岐阜県恵那市 大井
Oi,Ena City,Gifu
Category
|
Rating
|
Comment
|
General
|
||
Nature
|
||
Water | ||
Flower | ||
Culture | ||
Facility | ||
Food |
Mar.2019 / June 2021 柚原君子 中山道第46大井宿
概要
岐阜県中津川市阿木周辺地域の地誌を編纂するプロジェクトである安岐郷誌(オンライン地誌)によると、本陣の近くにある少し小高い丘の大井小学校が中世の城砦で遠山十八支城の一つに数えられる大井城のあった場所ではないかと推定される、と出ています。
しかし、堀跡らしき盛り上がりが多少残っているかいないか程度の感触で、発掘後に重要な遺跡が特に出たわけではなく、結論的には推測の域を出ていない、とも書かれています。
また岐阜県恵那市としては大井にあるもう一つの城、鷹撃谷城(たかちがやじょう)(城砦)を大井城跡として登録し標柱も立てられているとのことで、今後新たな何かが出るまではどちらが大井城であったかの結論は待たねばなりません(大井城は廃城になったあとも、また砦のような城を築いたりしていますので、どちらの地も一時は大井城であったのかもしれません)。
大井城の所在はともかくとして一帯は美濃地方と信濃地方の接点地で遠山荘大井郷と呼ばれたところ。
応仁の乱の頃には土岐氏一族の大井遠江守行秀が居城していたと思われ、その後室町幕府の命を受けた東軍松尾城 (長野県飯田市)
の小笠原家長や木曽福島の木曽家豊が東美濃攻略のために西軍土岐氏の居城である大井城を攻撃、同年11月に落城した、という記録が『遠山来由記』にあるそうです。
戦国時代になると再び、遠山氏の命により藤井宗常、常守兄弟が大井城を修復、鷹撃谷(たかちがや)に砦を築いた
、と武並神社文書にはあるそうでが、最終的には、安土桃山時代に、武田勝頼の岩村城遠征の際に城も砦も陥落した、となっています。
(参考文献:安岐郷誌、ウキペディア)
中山道の前身である古代東山道の頃より栄えたという大井宿は、美濃十六宿中で最も繁栄した宿です。宿の本通りも長く、枡形が6ヶ所もあり、旅籠は四十軒もあってたいそうな賑わいだったそうです。
次宿である『大湫』までには十三峠と言われるほどのいくつもの峠が待ち構えて長い山路が延々と続いていきます。
現代でも大井宿を過ぎて大湫、細久手から御嵩までの間はほぼ山路で鉄道からもかなり離れていますので、大井宿を過ぎて山道に入ると『東海自然歩道』と名前はついていますが、三十里はこの先何もないので充分に用意をして歩いて下さい、という看板が立っているほどです。
また宿内には遠州に続く秋葉道と呼ばれる岩村街道のへの分岐点がありますし、山中には中山道を上と見て付けられた名前の『下街道(したかいどう)』の追分もあります。下街道は、諸大名も通行を許されていた伊勢参拝や名古屋に向かう道で、信州や木曽の木製品、麻製品を尾張国に、尾張国からは塩、陶器、綿、牛馬などが持ってこられている道でもあります。
江戸時代には現在の恵那駅前一帯は田畑や原野ですが、1902(明治35)年に大井町駅が開業すると(1963年、昭和38年に恵那駅に改称)、大井町がこの地域の物資の集散地となり、駅前からは、正家、東野から岩村、明知方面への南北街道が整備されます。
それとともに1906(明治39)年に岩村に通じる電気鉄道が開通し、1934(昭和9)年には大井~明知間に国鉄明知線が開通したために、さらに大井駅が物資流通の要と成り商業地とて発展します。
現在、大井宿から山路にはいり、国道に時々であいながらも大湫、細久手と歩くためには、鉄道から離れているために細久手での一泊が薦められていますが、健脚でない場合は中央本線の『武並駅』または『釜戸駅』よりタクシーに迎えに来てもらって駅まで戻る日帰りもお薦めです。
山中に延々と続く中山道は意外と道幅は広く(当時のままとか)時々石畳み、尾根なども出現して、『東海自然歩道』の名にふさわしい景色が続きます。熊出没注意の看板は一度も見かけませんでしたが、里と森が近い時代ですから熊鈴と口で吹く笛などがあると安心です。
