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岐阜県瑞穂市 美江寺宿

Mieji,Mizuho city,Gifu

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Jan.2018 柚原君子

中山道第55宿「美江寺宿」

概要

木曽川、長良川を横切ってきた中山道は今度は美江寺宿から京に向かうために揖斐川(イビガワ)を渡ることになります。国土地理院の海抜図によりますと美江寺宿の近辺、特に川沿いは海抜わずか5メートルです(東京の荒川流域で示すとすると「日暮里駅近辺」と同じ)。

駿河湾からかなり離れている印象ですが、先の河渡宿では、一帯は大昔は海であったのでは?という説が出ていましたが、それがうなづけるほどの低さです。したがって低湿地帯であることは前宿と変わりません。水害の修繕が行われたのは明治になってからですから、旧呂久川、五六川、犀川、長護川と何本も川が流れている美江寺宿は他宿よりもさらに大変であったろうと想像できます。

1861(文久元)年10月、皇女和宮は京都より江戸に向かい旧揖斐川を大垣藩が用意した船で渡った、と記録が残っています。ちなみに揖斐川の渡船場では1580(天正8)年の織田信忠の「渡船覚書」も残っていて、定渡馬船が二艘、歩行越船が二艘あり、渡し賃は大名、武士、寺院などは荷物までもが無料、旅人や商人は六文以上となっています。船で渡るしかない川を目前にして増水が甚だしければ旅人は宿止めになるのは致し方ない時代でした。

美江寺宿は明治24年の濃尾大震災でほとんどの遺構がなくなっていますが、宿の歴史は中山道時代より50年も前の1589(天正17)年、豊臣秀吉の下知によって問屋場(荷物の中継ぎをする)が設けられていることに始まります。その後1637(寛永14)年伝馬役、歩行役それぞれ25軒を集めて宿場制での公式開設となっています。

美江寺宿は美江寺という現存していた寺の名前から来ていますが、戦国時代に斎藤道三が稲葉山城(現在の岐阜城)を築いたときに城下の鎮護のために移転させてしまったので、寺の跡地のみが残っています。

濃尾大震災に襲われて、宿内の「酒造り布屋」の家屋以外は全て倒壊焼失しています。しかし宿の面影を守ろうと、道筋だけは江戸時代の街道のままになっている美江寺宿です。

1,五六川→谷汲追分道標→一里塚跡→造り酒屋布屋

五六川を渡って美江寺宿に入ります。五六川は江戸から数えて美江寺宿が56番目であったところから付けられた名称と、市の紹介にも出ていました。ふんふん……えっ、でもここは「中山道第55の美江寺宿」ではありませんか?と誰もが思いますよね。実は江戸時代は日本橋を第一の宿と数えていたのでその名残がこの川の名称という訳です。10歩もあれば越えてしまえる小さな目立たない川ですが、江戸時代を感じながら渡ることができます。

美江寺宮前町の交差点。この辺りが美江寺宿の東口(江戸口)で、宿の入り口となります。踏切を渡ります。右側に樽見線の美江寺駅があります。T字路手前に「谷汲追分(タニグミオイワケ)道標」。向かい側に美江寺宿の名所遺跡の大きな看板。現在の旅人にはとても便利な行政の看板です。しばらく眺めて看板を右手にみて直進。街道の面影のある道を行きます。干し柿に里の絵を感じます。右側に一里塚の跡。その奥に美江寺宿の本陣を勤めた山本家のお墓がある「瑞光寺」。

街道に戻って見えてきたのが「造り酒屋布屋」。1696(元禄9)年の創業。加納宿繁栄のために加納藩が指示して作られた造り酒屋。現在で8代目。

濃尾大地震で宿内のほとんどが壊滅した中で唯一残った商家です。数年前に廃業されたそうですが内部はそのままとのこと。瓦は取り替えられた時期があったのでしょうか、いつの時代のものかはわかりませんが、鬼瓦がデーン!とウィンドーに飾られていました。さすがに大きな鬼瓦です。

                        

2,美江神社(美江寺跡)→ウナギ屋さん

緩やかに曲がる道をそのまま先に進みます。見えてきた信号は「美江寺」。宿の命名の由来となった美江寺の跡地です。現在は「美江神社」。街道は左に曲がる枡形で続いて行きますが右側にある「美江神社」に寄ります。

「美江神社」は創建時は不明としながらも、平安時代の美濃国神名帳に「正六位上 美江明神」と出ているそうで、江戸時代初期には熊野権現と呼ばれ、1868年(慶応4)年に熊野神社に改称しています。そののちの1881年(明治14)年に美江神社に改称する、と社史にあります。

高札場でもありましたので、現代風にわかりやすく解説された高札場がある、と楽しみにしていましたが、境内のどこを探してもありませんでした。残念。何故?

