岐阜県瑞浪市 大湫
Okute, Mizunami city,Gifu
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古く小さな中山道宿場の街並。素朴で美しい。 |
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Sep.30,2021 柚原君子
中山道第47宿「大湫宿」
概要
大湫の「湫」は水部に関する字で「とどこおる・土地が低くてせまい・みずたまり・低湿地」などを表すときに使います。大湫は高原地帯(海抜510m)の湿地帯に田を持つ小さな村であったそうです。江戸時代の中山道大井宿から御嶽宿間のルートは旧東山道とは違い改めて敷設したもので、特に大湫から細久手の間は樹海が切り開かれて設けられたために、13峠におまけが七つといわれるほどの幾度もの上がり下りの道が続いていきます。
現在でも最寄りの鉄道の中央本線から遠く離れていますので、大井宿のはずれから京に向かう山道の入口では「東海自然歩道は整備されていますが、途中の食べ物を買い入れる店はありません。計画をしっかり立てて歩いてください」という看板が出ているほどです。
大湫宿は江戸初期までは大久手と表されますが、1716(正徳6)年頃、ちょうど中仙道を「中山道」と書くように改めた頃、幕府から宿としての文書には「大久手宿」、村としての文書には、「大湫村」と書くように定められたそうです。
現在の書物では注意書きとしてどちらかの字を( )内で示しています。
このように大湫宿は入宿者を募って新しく造った宿駅ですから、家々の地割は6間半平均に正しく割られ、その境界にはすべて石積みの側溝が施され、計画的に造られた宿の様子を示しています。中山道の宿場は原則として50人50匹の人馬を置いて荷送りその他の役目をするのが決まりでしたが、大湫は小さい宿であったために25人25匹しか準備が出来ず、大きな通過があるときは近隣の加助郷に援助を求めなければならなかったそうです。また江戸寄りに13峠、京寄りに琵琶峠を控えているために小さい割には旅籠の多い宿(家数66軒のうち旅籠が30軒)です。
宿駅制度が廃止された頃は、宿内のメイン通りはその先が13峠へはぬけられない道であることと、鉄道が引かれたあともJR本線から不便であるために、宿内は驚くほど静かで、取りの残された歴史がそのまま残っています。
町並みは、江戸方面より北町、白山町、中町、神明町、西町までの東西3町6間、340m。1843(天保14)年の中山道宿村大概帳によると家数66軒、本陣・脇本陣各1、旅籠30軒となっています。
※
実は……2019年3月に一泊で落合宿・中津川宿と歩き、帰京する列車に間に合うまで大井宿方面の行けるところまで足を伸ばそうと大井宿内の本陣、脇本陣などを終了して大湫宿に向かう中野観音堂で終了して徒歩で駅に引き返しました。
そしてその後にやってきた新型コロナ禍。
他県に行くことを禁じられたり、解かれたりの連続で、なかなか出られずに結局は2年が経過した2021年6月に再び続きを歩くことになりました。四ッ谷立場跡の先にあるびやとい茶屋跡あたりで大井宿の記録を終了していますが、この日に歩いたのはもう少し先にある
深萱立場跡まで。
大井宿~大湫宿~細久手宿~御嶽宿の間は宿間が長く、山の峠をいくつも越えて行くことになりますので、健脚優秀の人はひと息に歩き通してしまうそうですが、そうでない人は途中の宿のどこかで一泊をするか、一泊しても翌日歩く自信がない人は、最寄りのJR駅からタクシーで、何度かに区切って日帰りで行くより他ありません。
私は「武並駅」にタクシーに来てもらって、中山道山道まで送ってもらい、歩き、この辺りで終了できる場所まで再びタクシーに迎えに来てもらって駅にもどるという、区切りながらのコースになりました。