天保14(1834)年中山道宿概帳によると、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋は41軒、宿内戸数110軒、人口は466人。
1,六地蔵石幢~坂本立場跡
落合宿・中津川宿を訪ねた続きに足を伸ばした大井宿です。
中津川宿のはずれから大井宿本陣を過ぎて恵那駅近辺で終了して、以後すぐに続きを行くつもりでしたが、新型コロナ緊急事態宣言があり、結局2年後の2021年4月まで再訪できませんでした。大井宿の記録は2年がかりということになります。
まずは2019年3月5日の中津川から大井宿へ向かう記録です。
六地蔵川にかかる六地蔵橋の先の六地蔵石幢から出発。
六地蔵石幢は1657(明暦3)年造立されたもので、石灯籠の灯りが灯る所にお地蔵様が彫られています。本来は寺や墓地の入口に置かれるもの。南へ百メートル入っ大林寺所有。水害と旅の安全のためにお立ちの仏様たちです。
六地蔵は釈迦入滅後に六つの分身としてこの世に現れて人々を救い常に六道を巡って極楽に行ける様に力を貸す仏様で平安末期に始まった信仰、と説明にあります。
少し下り坂の道が気持ちよく曲がって続き右側に坂本神社八幡宮、その先千旦林村高札場の跡碑。この近辺は立場でもあったそうです。やがて左手に馬頭観音。過ぎると道はYの字に。左手に入っていきます。坂本文化遺産保存会の立て札もそちらに行くように示してあります。中平の集落を進んで行きます。舗装道路がオレンジの石と黄色の石で表されて、これがどうやら中山道への導きのようです。
将監塚にでました。岡田将監喜同は大久保長安に続く美濃の二代目の代官。織田信長に仕えとあります。戦国時代に生きた人ですね。過ぎて電柱の奥に三ッ家の一里塚跡碑。過ぎると道は緩やかな昇りとなり坂本立場跡にでます。JRの駅『美乃坂本』に近い場所。ここは千旦林村と隣の茄子川村との村境。東山道の頃は宿場があった所。
2、尾州(尾張と遠州)白木改番所跡~篠原茶屋本陣
坂本立場跡を過ぎると道はまた急な下り坂に。昇ったり降りたり足がくたびれます。左側に10体の石仏。県道の橋架をくぐって左に折れるとすぐに見える茄子川を渡って中山道は続きます。右手に馬頭観音が祀って有る坂本観音堂。左側に屋根の傾斜が低い立派な町家が続きます。袖壁もあり間口の広さも立派です。旅籠だったのでしょうか。小さな橋を渡ると十字路の向かい側に茄子川村の高札場跡。大井宿の東口。
5分ほど歩いて行くと尾州(尾張と遠州)白木改番所跡。
坂本地区文化遺産保存会による立札があります。
『この番所がいつ設けられたか詳しい記録はないが、尾張藩が享保16年(1731年)茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるので、これに対応して設けられたものであると思われる。寛政元年(1789年)の「中山道筋道之記」には「番所錦織役所支配」とある。尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸送は、重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材の榑木(くれ)、土居等白木類は牛、馬による駄送の方法がとられていた。木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていた。これ等の施設は明治4年(1871年)廃藩置県によって廃止された。』
途中長連寺薬師堂の立て看板を過ぎてしばらく行くと左に立派な家が見えてきます。
『篠原茶屋本陣』です。
茄子川村は高札場も立場もある間の宿の機能を与えられていました。間の宿の本陣は茶屋本陣と呼ばれ、宿泊より休息を主としている事が多いのですが、ここ篠原家は遠州秋葉道の分岐点もあることから宿泊も出来る大きな茶屋本陣であったそうです。和宮様や明治天皇が御小休した建物もお部屋も当時のままに現存とのこと。とても大きな立派な茶屋本陣です。篠原家の角にある十字路が遠州秋葉道。1803(享和3)年に建てられた常夜灯もあります。
3、茄子川解説板から関戸の一里塚
