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岐阜県中津川市  中津川宿

Nakatsugawa post town,Nakatsugawa City,Gifu

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Mar.2019 柚原君子

 

中山道第 45 中津川宿


概要
岐阜県中津川市にある「中津川宿」。地名の由来は2説ほどあります。中津川駅から北西800メートルに中津川市の産土神である「中川神社」が、古来より「なかわ」「なかつかわ」と呼称されていたところから。
もう一つは、中津川近辺には落合川、中津川、阿木川の三本の川が流れているのですが、その真ん中にあるのが中津の川、つまり中津川からの由来。
私的には古来よりある中川神社の説をとりたいです。

中津川宿が所在する地は、江戸時代には恵那郡中津川村、明治22年に中津川町、昭和27年には中津川市となっています。本来の地名は「中津」ですが、大分県の中津市とかぶるところから、川の名前である「中津川」を市名とした経緯があります。その名残として市内には小学校や企業名に「中津」と付いているところも多いです。2027年開業予定の中央新幹線(リニア中央新幹線)の駅が中津川市に予定されています。

中津川宿は断層が集まって隆起を繰り返した地域にあり全体が山地の感です。前宿の落合から中津川へも、丘陵の上り下りの繰り返しが多く、川も花崗岩がむき出しになった峡谷が多く観られます。
街道は奈良時代より古代の東山道が通り、戦国時代には織田方と武田方の戦いの場ともなっています。江戸時代の中山道では江戸方より淀川町・新町・本町・横町・下町と続き、宿の中心地は本町で本陣と脇本陣があります。尾張藩領(1843年)人口:928人家数:228軒本陣:1軒脇本陣:1軒旅籠:29軒


1,子野川~高札場
子野川にかかる子野橋を渡って中津川宿に向かいます。前方に道いっぱいに張りだした桜の木。「子野の地蔵堂石仏群」。1694(元禄7)年に建立された庚申塔があります。赤穂浪士が討ち入りする7.8年前の頃、松尾芭蕉さんが亡くなられた頃に建立された古い庚申塔です。
また徳本行者念仏碑もあるところから、地元の人々はこの場所を「とっこんさま」と呼んでいるそうです。
川の近辺に地蔵尊が祀られていたそうですが、いつの間にか無くなり、今はこの地に小さな堂が建てられています。
樹齢300年の見事な桜の木を仰ぎながら通過します。道は上り。発電所を右に国道に出て中津川バイパスの通っている地下道をくぐります。地下道の壁には中山道の案内。地下道をくぐって出たところは江戸時代は上金村と呼ばれたところで、現在は国道19号線に20メートルほどを削り取られていますが、当時の道幅は3四間で18軒ばかりの家があり後は畑であったと記されています。今は道路が綺麗に整備された住宅街です。
常夜燈や手を合わせている可愛い道祖神を見ながら23分先にあるのは尾州白木改め番所跡。木曽から搬出される材木を厳しく改めたところです。白木とは檜(ひのき)などの皮を削った材木のことで檜の他にさわら、あすなろ、こうやまき、ねずこなどの木曽五木の出荷統制を行っていた場所です。明治の初め頃まで機能していたそうです。緩やかな登りとして続いている道は「茶屋坂」という名前が付いています。
赤い鳥居と経王書写塔。上り坂が終わり、丁度良い椅子があるので昼食に。
周囲に畑はなく、市街地ととれる佇まいですが、元農家を思わせるような広い敷地の新しい家ばかりが続いています。
道は行き止まりのようなっていて90度曲がるように石段があります。曲がるところに芭蕉の句碑「山路来て 何や羅遊かし 寿み連草(やまじきて なにやらゆかし すみれそう)」があります。
石段をおりて国道を越え、もう一つの急な石段をおりると高札場。中山道は山を一気に下ってきた感があります。
復元された綺麗な高札場です。
                                                                  


2,すや
高札場を過ぎたら一本道。中央本線中津川駅に近い市内の町並みに入ります。宿場町として町並みが綺麗に残されています。中津川宿には近隣に河川が三本流れていますがいづれも急流河川で過去には何度も氾濫しています。しかし、宿の町並みは20mほど高い位置にあり、氾濫で破壊されることはなかったそうです。
淀川町を過ぎて東新町に。左側に欅板の看板にやさしい文字の「すや」。元禄年間の創業で栗きんとんの老舗。元は酢屋。江戸から下ってきた一人の武士、赤井九蔵が町に住みつき「十八屋」の屋号で酢の店を開いたのが始まり。1802(享和2)年に中山道を大阪から江戸へ下っていった大田南畝は「十八屋」を、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に書き留めているそうです(すやHPより抜粋)。酢屋の7代目からは栗のすやに。薄暗さが丁度良い店内で戴きました。美味しいものに出会えるのも中山道歩きの醍醐味!