山道のどこかで日が暮れても、国道と繋がっているところを目標にしないとタクシーに迎えに来てもらう目安にならないので、タクシーの予約から始まる用意周到な綿密さが必要な区間です。
また新型コロナ禍2年の間に膝と腰を痛めてしまった関係上、大湫宿の深萱立場跡以降の山路を長時間歩く自信が無くなり、大湫宿~御嶽宿間は峠の上がり折りが続いたり、タクシーでうまく連結できない部分は、残念ながら歩き通せていません。
新型コロナ禍の2年が本当に恨めしいですが、仕方が無いです。
今後の大湫宿~細久手宿~御嶽宿の記録は、歩けなかったところは場所の名前だけになります。
(歩けなかった区間として明記はいたします。)※
1,紅坂一里塚~牡丹岩~高札場跡~深萱立場跡
2021年6月です。
大井宿を終了した後、大湫宿方向に行かれるところまで行ってみることで出発。
「紅坂の一里塚」。
『太田南畝/壬戌紀行』の中では、『猶のぼる坂をべに坂といふ。左の方に芦のかりぶきして餅うるうば三人ばかりあり。一里塚をこえて大井まではいくばく里といふに二里ばかりありといへば、また輿にのる』。と綴られています。
その先にあるのが「ぼたん岩」。直径5メートルほどの花崗岩が牡丹の花状に見えます。学術的には「オニオンクラック」といい玉葱状剥離との説明です。言われてみれば確かに牡丹の花びらか玉葱のいづれかのようです。
5分ほど歩くと急に山が開けて民家の前に出ます。左手、神明神社の前に「三社灯籠」。この先にある深萱立場にあった茶屋本陣当主の加納三右衛門さんが奉納したものです。
突き当たりで国道に。左に折れて深萱立場跡と藤村高札場跡です。ここがちょうど大井宿と大湫宿との中間に当たる場所。
立場は籠かき人足が籠をかくために杖を立てるところからの命名。このあたり茶屋や立場本陣,馬茶屋など14戸の人家があった場所で本陣は宿場の本陣同様に門や式台のある立派な建物で、馬茶屋のほうも馬が濡れないように庇長く工夫されていたと、説明書きがあります。間の宿の様な役目があったのでしょうね。
山形屋跡。本陣であったのでしょうか。田園風景ですが進行方向はすぐに西坂となって山道に続いていきます。ここから歩いて大久後観音堂まで徒歩60分とあります。私の足だともう30分余計にみなければなりません。タクシー会社へ尋ねた電話では「大久後観音堂」まで迎えに行かれると言うことでしたが、ちょっと断念して本日はここ「深萱立場跡」に15時にタクシーに迎えに来てもらうことに。そして「武並駅」に出て塩尻経由で帰京します。
新型コロナ禍で次回いつ来られるものやら、と思いつつ……。
※
2021年9月27日。前回訪れてから三ヶ月経過したこの日。朝7;30東京発ひかり33号で名古屋に出て,中央本線で「釜戸」駅に。待ってもらっていたタクシーに乗車して大湫宿の「宗昌寺」をめざします。
に前回訪れてから三ヶ月経過しています。コロナ緊急事態宣言が解けて他県に出向いても良いといわれて解除の三日前でしたが出掛けました。
前回は大湫宿をめざして,大井宿と大湫宿のちょうど中間にあたる深萱立場跡まででした。その先、「大久後観音堂」まで1時間半。その先「権現山の一里塚」「尻冷やし地蔵」までさらに1時間半。合計3時間。山道歩くだけで終わってしまいますので、残念ですがこの間はパスすることにします。
歩けなかった区間の主な場所名だけ記します。
歩けなかったところ……西坂・ちんちん石・茶屋坂・観音坂・権現坂・大久後立場跡・大久後観音堂・鞍骨坂・炭焼き立場跡(13峠で特に展望の良いところ)・吾郎坂・樫の木坂・権現山の一里塚・巡礼坂・(お助け清水)・びやとい坂・阿波屋茶屋跡・曽根松坂・三十三観音石窟・地蔵坂・尻冷し地蔵・しゃれこ坂・山之神坂』……坂だけで13個所…。
2,宗昌寺
タクシーで宗昌寺に到着。
「尻冷やし地蔵」まで戻ってみようかと歩き始めましたが、坂の上り下りを一度してあきらめ、「童子ヶ根」まで行き碑を確かめ「寺坂」を下りて石仏石塔群を過ぎて結局「宗昌寺」より開始。
