1772(安永元)年の墨書、製麹室の屋根瓦の明和9年(安永元年)の箆書(へらがき)などにより、その頃の建築と推定された。
うだつ造りの代表的な商家で、主屋は間口六間、奥行八間半、うだつは両妻と中央(現在は表側棟際を残すだけ)の3本あり、屋根は前面に起り(むくり)をもつ優美な姿、桟瓦葺の珍しい形式である。
江戸時代から続く酒屋の店構えもよく保存され、美濃地方商家の代表的遺例として、1979(昭和54)年2月、国の重要文化財に指定された。
この建物は、明治初年の小坂家再興の時に修理改造され、その時に内部が吹き抜けとなり、二階には見張り間が設けられ、さらに明治20年頃に大改造し、二階座敷等を設けてほぼ現在の姿となった。
特長のある屋根部−むくり〜煙出し・中うだつ〜袖うだつ
酒造場−奥は深い
ここでは銘酒「百春」を醸造している。庭に敷かれた二筋のレンガ、かっては大八車や荷車が通った。
展示のひな
平田家住宅と古川家住宅(そば切り・まる伍)が並んで建っており、うだつが並び建つ。
平田家住宅−常磐町
古川家住宅—常磐町
鈴木公平家住宅
鈴木忍家住宅−「笹屋」
鈴木家は江戸時代初期から「笹屋」の屋号で味噌・醤油醸造業を営み、昭和以降は燃料業へ転業した。入口の引上大戸を今も使っている。
庭には稲荷社が祀られ、毎月一回神職による神事が行われている。稲荷社は多くの商家でも祀られ、うだつとともに商家繁栄の象徴であった。屋根神様も祀る。
うだつ招き猫
小坂家住宅−常磐町
紙遊(和紙の店)—常磐町
1835(天保6)年から和紙を商いとしてきた古川紙工(株)が、永年使ってきた紙蔵を開放して始めた和紙の小売店
一番町通り
一番通り略図と通り
ここで松久宅を右に回り美濃紙あかりアート館へゆく
一番町通りへもどる
ポケットパーク周辺
四つ角を左の路地方向に進む(二番町通りにむかう)
一番町通りにもどる
特長のある住宅・他を並べる
大石家住宅(大石華表堂) 泉町
1889(明治22)年創業、京表具・書画修復 明治に入ってうだつは一層豪華となり、大きい鬼瓦、太くて装飾一杯の破風瓦、大きな懸魚付となった。
旧今井家住宅 市指定文化財、美濃資料館 泉町
大石・今井家住宅の道路を挟んだ向かいに、4〜5軒の商家・民家が並ぶ。うだつを背負った4軒が見られる。 泉町
鈴木家住宅 泉町
茶房「とみや」
江戸時代末期に建てられた。和紙の原料問屋であった100年経過の古民家
我流酒房と胡麻や(我流酒房)
ずらりと並んだうだつの景観
松久家住宅 本住町
鬼瓦と破風瓦だけの簡素なうだつ飾りである。鬼瓦に扇のマークが入っており、江戸時代は扇屋という酒屋だった。
石川紙業
松久永助紙店・紙店事務所 本住町
1872(明治5)年から神問屋を営み、江戸末期に建てたうだつ構えの主屋
向かい側に1877(明治10)年に和紙製品の作業場として建てた建物が事務所として使われ、店の看板が掲げてある。
松久達三家住宅 本住町
今井家より少し発展した軒飾里。屋号を記した鬼瓦と人の字が反り返った2枚の破風鏡が見られ、簡単な懸魚が付く。
旧松久才次郎邸(現松久範子邸)本住町
美濃紙原料問屋で全国一の楮の集荷量を誇り、全国から製紙原料を仕入れていた。
加藤家住宅
肥料商、前半分を二階建に新築。後ろの建物にうだつと「起し屋根」が見られる。
旧武藤家住宅と現在の和料理「椿」加冶屋町
築後250年経過の古民家を改装 (改装前と現在」
路地に入る
時代軒茶舗 魚屋町
店は江戸時代末期の建築で、うだつの鬼瓦には「上り藤」の家紋、店は1950(昭和25)年の創業
岡専旅館 魚屋町
江戸末期の塩問屋だった建物で塩蔵が残る。幕末から旅館業を営む、街中に残る唯一の旅館
元の一番通りへ戻る
「あかりや彩館」と「らんたんや」 加冶屋町
「あかりや」は、江戸時代につくられた豪商の蔵を改装した照明和紙照明専門店
紫竹呉服店
1885(明治18)年創業、大きな屋根神様を乗せている。
米屋「藤山」 俵町
三代続いた「米屋」.平成11年の伝重建指定を契機に土産物産に変身
旧名鉄美濃線美濃駅
本屋 国登録有形文化財
1911(明治44)年から1999(平成11)年まで90年間にわたり、名鉄美濃町線は市民の足として親しまれてきた。
美濃電気軌道㈱が開設した鉄道により、美濃紙や楮(楮:こうぞ)などの原料輸送が飛躍的に改善された。
美濃-新関間の路線廃止に伴い、歴史ある駅舎を整備し、美濃町線にゆかりのある「モ512号」「モ601号」「モ593号」の路面電車3両及び電車に関するパネルを展示している。
近代軽便鉄道の特徴を今に残しているターミナル型の駅本屋で、南面にプラットホームが取り付き、東妻面に待合室出入口を開ける。
切妻造、下見板張の外壁と正面東妻綿には木骨を装飾的に配している。
長良川鉄道美濃市駅プラットホーム及び待合所