                           


3,桂小五郎隠れ家

中津川村で生まれた近代日本画の巨匠である前田せいとん誕生の地碑のある駐車場を過ぎると、桂小五郎隠れ家跡。
『州藩士桂小五郎(後の木戸孝充)は1862(文久2)年、江戸から京都へと向かっていた藩主毛利敬親に「公武合体」ではなく「尊皇攘夷」を唱えるべきと説くために、この中津川宿で待ち話し合いのあと長州藩は朝廷方につくことにし、やがて討幕運動の中心勢力と鳴った。この「中津川会議」は維新前夜の激動を知る大切な会議であり、この折、小五郎は地元市岡・間氏の厚意により、料亭「やけ山」に隠れていた』
歩いてみよう みなみ木曽路……たけかわ企画パンフレットより)
街道よりほんのわずかの奥に入った路地にありました。

           

 

4,間家大正蔵
続いて間家大正の蔵(はざまけたいしょうのくら)。1917(大正6)年に建てられた蔵で、従来の土蔵造りに明治以降の近代的工法のコンクリート使われている建物。市に寄贈されて中津川市の有形文化財。
蔵の持ち主は江戸初期に近江の国より中津川村に移り住んだ初代の間杢右衞門矩定。塩の仲買業務をはじめ金銭の貸付業を行って東濃随一の豪商といわれるようになります。中津川宿の年寄役などを勤め多くの間家一門と共に政治経済文化に大きな足跡を残している一族です。
蔵のあった敷地は、現在の中津川郵便局を中心として3000㎡に及ぶ広大なもので、中山道に面して12間、9間の総二階、母屋と客人を泊めるための庭園付きの座敷からなり、さらに8つの土蔵や倉庫と4つの物置と茶室などがあったそうです。
母屋が取り壊されたのは昭和8年。間家大正の蔵として公開されている倉庫は、屋敷の西端にあったもの(パンフレットより)。
蔵内には賊の侵入を防ぐ落とし戸や多くの古文書が展示されています。ボランティアの女性の解説も。残っている庭は比較的狭い感じがしますが、キリシタン灯籠とよばれる織部灯籠や井戸、地面に置かれているたくさんの鬼瓦が当時の屋敷を偲ばせます。ちなみに、五代目の間半兵衛秀矩((文政5年(1822)~明治9年(1879))は、小説『夜明け前』で、蜂谷香蔵として登場しています。
                                   


5,本陣・脇本陣
常夜灯のある四つめ川橋を渡ると本町。宿の中心です。周辺の案内板も大きく出ていますし、要所には高札場の様な説明版が建てられて現代の中山道歩きが楽しめるように行き届いています。
渡ってきた「四ッ目川」は文化、宝暦、寛政と昭和に入ってからと、四度も氾濫して川の形が変化したからという説。川が氾濫するので本陣は少し高いところに作られたとあります。
中津川宿は街道を東西に上町.横町.本町.新町.下町など、どこの宿にもあるような区切り方ですが、他にも南北に区切られた呼称があり南側を「上ハ町」、北側を「下ハ町」と呼び、近辺の北側に低くなっていく扇状地の地形がそのままの名前になっているそうです。現在は「上小路(うわしょうじ)」「下小路(したしょうじ)」という路地の名前として残っている、と立て看板に書いてあります。