宗昌寺は天正年間(1573~1592)に大湫村を開いた保々宗昌が1600(慶長5)年に従来あった小庵を改めて建立
開基。保々家は関ケ原の闘い以後大坂の陣で徳川方として従軍した家柄。そのために本陣や問屋、庄屋などをまかされていたので,大名たちが重なるときはこのお寺が控え本陣の役目もしています。山道から下りてきた所にあるので大湫宿の居並ぶ屋根が見渡せます。
寺の入口の石碑には太田南畝の壬戌紀行(じんじゅつきこう)の一部が抜粋されています。
『これよりいわゆる十三峠とやらんを越えゆべきに飢えなばあしかりなんとあやしきよどりに入りて昼食を食す興かくものに、委しを問いて十三峠の名をもしるさまほしく思うにただに十三のみにはあらず詳しくも数えきこえなば二十ばかりもあらんと興かく者いうはじめてんぼる坂を寺坂といい次を山神坂という』。お堂と梵鐘のあるこじんまりとしたお寺です。
3、本陣
宗昌寺を下りきると道は枡形になり左側に曲がって一直線の大湫宿のメイン通りになります。
緊急事態解除の三日前に訪れてしまったのでちょっと失敗です。旧旅籠三浦屋(国登録有形文化財)のおとなりに問屋の丸森(森川家・国登録有形文化財)があり公開されているのですが、中に人はいらっしゃるのですが、政府のお達しなので、と入口の戸は開いていましたが入れてもらえませんでした。それなので入口より見える数枚の写真だけ撮らせて戴きました。江戸末期の建物とのこと。
向かい側の公民館のような案内所にも入れません。大湫宿の資料があると思うのですが、残念です。
公民館の前に白銀に光る平成3年設置の説明書きには、大湫宿の戸数は1861(文久元)年において86戸。そのうち旅籠が45戸とあります。中山道の宿の人口を調べた戸口統計となる中山道宿村大概帳は1843年(天保14)調べのものですから、20年の間に戸数が20戸ふえて旅籠は15戸ふえたことになります。小さな宿ではありますが、前後に峠をいくつも控えている地点としてはなるほどと思えます。
問屋丸森の前は少しの広場と階段を昇っていく小学校跡。ここは本陣があった所です。
本陣跡の大きな説明書きが出ています。
『本陣の造りは間口22間(約40m)、奥行き15間(約27m)、部屋数23、畳数212畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎。また数々の宮姫のほか皇女和宮が14代将軍徳川家茂へ御降嫁のため文久元年(1861年)10月28日に宿泊されている。和宮様が御泊りになった部屋全部は、土岐市の鈴木さん方へ移築されている。』
説明書きのある横の広場には和宮様の陶製像が三体あります。石段を昇っていくと元大湫小学校の校庭に(大湫小学校は2005年に釜戸小学校に統合)。石段を登り切った左手に16歳で降嫁して中山道を下っていった和宮様が詠んだ歌『遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり』と『思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは』が刻まれています。
斜め向かい側に立派な虫籠
(むしこ)窓が三個所もある商家があります。江戸時代の裕福な商家や民家は二階建てを持つことが出来ましたが,武士を見下ろしてはいけないということで今のような高さはなく、中二階のようなもので主に物置に使われていたようです。袖壁や虫籠窓は富の象徴であったようです。このお宅は門戸屋さん。何やさんだったのでしょうか。
しばらく行くと時代劇で見たような防火用水と白山神社。キョロキョロしているうちに問屋場跡碑を見逃してしまったようです。
4,脇本陣
街道から石段を上がったところに見えるのが脇本陣の保々家。本家からの分家(南家)。当初は本陣二つでしたが、1727(享保10)年に脇本陣となっています。国登録有形文化財ですが居住中ですので立ち入り禁止の札が下がっています。