国登録有形文化財
建築:1933(大正12)
プラットホーム;石造、延長:98m、上棟2棟及び階段用上層付
待合所:木造平屋建、スレート葺、建築面積:20㎡
駅舎の南側に位置する。延長九八メートル、側面玉石積の直線状構造物で、両端をスロープ状とする。
ホーム上には桁行6.4m、梁間3,2m下見板張の木造待合所一棟、古レールでつくった上屋二棟及び木造階段室を設け、歴史的な鉄道景観を創る。
旧美濃町産業会館 (現・美濃和紙あかりアート館)
美濃市本住町1901−3
国登録有形文化財
美濃町信用購買販売利用組合が建設。桁行22m梁間11m規模,切妻造の木造総2階建で,外壁は腰タイル張、上部下見板張とし,正面の軒下には瓔珞飾りを付ける。窓の‡26979;と窓台を繋げてほぼ全周に廻し,水平線を強調した外観意匠に特徴がある
伝統の美濃和紙を使ったあかりアート作品を展示している。
参考資料<美濃市HP>
小倉山
上有知湊 (こうずちみなと・川湊灯台)
美濃市港町
交通の変遷と美濃市の繁栄に貢献した歴史を語る貴重な史跡として、灯台をふくむ一帯の地が県指定史跡となっている。(市HPより引用)
県有定史跡、長良川の上有知湊に建てられた灯台、幕末に建てられた。
長良川畔の上有知湊(こうずちみなと)は金森長近によって開かれた湊である。
長近は関ケ原戦の功によりこの地を加封されると、小倉山城を築き、低地にあった上有知の町を丘上に移して、城下町上有知の町造りを行った。
さらに町の繁栄策として六斎市(ろくさいいち)を開かせ、物資運送の玄関口として上有知湊をひらき、番船40艘をおいて長良川下流への舟運の拠点とした。
上有知湊は江戸時代から明治時代末年までこの地方の物資の流通、交通の中心として繁昌したが、明治44年、電車の開通によって全く廃れてしまった。
今はわずかにかつての上有知湊を象徴するかのように川畔に建つ高さ9mの長良川湊灯台と舟着場への石段、舟運の安全を祈るために1818(文化10)年に奉祀された住吉神社、石灯籠などが昔を物語る姿をとどめるだけである。(市HPより引用)
長良川
美濃橋
美濃市曽代・前野
国重要文化財
小倉山の西方を湾曲して流れる長良川にかかる
長良川を渡る真っ赤な橋は、現存する日本最古の近代吊り橋で1916(大正5)年に竣工された。
この吊り橋は、日本最大級の支間を実現した吊り橋として、歴史的価値の高い近代建造物。2001年(平成13年)に土木学会選奨土木遺産を受賞
橋長113m、支間116m、幅員3.1mの単径間補剛吊橋で、人・自転車専用。
両岸に据えられたアンカーレイジに、鉄筋コンクリート造の主塔から吊るされた主ケーブルを碇着し、吊ケーブルで支持された橋桁を鉄骨トラスで補剛されている。
参考資料<美濃市HP・ほか>
名称:美濃うだつのあがる町並
所在地:岐阜県美濃市
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている美濃市。
町並もよく整備され、保存状況もよく歴史をうまく残していました。
もう一つのうだつのあがる美馬の町並と比べてもずっと状況が良いと感じました。
July 2009 撮影:瀧山幸伸
美濃橋付近 source movie
Jan.2008 撮影:及川政治
Apr. 2008 撮影:瀧山幸伸 source movie
美濃和紙で有名な美濃の町は「うだつの上がる街」としても有名だ。この街並は、平成11年(1999)国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
街の歴史は、慶長5年(1600)の金森長近によるもの。歴史は比較的浅いが、地理を活かし舟運の要所として和紙などで商業が発展することとなった。
街並は調和がとれているが、よく見ると、各戸のうだつや瓦の形状が微妙に異なり、各戸が個性を競っていたことがうかがえる。特に小坂家のうだつは圧巻。
場所柄、和紙の店、和紙を使った洋服の店など、和紙のフィーチャリングが目立つ。
美濃和紙あかりアート館もぜひ訪問したい。二階には芸術家の和紙照明作品が並ぶ。和紙のインテリアは洋風の部屋にも調和する。もっと評価されてよいのではなかろうか。
小坂家
Kosakake
紙遊
See you
今井家
Imaike
庭園の水琴窟は、日本の音風景百選に選定されている。
岡専旅館
美濃まつりの準備
美濃和紙あかりアート館
Mino paper akari art museum
Apr.2008 撮影:瀧山幸伸 source movie
Nov.2003 撮影:瀧山幸伸 source movie
今井家
小坂家
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