左側に色とりどりの駄菓子屋さん。まあなつかしい!と飛び込みました。
続いて「秋葉神社(あきはじんじゃ)」の説明。街道筋にはどこに行っても秋葉神社ですが、火事が多かった時代に火伏せの神様である秋葉神社が多いのはうなづけます。
幕府からは火の用心についての注意も多かったそうです。中津川宿では「秋葉講」を設けて貯金をして遠州(静岡県)にある秋葉神社の本社に代参を行っていた、と書かれています。街道の中央には黒沢川から取水した用水(大樋用水)が流れていて、物をながすことも洗うことも禁じられていた用水で、防火の役目を担っていたそうです。明治13年の天皇通行の折に馬車が通れるように埋めたてになっています。
秋葉神社の先に脇本陣跡。並びにある歴史資料館は残念ながら休館日。私は火曜日に各宿場を訪れることが多いのですが、火曜日休館という施設が比較的多い気がして残念です。
本陣は跡碑のみですが、間取りが綺麗に書かれた看板がでています。
おもしろいのはお便所が「雪」と表示してあるところ。今では余り使いませんが「雪隠(せっちん)」の雪のことです。ちなみに雪隠は中国から来た言葉だそうですが、中国の辞書に雪隠は見当たらないそうです。私は濃尾平野の農村で子ども時代を過ごしましたが、便所家というウンチをする小さな小屋が庭の隅にあってその脇には大きな瓶があってその中にはお小水が貯めてありました。遊んでいるときは落ちないように気をつけたものです。
昔は糞尿は肥料として大切なものでした。売ることもあったそうで銭の池と言われて、セッチという表現も地方に残っているところがあるそうです。それがセンチ→セッチンと変化して中国の故事と結びつけられたのでは?という説もあるそうです。
ともあれ、20室以上もある大きな本陣です。長屋もたくさん。使用人達もいっぱいいたのでしょうね。
当時の本陣は高い塀で囲まれて、裏手には御退門もあり、非常の際には裏口より近所の寺院に逃げられたそうです。現在は街道に面して駐車場になりその周囲に本陣らしい上品な塀が続いています。
余談ですが、武家は旅に出たときでも軍旅と考えて、軍会議をする陣を張るという意味から、武家のえらい人が泊るところを「本陣」と命名した経緯があります。
本陣の向かい側は「中津川村庄屋居宅」の曽我邸(旧肥田家)。家は江戸中期のもので、ほぼ当時のままに残されているそうです。肥田家は代々九郎兵衛と名乗り屋号は田丸屋。江戸後期から旅籠を始めたが、明治になって曽我家が買い取り医院になっていた、と説明板にあります。島崎藤村の 『夜明け前」小説では小野三郎兵衛として登場しているそうです。現在は「曽我家住宅」として中津川指定文化財。

                        

6、卯建の上がる商家の並び
街道は突き当たると左に折れてもう一度右に折れるという直角に曲がる形から枡形と呼ばれる道路の形状になっています(もう一つ曲がる個所がついていると鍵型)。
その突き当たる手前の奥に大泉寺があったそうです。本陣の絵図にもありましたが、御退所門から敵の来襲を避けて逃げてきた本陣宿泊者が逃げ込んで保護されるお寺となっていたそうです。寺は落雷によって焼失しています。
突き当たる道の左は松霞堂(しょうかどう)の可児家。江戸時代はお米屋さんで傾斜地を利用して米を搗き、雨戸をあけるには、二つ折りにして上へ持ち上げて固定した柱や梁とともに今も残っているそうですが、見学不可。また、裏庭には150年以上の松の木がありこの松の木に霞みがかかった有様からの店名。屋根裏の隠し部屋は博打部屋、裏庭に残る石垣は枡形ができた頃の年代物で、川の氾濫に備えたものと言い伝えられているそうです。

枡形を曲がると卯建を持った商家が続いていきます。舗装された道路を除けば、まるで時代劇のセットのようです。
曲がってすぐ右側に間家(はざまけ)の営んでいた旅籠屋の「十八屋」(間家)。水戸天狗党の傷病兵を預かったり、和宮様通過の折には御供のものたちが宿泊した、と立て札にあります。江戸中期の建物で天井や梁は当時のままだそうです。

お隣は「白木家」(横井家)。卯建が凄い家でひときわ目を引きます。1842年の天保の頃のに建てられたもの。建てられてからおおよそ180年も経っているのですね。現在はお休み処として活用されていますが、中2階に隠し部屋があると書かれていますが残念ながら公開されていません。

向かい側に「天満屋」(古井家)こちらは築150年は経っているとのこと。馬籠出身で商いは小間物屋さん。建物は江戸中期で2階がなくどの部屋にも明かり取りの天窓がついていている。昔の昔、川を流れてきた神様を子どもたちが拾って願い事をしていたので、それを祀った(天満宮)があったのでそれが屋号になっている、と立て札にあります。
そのお隣は旧中川家(杉本屋)庄屋さんの広大な屋敷があったそうで、この建物はその一部。昭和30年代の初め頃までは江戸時代の面影を残す帳場があって、「青い山脈」のロケ地にもなったそうです。
立派な卯建が続きます。家そのものも大きな構えの家ばかりですので、品も格もある町並みになっています。
道は突き当たって直角に右に折れます。道角に石の道標。は恵那神社への道しるべ。恵那神社へ向かう細い道が伸びていて、川上道(かおれ道)と言ったそうです。
直角に曲がる道から、もう見えているのが「間酒造」。