外から拝見しました。江戸中期の建物だそうで、正面上部に虫子窓、桔梗紋の漆喰飾などがあり外壁は塗屋造、白漆喰仕上げ、荘厳な感じです。脇本陣とは言え、元は本陣でもあったわけですから格式高く、門構え、式台付の玄関や、上段の間、下段の間などが備えられ、建坪は開口16間余、奥行き6~12間の98坪。部屋数19、畳数121畳。別棟4。一部改修・縮小されているものの、概ね往時のままの姿をとどめている、と資料にあります。
5,神明社 大杉
五分ほど歩くと神明神社。創建は1608(慶長13)年と伝わり、東に鎮座する白山神社とともに旧大湫村の鎮守様。鳥居の東側に大杉がかつてはあって岐阜県の天然記念物になっていましたが、
2020年7月の豪雨で倒壊。訪れた日は倒木から1年以上経っているにもかかわらずそのままの形で倒れた大杉が神社のほとんどを埋め尽くしていました。まるで怪獣が倒れて悲しそうな姿に見えました。
倒れた原因を名古屋大学などのチームが調査した結果、樹木の高さに比べて根元の小ささが原因だったとか。また樹齢を調べたら、これまで言われてきた1300年ではなく、推定670年ほどではなかろうかと。また倒木は神社側へではなく道路を隔てた民家側に倒れたにもかかわらず、家と家との間に倒れたので人的被害はなく、さすがに御神木という驚きもあったそうです。
ちなみに大杉の下からは泉が湧いていたという記述がありますが、この地域は水分(みずわけ)之泉で木曽川水系と土岐川(庄内川)水系との分水嶺線上の位置。木曽川水系は「大戸水道」、土岐川水系は「神明水道」。その双方が流れているようです。神明神社の名称やJRの釜戸駅などの名称はこれらに由来するのかも知れません。
6,観音堂
神明神社を過ぎて道なりに少し行くと右手の山に登っていく階段があります。大湫宿に過ぎたるものあり、と俗に言われている観音堂です。もともとは先ほど過ぎてきた神明神社の境内に建てられていたものだそうですが、古記録によると1721(享保⑹)年に現在地へ移されたこと、1824(文政7)年の大火で焼失したこと、1847(弘化4)年に再建されたことなどが記されているそうです。
天井は格天井となっていて、60枚の花鳥草木の絵が60枚もあり色彩も優れ、160年を超える歳月を感じさせない秀作であるとして瑞浪市の有形文化財に指定されています。
観音堂にはどなたもいらっしゃいませんし、お堂にはもちろん鍵が掛かっていますので、ガラス戸にカメラを押しつけて数枚を撮らせていただきました。きれいな花鳥草木の絵。直に仰ぎ見たい気持ちです。
記録によると「弘化四丁未春・暁峰三尾静」の銘も見られ、この絵天井が弘化4年の観音堂が再建された際に描かれたことや、絵師は恵那郡(えなぐん)付知村(つけちむら)(現中津川市)出身の画人で、美濃・飛騨をはじめ尾張・三河・信濃など広範囲にわたって活躍した三尾暁峰(みおぎょうほう)であることが解っているそうです。
高台で見晴らしが良いので、お昼ご飯を使わせていただきました。田の稲が実って光っていました。
7、高札場~二つ岩
観音堂を下りてくると高札場。立派なものです。本物は過ぎてきた公民館(大湫コミュニティーセンター)にあるそうですが、今日は緊急事態宣言のため開設されてなくて見られませんでした。高札の内容は主に五つに分かれていて、①親子兄弟札 ②毒薬札 ③駄賃札 ④切支丹札 ⑤火付け札など。高札場の前ではかぶり物を取っておじぎをする宿もあったそうで、幕府の威光を示す場所でもあったようです。
高札場の先で道はYの字に。左は国道65号線で釜戸の駅まで4㎞。右が中山道。コスモスが揺れる中を行きます。途中左側に大湫病院などもありますので多くはありませんが車の行き交いもあります。五分ほどで小坂の馬頭様。塚が二つ。その先また五分ほどで二つ岩。弁慶が持ってきたとも言われています。形のままに名前が付いていて烏帽子岩と母衣岩の二つの大岩です。太田南畝もおどろいた様子で『石のひまひまに松その外の草木生いたり まことに目を驚かす見ものなり』と