茄子川の説明版には茄子川村がかなり大きな村であったことが記されています。陶磁器を総称してセトモノといいますが、愛知県瀬戸市を中心にして出される瀬戸物焼きからその名称が来ています。全国各地にいろいろな土の陶磁器がありますがここ大井宿は茄子川焼。
1578(天正6)年、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉(ゆう)陶器を焼いたのがはじめで、その250年後、篠原利平治が越中(富山県)から来た水野粂造と共同で五室の連房式登り窯を築いてからで、人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成した、独特な風雅な味をつくり出した奥州の相馬焼きに似た『茄子川相馬』だそうで、峠の茶屋でも売っていた、と説明板にあります。
三面八臂の馬頭観音を見ながら広久手坂を登って下ると岡瀬沢の信号。この辺りは牛の背に荷物を乗せて運び、牛と共に同じ所に泊るという牛宿のあった場所です。秋葉道の追分地ですので物資の往来も激しかったのでしょうね。木立の中に庚申塔。過ぎると甚平坂で昇ると御嶽山が正面に見えるとても見晴らしの良い場所に出ます。
甚平坂の由来は
『鎌倉時代に家来で信州に住んでいる、鷹を使うことが大変上手な「根津甚平」という強い武士がいて、塩原の桔梗原あたりに悪い鳥(八重羽の雉子……くちばしは剣の様に尖り、羽は鋭い刃のよう)を源頼朝が根津甚平に退治を命じます。甚平は家来や犬を引き連れて退治に桔梗原に出掛けます。笛や太鼓や犬の鳴き声に驚いた悪鳥は西に向かってまっすぐに飛びたち、当地の大井宿の岡瀬沢まで甚平は馬に乗って追いかけますがこの沢で馬と共に倒れ死んでしまいます。土地の人は甚平の霊を祭る宝篋印塔や神社が建てます。付近には甚平と運命を共にした馬と犬を葬った馬塚と犬塚も造られています』ということが犬塚、馬塚の説明にあります。
倒されることの無かった悪鳥はその後どうなったのかと、思いながら雄大な景色のある峠で休みました。関戸の一里塚は跡碑が一本立っていました。
4、本陣跡(門のみ)
中央道を跨ぐ恵那峡橋を渡ると大井宿本陣までもう少しです。行き倒れたあるいは働き過ぎた馬に祈りを捧げる馬頭観音様は上宿八人の女講連中で建てる、とあります。エンジェルの様な羽の出た優しい顔です。ここは寺坂。小さな坂を幾度上り下りしたでしょうか。でももう宿内です。菅原神社。慶長年間の創建。中津架道橋をくぐり坂を降ります。五妙坂。石垣に高札場の案内。江戸時代の様に復元。
大井宿には六ヶ所もの枡形があります。一つ目の枡形のすぐ先に大井宿本陣跡。林家本陣の門が残っています(母屋は昭和22年に焼失)。本陣門は安土桃山様式、屋根は反りを持たせた瓦葺き、破風板や彫刻も見事、と立て札にあります。ちなみに長屋門は明治初期に堅町の古屋氏宅に移築されているそうです。
本陣の裏手に内城稲荷神社があります。内城の城は大井城の事。概要にも記しましたが、近所にある大井小学校のあたりが城であったのでは、といわれています。その横に和宮泉。泉の水を飲まれたのですね。
5、庄屋古山家住宅(ひし屋資料館)
枡形を抜けるとすぐに古山家住宅(大井村庄屋・現ひし屋)の立派な建物が現れます。見事な形です。案内版をそのまま記します。
『古山家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売を営業していた。そして享保年間から幕末まで約150年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。屋敷は間口10間半(約19m)・奥行35間(約63m)の敷地の中に、14畳・10畳・8畳の部屋など合計8室、それに土蔵をもつ広大な建物があった。今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある10畳2間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。 恵那市・恵那市教育委員会』