                                                                

7、間酒造
間家は京極家に仕えた武士の家系。室町時代に美濃の国に移り住み、江戸時代には尾張徳川家の御用商人となり、美濃国屈指の豪商となります(間酒造HPより抜粋)。中津川宿の年寄役なども勤め、江戸中期頃から酒造業を始めています。
間大正の蔵でその一族が詳しく説明されています。
薦被りの樽が黒い格子戸の前に積み上げられ、軒の上には立派な酒林と「恵那山」と書かれた看板が上がっています。中津川は恵那山からの伏流水が豊富に流れていて、その水で仕込んであることから命名されています。卯建を上げた間酒造。通りに面して幾棟も続いています。店先には「景観重要建造物」と彫られた丸い石と季節の花を盛った籠が置かれています。

 

                                    


8,中津川橋
中津川宿の京口に高札場と共にあった常夜灯がひっそりとあります。今は痕跡はありませんが、この常夜灯の先に細い道が伸びていて中山道の旧道だったとのことです。前方に見える橋は「中津川橋」。当時は川上川(かおれがわ)と呼ばれて、恵那山を源としてやがては木曽川に落合う川です。

※落合宿から歩き続けて疲れましたので、ここからホテルに帰ります。が、歩いて行けると思って予約したホテルは、橋にして三本も上流にあり、道を聞きながら歩いて行こうとしたら、女性の方が家に帰る方向なので同乗させてくださると、送って戴きました。感謝です。

                            

9,津島神社参道~上宿の一里塚
翌日……ホテルにタクシーを呼んでもらって昨日の続きの出発です。津島神社参道の石碑を左に曲がり坂道を登っていきます。住宅街になっているところを進んで行くと「駒場村(こまんばむら)高札場跡」の石碑があります。家の板塀に高札が三つ掲げられています。こんな形は初めてです。中山道が古くは東山道といわれていた頃、この場所には宿駅の『坂本駅』があったのではといわれているそうです。
前方の急な坂道は「こでの木坂」。こでという木があるので「こで」をさがしてみましたが、植物図鑑には見当たりませんでした。どんな木だったんだろう。コデマリ?大木ではありません。方言でいう何かの木なのでしょうか。それにしても現在は坂には見えない道ですが、昔はけっこう急な坂だったようで、明治初期の天皇行幸のときには、駒場村の青年達が馬車の先引きをしてお通り願ったといわれています。
大正時代にバスが通るようになって道幅が広がり緩やかなS字状の坂になったとあります。
それでも緩やかな坂になっている道を行きます。梅が綺麗に咲いています。の上に「これより苗木道」と書かれた石像。顔が二つで胴体が一つの道祖神もあります。
そして「上宿の一里塚」。復元で当時の3分の1の大きさだそうです。
先に行きますが道はますます坂道となり少し息が上がります。遠くの山が見える見晴らしの良いところに出てそしてまた少し下って行くと「小石川立場跡」の石碑。数軒の茶屋があったそうです。
国道が見えてきますが中山道は途中で消滅して国道の側道を通って歩道橋の方に出るとまた中山道に合流できます。JR中央線の線路に沿って緩やかに進んでくと次の大井宿です。

                                                                


June 2005 瀧山幸伸  source movie

Map中津川東

Map中津川西

中山道 落合から中津川 ドライブ

Nakasendo Ochiai to Nakatsugawa drive

June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 中津川 ドライブ

Nakasendo Nakatsugawa town drive

     

旧庄屋宅

  

本陣跡

  

鈎曲がり付近

  

栗菓子 川上屋

鈎曲がりにある

   

名物ささ栗羊羹

  

品評会に出品した「菓子の花」

 

はざま酒造 酒遊館

 もう一つの鈎曲がり、街外れにある酒造場。建物にはうだつが上がり、格子と白壁のコントラストが印象的。

 蔵は天保時代とのことだが、店のある館内も相応に古い。天井が高く、梁を現し、庭には池を配し、潤いを演出している。圧巻は館内の仕込み水。静かに湧き、館内に凛とした空気を醸し出している。昔の道具を展示し、きき酒コーナーも設けているので、銘酒「恵那山」「五味饗宴」、あるいはここでしか販売していない限定醸造酒をテイスティングしながらゆっくりと寛げる。酒蔵見学も楽しめる。

       

中庭と池 奥は酒蔵

  

中津川から大井への街道

双頭一身道祖神

  

藤原家

  

甚平坂

   

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