それに、これまたお正月故の失敗ですが(事前に入念に検索準備を怠った事も反省中!)、地元に良くある宿の案内パンフレットも入手できず、前宿の河渡の渡しをさがせなかった事も尾を引いて、おまけに食事するところも無し。無し無しづくしで、私はこのとき相当おなかが空いていて、ちょっと怒りに近い感情が全身をかけめぐっておりました(笑)。

帰京して調べ直したら、宿案内パンフレットはこの美江神社の観世音堂の棚の引き出しの中にあったそうで、そこにあるよ、という案内もないそうで、この観世音堂は1567(永禄10)年に織田信長の命で建立されたもの……なのにその写真も撮らず……。

と、まあ、自分の事前準備が不十分だったので仕方ないのですが、遠方の中山道歩きはよほどたくさんの準備をしないと、貴重なモノを撮影し損なうことがあるということ、往来にある程度の人が歩いている日程が良いこと、などをしかと肝に銘じました。

さてさて、おなかがとても空いたのでキョロキョロしましたが、やっぱりどこもありません。仕方なく空腹を抱えて先に行きます。信号から直角に曲がってすすみます。角に虫籠窓のある家。美江寺城主和田氏の流れをくむ旧庄屋の和田家です。虫籠窓というのは開け閉めできない固定の窓です。二階建てが禁止されていた頃に屋根裏を利用するために、明かり取りや通風のために切り取られたという窓です。時代が下がるに従って虫籠窓もだんだん大きくなるようですが、この旧庄屋の和田家はこじんまりとした虫籠窓です。

虫籠窓を見返りながら過ぎたところに、奥まった「ウナギ屋」さんを発見。これを逃したらこの先歩けないでしょう。飛び込みます!おいしい!満足!

                

3,本陣跡→千手観音堂→千躰寺

ウナギ屋さんの斜め前に「本陣跡」。山本家が勤めていて問屋場も兼ねていたそうですが濃尾大地震で倒壊した後に一度は再建されますが、老朽化によって平成3年に取り壊されたあとは史蹟を示す石塔だけ。このあたりは美江神社や本陣、そして現在は中学校になっている美江寺城跡がある宿の中心地です。海抜は過ぎてきた五六橋より2メートル高いところにあるので、水害時の避難場所となっていたそうです。道幅が少し広いのもそれゆえでしょうか。

先に進むと道はまた直角に右に曲がります。広重が浮世絵「みゑじ」を描いた場所といわれています。

屋根の付いてお休み処がありその前に「右 大垣 赤坂に至る 左 大垣 墨俣に至る」と彫り込まれた石の道標。お休み処の板壁には「大正10年頃の町内図」が貼ってあります。それによると本陣前には警察署とポンプ置き場があり、その後ろは繭乾燥所、町内のお店にも桑売り場というのもあり、養蚕が行われていた事がわかります。下駄屋に旅館に医院という家が続き、江戸時代は脇本陣もない、旅籠は11軒のみ、家数わずか136軒という小さい宿でしたが、ここがにぎやかなメインストリートであった事が想像できます。

町内図の脇に貼ってあるのは美江宿の案内図。美江神社の引き出しの中にあったのはこれだったんだろうなぁと、想像しながら次ぎに急ぎます。

お休み処で直角に右折します。道だけは忠実に残したとされる美江寺宿です。曲がってしばらく行くと右手に千手観音堂があります。優しいお顔の観音様です。1833(天保4)年の寄進。今から185年前のことです。観音堂の左右に燈籠。寶前御燈という燈籠は見たことがありますが、この燈籠は寶燈。略してあるのでしょうか。それにしても燈籠の一番上の石は空から降ってきてつぶれて被さったような不思議な形です。