現在はひし屋という資料館になっています。白の漆喰で仕上げられた外壁や格子戸をはめられた二階、その横に菱のマーク。角を曲がれば家と一体になっているかのような土蔵があり、その形に商家ではないさすがに庄屋という威厳があります。
資料館に入ってみました。農機具が並べてあるところが多いのですが、さすが庄屋様の家ですね。年代物のお雛様がたくさん。貴重な土雛もたくさん。近代的なミシンからもちろん農機具も少し。邸内の室数も多く歩き回れますし、庭も土蔵の見ることができてお薦めです。
ひし屋の向かい側に宿役人の家があります。本陣である林家から分家した林さんで、明治に至るまで60年間を問屋役をつとめ名字帯刀を許されたとあります。問屋は宿場で人馬の継立などをして、公人、公文書また個人の旅人や書簡などの継ぎ送りや休泊に関する事務を把握する場所で、問屋役人はその責任者。幕府道中奉行の命をうけて宿場の通行が滞りなく進むようにする重要な役人です。
この問屋宿役人の家は、間口7間半、奥行25間あり、11・10・8・6・4畳などの部屋が14室もある大きな旅籠屋であったそうです。ひし屋といい、宿役人の家といい豊かな大井宿が想像されます。
向かい側に下問屋跡を示す看板がありますが、ここが脇本陣髙木家。先ほどの宿役人の家が上問屋で、こちらが下問屋。上と下は一ヶ月を半分ずつ、馬や人足を使い荷を運ぶ業務に就いています。
『旅館いち川』の大きな看板。前身は寛永年代に初代市川佐右衛門氏が旅籠屋「角屋」の開業で。明治初年になって旅館いち川に屋号が改められます。
枡形が多いのであちらこちらに曲がることになりますが、旅籠角屋を曲がった先が『大井村庄屋古屋家』。前出のひし屋資料館は同じ庄屋ですが古山家、こちらは古屋家。ちょっとまぎらわしいですが、当家は江戸時代には商業を営み、天保元年から20年間ほど庄屋を勤めた家。間口15間で街道に面した右側に表門があります。茶室や15畳二間続きの特別客室、庭園などがあるおおきな屋敷。その上、北側屋根には卯建を付けて土塀は厚さ30センチの火防壁となり全体に火災予防が施されていたそうです。
再び枡形。7日市が開かれるのでそう呼ばれるようになった市神神社を左に折れると旅籠らしき町屋が数軒。過ぎてまた枡形。阿木川の橋を渡ります。左前方に見えるのは恵那山。
明智鉄道の恵那駅を通過して大井宿内西の方面に。重厚なサッポロビールの看板。窓に特徴の有る商店などが続きます。左側に中野村庄屋の家。和宮降嫁通行の際に助郷村(宿の人手や馬の疋が足りないと近郷の村は人・馬を供出して助けなければならない江戸時代の法律があった)である野井村が賄い役に就かせられることになりましたが、このことを不満に思った野井村の百姓の一人が代官に切りつけた場所、と説明版にはあります。熊崎新三郎事件の家とも言うそうです。まるで忠臣蔵の様なお話です。
洪水があるたびに板で止めていた石の支柱のようなものを見ながら中野観音堂に。中野村の高札場があった場所でもあります。駅前に引き返すついでに中山道には関係ありませんが、3階建ての木造の旅館がまだ健在であるので寄ることに。
「信濃屋」さん。大正元年の建築。かつて福沢桃介と貞奴、北原白秋も訪れた由緒ある旅館です。
昨日から落合宿、中津川宿と一泊行程で歩いてきましたので、中野観音堂で折り返して、信濃屋旅館を撮影して、本日はこれで終了。恵那→中津川→名古屋→味噌カツ定食を食べて新幹線で東京に帰ります。
*-------------*次回はコロナ騒動で2年後となりました。*-----------*
8、西行硯水公園
コロナの影響で2年ばかり中山道訪問ができませんでした。今日は2021年6月。再訪です。先回は恵那駅を過ぎた先の中野観音堂まででしたので、本日はその先へ。
朝7時新宿発、塩尻から特急しなので名古屋方面に。中津川で降りて明知鉄道普通列車で恵那駅下車。11時半出発です。
駅前の栗きんとんの菊水堂は閉まっていました。
中野観音堂を過ぎて大通り左手に見える歩道橋をくぐって右側に中山道は続きます。今日は十三峠と呼ばれる起伏を行かなければなりませんので豊玉稲荷神社が有りますが、階段が長いのでパスします。西行硯水公園。思っていたより小さい泉。西行が3年間庵を結んだ場所。その先は大きな道に案内が無く少し迷います。飲食店の方に訊くと線路を渡るとのこと。渡る手前に案内。渡ってすぐ左の道へ。ここは案内有り。農道のような道を行くといきなり山に登る坂道が見える。
