岐阜県中津川市 苗木城跡
Naegi castle,Nakatsugawa city, Gifu
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May 9,2017 瀧山幸伸
木曽川の崖上、自然を活かした要塞
史跡
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築城背景
鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭遠山氏の初代遠山景朝には子が無く弟の遠山景村が遠山氏の二代目となる。
仁治2年(1242年)景村は木曽川北部の所領確立のため、木曽川左岸の西山戸から右岸の那木津戸に進出。那木津戸が当時、那木(苗木)と呼ばれた所で、遠山氏による木曽川北部進出の始まりとなった。
元弘年間(1331〜1334年)遠山一雲入道、遠山景長親子が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築く。
元弘〜建武年間(1334〜1336)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築き宗良親王を迎える。
文明5年(1473年)10月、小笠原家長と木曾家豊が伊那谷と木曽谷から東濃に侵攻する。
大永4年(1524年)3月、小笠原定基の家臣高柴景長が神明神社(苗木字日比野)の造営を行なう。
大永6年(1526年)に遠山一雲入道昌利が植苗木から高森山に館を移す。
天文3年(1534年)、松尾小笠原氏の本拠松尾城が陥落、小笠原定基が甲斐の武田氏のもとに逃れる。
天文11年(1542年)11月、遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進する。
武田氏、織田氏、森氏の苗木城攻め
天文年間(1532年〜1555年)に遠山正廉が高森に苗木城を築く。
天文24年(1555年)、木曾氏が甲斐の武田氏に降る。
永禄3年(1560年)5月、苗木勘太郎(直廉同一人物説有り)が桶狭間の戦いに出陣する。
永禄8年(1565年)苗木勘太郎の娘(織田信長の養女)が武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ。
永禄12年(1569年)6月18日雲岳宗興大禅定門(遠山正廉)死去(高野山過去帳)。
同年6月遠山直廉、広恵寺に禁制を下す。
元亀3年(1572年)5月18日雲嶽宗高大禅定門(遠山直廉)死去(雲林寺過去帳)。武田氏からの指示により飛騨国益田郡竹原へ侵攻し三木氏と戦い大威徳寺を焼くが、その時の矢傷が元で後に死去したとされる。信長の命令で遠山左近の死去により飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を相続する。
同年12月、武田家臣秋山虎繁が上村合戦にて遠山景行、苗木勘太郎、串原右馬介経景、小里内記を破る。
天正年間前半(1573年〜1582年)、遠山友勝死去。
天正元年(1573年)8月、木曾義昌が河折籠屋を攻め落とし、苗木を攻める。
天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美に侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とす。
天正3年(1575年)、織田信忠が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還する。
天正10年(1582年)可児郡の兼山城主であった森長可が苗木を攻める。
天正11年(1583年)兼山城主の森長可再び苗木地方を攻め苗木城が落城。遠山友忠・遠山友政父子は徳川家康を頼り浜松に走る。
苗木遠山氏の帰還
慶長4年(1599年)森氏 信濃川中島に移封される。川尻直次が苗木城主となり、城代・関治兵衛が城を守る。
慶長5年(1600年)遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略奪回し、徳川家康から苗木領を安堵され、後に苗木藩が成立する。
明治以降
明治2年(1869年)苗木藩主の遠山友詳(友禄)が版籍奉還により藩知事となる。
明治4年(1871年)廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、苗木県となる。
明治17年(1884年)7月7日華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳(友禄)は子爵となる。
1981年(昭和56年)、国の史跡に指定された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(142番)に選定された。
遺構
三の丸にある大矢倉
巨大な自然石である馬洗岩
本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っている。
天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが大きな特徴。
菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。大手口道は長さ500m、高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。
建築物としては、大手門の扉と柱が残り、中津川市苗木遠山史料館にて展示されている。
(wikipedia)
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