犀川(サイガワ)を渡って突き当たりに千躰寺がみえます。檜材一木造りの阿弥陀如来立像が千体も八段に並べて納められているそうです。作者は自然居士(じねんこじ)。自然居士は奇行遊行僧と言われる禅僧と案内板にあります。美江神社の手前の信号の近くにそのお墓があるそうで、この地で没せられたのかと思いながら先へ行きます。道はまたここで直角に左に曲がります。直角に曲がること3回目。カギ型に曲がるというけれども、本当にその通りです。

                  

4,ビーバー出現!→熊野神社→広重美江寺宿絵→松林跡→鷺田橋

巣南と魚の絵が書かれたマンホールを撮影して、ふと顔を上げて川の方をみたら、なにやら動いた気配。ビーバーです。川をせき止めて巣を作る動物。じっと川面をみて動きません。枯れ枝でも流れてくるのを待っているのか、巣作りを思案しているのか。ビーバーの後ろにはややこしく組まれた枯れ枝の山。巣作り材料なのでしょうね。近づいて写真を撮りました。結構可愛い顔をしています。

先に進んで少し振り返ったらこんもりとした森が。あれがきっと熊野神社で春日局の夫、稲葉正成の十七条城跡だったのでしょう。別名出世熊野ともいわれているそうですが、戻ってみようかと思いましたが、お正月とはいえ神社附近には人影はなく、少し奥まった位置の森のようで、ちょっと怖いので寄れませんでした。長護寺川を渡り、信号で右に折れてまたすぐの道を左に折れます。電柱に付けられた→が頼りです。

「中山道跡地」の案内板があります。戦前まであった松並木の写真と広重の描いた美江寺宿の絵が載っています。ここから揖斐川を渡るまでの道が、当時松並木があった場所。現在は畑地が続いています。地名は大月。松の林の上に大きなお月様がでていたのでしょうかしらね。

案内に沿って鷺田橋へ。白鷺コロニーがあるようで数十羽が飛んでいます。500メートルもある長い橋を渡って瑞穂市呂久という地区に入ります。江戸時代は「呂久の渡し」がありました。

                         

5,良縁寺→長屋門→小簾紅園→呂久の渡し跡

橋を渡って左に進むと「良縁寺」。境内には呂久の渡しで舟年寄りを勤めた馬淵善左衛門の墓標があるそうです。進んでまた枡形。直角に右に曲がります。即心院。小さなお堂のみ。お寺の気配はありません。

先に堂々とした長屋門が見えてきました。馬淵家の長屋門です。船頭8人、助務7人が常時配置されていたそうです。明治天皇お休み処の碑も建てられています。この馬淵家の庭の紅葉を目にして、江戸に下向していく和宮様が「おちていく身と知りながら もみじ(本字はちに濁点)葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と詠っています。呂久の渡し跡はこの先の「小簾紅園(ショウレンコウエン)または(オズコウエン)」にあります。

都会の直角に交差する道になれているので中山道のゆったり、まったりと曲がっていく緩やかな道が意外と精神を落ち着かせる、と中山道歩きをして気がつきました。

ゆったりと曲がりながら「小簾紅園」に。池のある公園になっています。和宮様が呂久の渡しを御座船で越えられた記念を残そうと、地域の方々の寄付によって作られた90年近い歴史のある公園です。記念石の先に小さな白い橋が見えていますが、流れるのは旧呂久川(旧揖斐川)です。

渡ってきた鷺田橋の架かる大きな揖斐川は1925(大正14)年河川改修によって変更されたもので、江戸時代にはこの辺りで渡船したのでしょうね。

時間は2時40分ですが、本日の夕方、岐阜に嫁いだ小学校時代の友人と10年ぶりに夕食をするので、この先柳原の一里塚を残していますが、ひとまずここで美江寺宿を終了します。さて、複雑に曲がりくねってここまでやってきましたが、自転車で来た道を帰れるでしょうか。……自信が無かったのを裏打ちするように案の定、迷い迷い、雨に降られJRの駅にして三駅分を岐阜駅めざして、出会う人に、あっちの方角!と指さしてもらいながら、二時間かけて帰る羽目になりました。疲れたぁ……。

                                    


June 10 ,2016 瀧山幸伸 source movie

西から東へ

小簾紅園

          

呂久

     

揖斐川左岸(東側)

           

            

美江寺宿

              

          

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