『これより十三峠』の石塔案内があります。その脇に手書きの注意書きが。
『中山道はこれより御嵩宿まで30㎞。幹線道、鉄道を外れて山間を行きます。途中、食堂や商店や宿泊所はありません。充分な準備下調べで前にお進みください』。同じ事が英語でも書いてあります。
中山道ではもしかしたらここが一番の難所かも知れないと物の本にはありましたが、山路が延々と30㎞は少し恐怖です。
私はここのところ足が悪くなっているので1日歩けるのは3時間から5時間。今日は山路に入りますが、途中の深萱立場跡(高札場跡)で国道に出会うため、そこにタクシーで来てもらう予約をして、そこからは武並の駅に戻る予定です。いろいろな本の行程には1時間半くらいで行かれる距離のようですが、用心をして3時間とっています。
熊鈴と笛を鳴らしながら行きます。
十三峠の始まりは西行坂。お昼ご飯を食べていないこともあったかもしれませんが、今日の行程で実は一番厳しい登りでした。10分くらい登ってまだ山の中に完全に入らない前に道路に座り込んでおにぎりを食べて、足と腰のコルセットをきつくして、登山ステッキもだしてと用意万端にして昇り始めます。
馬頭観音と石仏。1798年建立。木枠に支えられている階段状の山路を上るとその先は石畳み。美濃大井宿と中山道の大きな案内図があります。
西行は富裕な北面(院を警護する)武士で妻子もあったのに僧となって全国を行脚します。新古今和歌集に97首も入る歌人。終焉の地は各地に10ヶ所はくだらないそうですが、ここものその地の一つで葬った場所とも、供養塔があるのみとも言われています。西行塚は少し山の上の方にあるようです。足が悪いので行きませんでした。
10分程ややゆるやかになった山路を昇り進んで行くと槇ヶ原の一里塚。両塚があり休憩のトイレもあります。一帯は西行の森と名前が付いています。暑いのでタンクトップに長袖シャツに変更。首から下げた笛を吹く。熊鈴はリュックで絶えず鳴っている。幸いなことに熊出没の看板は一つも無い……今のところは。
道幅もけっこうあって、時折近くに工場の屋根などが見えたりするので、気持ちが少し和らぐ。先ほどの西行の森あたりが尾根道で抜けると国道に出た。左に折れて大型ダンプが激しいスピードで行く道の端っこを歩く。こんな所にという場所に小さな文字板。『茶屋槇本陣跡』・『茶屋水戸屋敷跡』。小さな杭なので見落としそう。こんなところに、というよりも本来の中山道に国道を通したんだね、と改めて思う。
前方に見えてきたセントラル建設の会社の前の細い道を山の方へたどる。
すぐに『槇ヶ根立場茶屋跡』。茶屋が9戸もあった場所。明治の初めに宿駅制度が終了して鉄道が整うようになると、中山道を行く人も少なくなり、どの店も里の方に降りてここには茶屋の跡や古井戸や墓地のみが残された、とあります。
隣の立て札は『伊勢神宮遙拝所』。礎石はとあるので探しましたが、どれが礎石か解らず。伊勢神宮に行きたい人が遠くて行かれないので拝んだ場所です。現在は槇ヶ根ですが江戸時代は巻かね村とも呼ばれていたそうで、商人や伊勢神宮、善光寺参りの人々などで賑わったそうです。大湫宿まであと二里。大井宿からやっと三分の一の場所です。
割と平坦な道が続いています。槇ヶ根立場跡から3分位歩くと槇ヶ根追分に。中山道を上街道として「下街道」とよんだもので、土岐、多治見を経て名古屋から伊勢に向かえる道です。諸大名の通行も許されていた下街道でしたが、中山道の宿場駅業務保護のために商業に関しては厳しく取り締まった、と説明版にあります。
過ぎて再び山路を行きます。東海自然歩道の印や目的地までのキロ数が頻繁に詳しく出てくるので助かります。熊出没の看板は皆無。それでも用心のために笛を吹きます。
『姫御殿跡』の案内。少し上にありますが下からの写真にします。和宮降嫁の際にお休み処として御殿を建てた場所です。上に登らなかったので後日、姫御殿跡に置かれた説明をそのまま載せます。
『ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので中仙道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。
そのためお姫様の通行のときなどに、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。文化元年(1804)十二代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さぎのみや)のご通行ときは、六帖と八帖二間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)十四代将軍徳川家茂のもとへ下向した和宮のご一行は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったといい伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。』
その先2.3分歩いて『首無し地蔵』。
1756(宝暦6)年建立。二人の中間がお地蔵様の前で昼寝をして眠っていたら一人の中間の首が無くなって死んでいた。仲間が襲われたのに黙ってみているとは何事だ、と中間は怒って地蔵の首を切り落とした。それ以来何人もの人が首を付けようとしたけれど付かなかった、という首なし地蔵。ふーん、中間の持つ刀で地蔵の首が切れてしまうのねぇ、と思わないでもない。
首なし地蔵の先は少し先石畳みとなり急な下り坂となります。乱れ坂というそうです。大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、旅の女の裾が乱れたということらしいです。本当に急な坂なので私もステッキをしっかりと突き、時にボーゲンで降ります。
乱れ坂を下りたところに「乱れ橋」と呼ばれる橋が架かっています。橋と行っても単に山路の続きで道を歩いている感覚です。今は少しの水が流れるばかりですが、昔は石も流れる程の急流で「乱れ川」と言われていて、通行の飛脚達がお金を出し合って宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの橋を架け、荷馬1頭につき2文の通行料を徴収したそうです。
乱れる川と橋を越えてしまうと急に普通の里の道になります。小さな山だと思うのですがいくつか越えてきてホッと気分です。田植えが終わったばかりの田とグミの実が映えます。東京では紫陽花が咲いていましたがこちらはまだまだです。里道ですが再び上り坂。手元の地図にはお継原坂と書いてありますが、坂の途中に立つ木札は『うつき原坂』とあります。道路は舗装道路で中山道を示すオレンジの胡麻石。里の中を小さく上がったり下りたりしながら行くと『竹折村高札場跡』に。一本の杭のみ。
案内にそって里の風景から左に折れて再び山路に入ります。
紅坂の一里塚まで600メートルとあります。賽の神(道祖神)からまた緩やかな昇り。この坂は平六坂。6分ほどで「平六茶屋跡」。過ぎて木立が途切れて少し見晴らしのよいところが 「「びやいと茶屋跡」「びやいと」とは「枇杷湯糖」のこと。
少し歩くと両塚が残る「紅坂一里塚」が見えてきました。こんもりとした塚の上には一本の若木が支柱に支えられて現在の旅人を見守っています。この先、本日の予定では深萱立場(高札場)まで行くのですが、記録としては大井宿をここで終了します。
June 2005 瀧山幸伸 source movie
中山道 中津川から大井 ドライブ
Nakasendo Nakatsugawa to Oi drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 大井 ドライブ
Nakasendo Oi town drive
June 2005 source movie
大井宿
Oi post town
大井宿本陣跡
ひしや資料館
大井村庄屋古山家
宿役人の家
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中