壬戌紀行で書かれた一節が石碑となっています。
また歌川広重もこの岩の辺りの風景を大湫宿として残しています。岩を過ぎて左側の大湫病院をすぎると右側の山道際に琵琶峠への入口が見えてきます。
8,琵琶峠
琵琶峠に登っていく東口にある説明版
『中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などににより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっています。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大鍬町・日吉町にまたがる約13㎞の中山道は、丘陵上の尾根を通っているために開発されずよく原形をとどめています。特に、この琵琶峠を中心とする約1㎞は、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め、側溝なども残されています。歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。岐阜県教育委員会』
現在時間は12時40分。15時には峠を越えた先の国際犬訓練所のところにタクシーのお迎えを頼んでいるので,それまでには峠を越えなければなりません。どのくらいの上り坂で時間通りに行かれるのか少し心配ですが、出発します。
「琵琶峠」の琵琶とは、京都へ琵琶の修業に出ていた法師が、修業がままならず、失意のうちに帰国する際この峠に吹いていた松風の音で、その奥義を悟った事に由来するそうです。
琵琶峠は麓からは80メートル(標高585m)の高さにあります。長さ1キロのうち730メートルが石畳みで、現存する街道の石畳では落合宿の十曲峠、旧東海道の箱根よりも長く国内最大の長さです。しかも旧中山道が廃止されてから使用されずに残っていた山道なので、枯葉や土で埋まっていたために保存状態も良く、そっくり発掘することが出来たとのこと。
大きな石が多いので、歩くとき石畳みの間に挟まらないように注意して歩きます。敷石するときのノミの跡などが残っているとのことでしたが、苔むす場所ばかりで見つけられませんでした。上り下りが続きますがそれほど難儀でなく歩けます。見晴台に登るところが一番の急坂でした。その手前に文学碑が三つ。
『中山道琵琶嶺 千戌紀行 木曽路名所図会 秋里離島 著』
細久手より壱里余りにあり 道至って険しく岩石多く 登り下り十町 許りなり。坂の上より丑東の方に木曾の御岳見ゆる 北には加賀の白山
飛騨の山の間より見ゆ。白山は大山なるが故に麓まで雪あり 日本三番の高山なり 西に伊吹山見ゆる 母衣岩は琵琶峠の下にあり、烏帽子岩は右の傍にあり 何れも其の形をもって名とせり
『中山道琵琶峠 新撰美濃志 岡田文園 著 1830~1860年』
琵琶峠は細久手に至る大道の坂をいう 岩石多く道険しく 登り下り十町 計りもあり。坂の上より巳寅の方に木曾の御岳見え 北には加賀の白山 飛騨山の間より見ゆ 白山は大山なる故、麓まで雪あり 西に伊吹山も見えて好景なり 母衣岩は琵琶坂の下の路傍にあり たて横二丈計の大石なり烏帽子岩は母衣岩の西に並べり 大きさ母衣岩ほどあり 遠近の人よく知れり中山道『琵琶坂
打出浜記 烏丸光栄 卿 1746年』
大久手という所より琵琶峠というを越ゆ 今日の道すべて山の尾の上なり 峠より彼方・此方を見渡すに越の白山峯越しに 山の腰わずかに見ゆ 見るがうちに 雲へだたりぬ み越路(北陸街道)の白峰(加賀白山)何処と白雲を振りさけ見れば雲に消えつつ 伊吹山の遥かなれどさだかに見ゆ
※現地でははっきり読み取れませんでした。気になり帰京後に調べたら以上のようでした※
見晴台は近年になって整備されたようで、周辺の木々が伐採されて東屋も出来て山に面して休めるようなっています。ここからは遠く伊勢湾、白山、伊吹山が見えたと言われていますが、どうやらそこまでは無理なようです。後から登ってきたご夫婦が屏風山と少し霞んでいますが恵那山では?と教えていただきました。
9,八瀬沢の一里塚
琵琶峠の見晴台を降りて行くとこんもりとした山状のものが二つ樹木の間から見えます。八瀬沢の一里塚。当時のままの姿だそうです。おまんじゅうのように美味しそうな形です。石畳みの中にノミの形のある石があるのかと想像していましたが、この右側の一里塚の手前にある大きめの石に上から順番に五つばかり切り込んだ跡が残っていて、これがどうやらノミの跡のある石のようです。
一里塚を過ぎると一般道があり、それを越えた辺りで石畳みが消えていきます。山は下り道となり草道を降りて行くと視界が開け、何やら瀬戸物のオブジェが飾ってある民家にでます。その先に「琵琶峠西上り口」碑。
振り返ると琵琶峠に続く道が細く暗く見えます。12時40分に上り始めておおよそ1時間の峠越えでした。
10、一つ茶屋跡~帰京
八瀬沢をぬけて普通の道に出てきました。バス停とその先に北の坂の標識。廻り国塔なる標識がありましたが森の奥の暗いところにあり,なんだか解りませんでした。道は直進と右側と二分かれますが、中山道は直進。右手に養鶏場が現れてその先が本日の終点としていた「国際犬訓練所」です。時間は14時。
タクシーが瑞浪駅から来てくれるようですが、その到着までにまだ1時間ありますので、細久手宿の方に少し行ってみることにします。
10分ほど緩やかに下って行くと「一つ茶屋跡」の標識。その先はさらにゆるやかな下り坂ですが、その向こうには再びの長~い上り坂……行かれるところまでといっても往復を考えると片道20分ばかり。下りた坂は登って帰ってこなければならないことを考えると、この先にある標柱二つ(天神継ぎの地蔵尊と焼坂の馬頭様)を見に行く気力が急に失せて,矢張り犬訓練所の前でタクシーを待ち、中央本線瑞浪駅→名古屋→新幹線で東京へと帰ることとします。
Nov.22,2014 瀧山幸伸 source movie
A camera
中山道を細久手方面へ
天狗塚
B camera
細久手
御嵩方面へ
大井から大くてドライブ
May.2005 瀧山幸伸 HD(1280x720) supplied on demand.
細久手と大湫
大井から御嵩に至る中山道は、往時の姿を良くとどめている。その中でも特に大湫と細久手の間が最も素晴らしい。街並も江戸時代からそれほど変わらない。この区間は大きな道路もないので通過交通も少ない。琵琶峠付近には石畳が残り、一里塚、馬頭観音、弁天池などが散在する快適なハイキング路だ。
大湫は、特に何があるわけでもない小さな宿場だが、小さな盆地にあり、箱庭のような景観が印象深い。
宿場はすぐ後の山を背負い、その山裾、宿の中心に神明神社がある。町外れには高札場、次に観音堂、ここから俯瞰する街並が感動を呼ぶ。
古い建物が訪問者の憩いの場「おもだかや」として動態保存されている。数軒の虫籠窓も街並にアクセントをもたらす。
残念ながら本陣跡は小学校となっているが、問屋場、桝形などを今にとどめ、宿のスケールがこじんまりしており、自動車が少ないことも含めなんとなくほっとする宿だ。
母衣岩・烏帽子岩付近では広重の絵と同じアングルに出会えるのも興味深い。
May.2005 瀧山幸伸 HD(1280x720)
高札場
観音堂
神明神社
大くての街並
本陣跡付近
おもだか屋 休憩施設
細久手と大くて
Aug.2003 瀧山幸伸 source movie
虫籠窓が美しい
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