岐阜県美濃加茂市 中仙道太田宿
Nakasendo Otashuku,Minokamo city,Gifu
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美濃加茂市太田本町3-3-34 旧太田脇本陣林家住宅(岐阜県美濃加茂市太田町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 "明和6(1769)(居室部)
安永2(1773)(座敷部)" 居室部 桁行14.3m、梁間17.9m、二階建、切妻造、板葺形銅板葺 座敷部 桁行5.6m、梁間9.4m、東端居室部に接続、西端切妻造、板葺形銅板葺、西面湯殿及び便所附属 便所1棟、井戸屋1棟、塀5棟 19711228
美濃加茂市太田本町3-3-34 旧太田脇本陣林家住宅(岐阜県美濃加茂市太田町) 質倉 重文 近世以前/民家 江戸中期 江戸中期 土蔵造、桁行9.1m、梁間5.4m、切妻造、妻入、北面庇附属、桟瓦葺 19711228
美濃加茂市太田本町3-3-34 旧太田脇本陣林家住宅(岐阜県美濃加茂市太田町) 借物倉 重文 近世以前/民家 江戸中期 江戸中期 土蔵造、桁行9.2m、梁間5.5m、切妻造、妻入、北面庇附属、桟瓦葺、質倉との取り合い部を含む 19711228
美濃加茂市太田本町3-3-34 旧太田脇本陣林家住宅(岐阜県美濃加茂市太田町) 表門 重文 近世以前/民家 江戸末期 天保2(1831) 棟門、桟瓦葺 左右袖塀、棟札1枚 19711228
美濃加茂市太田本町3-3-34 旧太田脇本陣林家住宅(岐阜県美濃加茂市太田町) 隠居家 重文 近世以前/民家 江戸後期 文政12(1829) 桁行11.1m、梁間8.0m、切妻造、桟瓦葺、背面渡廊下附属、主屋との取り合い部を含む 20000525
April 2,2017 大野木康夫 source movie
旧太田脇本陣林家住宅
所在地 岐阜県美濃加茂市太田本町3-3-34
旧中山道の脇本陣で主屋に脇本陣座敷が付設される。
背部に倉も残り、旧屋敷構えがよくわかる。
主屋は両妻に卯建をあげる切妻造二階建の大型住居で、脇本陣として年代も古く貴重な遺構である。
表門は文久元年(一八六一)に再築されている。
(国指定文化財等データベースより)
旧太田宿本陣門(美濃加茂市指定有形文化財)
太田脇本陣林家住宅
主屋(重要文化財)
居室部 明和6(1769)年の建築
桁行14.3m、梁間17.9m、二階建、切妻造、板葺形銅板葺
座敷部 安永2(1773)年の建築
桁行5.6m、梁間9.4m、東端居室部に接続、西端切妻造、板葺形銅板葺、西面湯殿及び便所附属
細部
隠居家(重要文化財)
文政12(1829)年の建築
桁行11.1m、梁間8.0m、切妻造、桟瓦葺、背面渡廊下附属、主屋との取り合い部を含む
細部
庭側
内部
表門(重要文化財)
天保2(1831)年の建築
棟門、桟瓦葺
細部
現存する土蔵は質倉、借物倉の2棟
質倉(重要文化財)
江戸中期の建築
土蔵造、桁行9.1m、梁間5.4m、切妻造、妻入、北面庇附属、桟瓦葺
借物倉(重要文化財)
江戸中期の建築
土蔵造、桁行9.2m、梁間5.5m、切妻造、妻入、北面庇附属、桟瓦葺、質倉との取り合い部を含む
筋向いの御代櫻酒造
May,2015 柚原君子
中山道第51宿
「太田宿」
行程:美濃太田駅→太田橋→一里塚→旧旅籠小松屋(吉田家住宅)→十六銀行旧太田支店→脇本陣・林家住宅→太田宿本陣・福田家の門→高札場跡→川並番所跡→虚空蔵堂→太田代官所跡→妙見堂→深田の庚申像
太田宿概要
1600(慶長5)年、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍と、徳川家康を総大将とする東軍とが関ヶ原で合戦(関ヶ原の戦い)となりました。勝ったのは東軍の徳川家康でした。徳川家康は、政治・軍事上の必要から街道の整備に力を入れ、伝馬制、宿場制、飛脚制などを進めました。中でも重要だったのは「伝馬制」でした。伝馬制とは幕府公用の書状や荷物を馬で運ぶことで、出発から到着までを同じ人や馬が運ぶのではなく、宿駅(宿場)ごとに人馬をリレーして無償で運ぶ制度のことで『宿駅伝馬制度』と呼ばれました。この制度の制定により、街道に於ける各宿場では必要な人馬を用意しておかなければなりませんでした。
宿駅は無償で公用の書状や荷物を運ぶことを課せられましたが、そのかわりに宿場の人々は屋敷地に課税される年貢を免除されたり、旅客を宿泊させる権利と一般の物資輸送で駄賃(収入)を稼ぐ特典が与えられました。中山道では人足が50人、伝馬は50頭の整備が課せられていました。ちなみに東海道は100人、100頭、そのほかの街道では25人、25頭……と伝馬を利用する場合は幕府が定めた駄賃を払いましたが、大名は安く抑え、その分、一般の旅人は幕府の定めた倍の駄賃が入用でした。高札場にその旨記した『駄賃高札』が立てられました。
中山道の太田宿は伝馬制ができてから栄えていった宿駅でした。中山道の日本橋より数えて第51宿駅の太田宿には「木曽の桟 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」とうたわれた中山道三大難所に数えられる「太田の渡し」がありました。木曽川が増水すると渡ることができず、宿は人々であふれました。
前の伏見宿から2里、次の鵜沼宿まで2里の地にある太田宿は大久保長安(戦国時代の武将で武田氏、ついで家康の家臣となる。家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていた。現在知られる里程標、すなわち一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺を整えたのも長安である……参考:ウィキペディア)が奉行として治めていましたが、長安没後は尾張藩が治めました。
太田宿は宿駅の機能だけではなく、尾張藩太田代官所が設置され、木曽川筋の軍事、政治、経済の重要な拠点として位置付けられる宿となりました。
1843(天宝4)年の『中山道宿村大概帳』によると、宿内の街並みは東から上町中町下町と別れ、その長さは6町14間(約680メートル)。人馬継立問屋場は上町に一ヶ所、中町に二ヶ所あったそうです。本陣、脇本陣は一軒ずつ配置されて旅籠は20軒でした。高札場は下町にありました。戸数は118軒、505人の人が住んでいました。宿高1939石。多くの人は農、商を兼ねて生活をしていました。飛騨高山道と善光寺道の追分、郡上街道の追分と追分が二つあり、それだけ旅人も多かっただろうと想像される太田宿ですが、どこの宿にも大体残されている遊女伝説が太田宿には見当たらず、川がせき止められたので余分にとどまる人々も多かったと思うのですが……、ちょっと不思議な気がします。
現在のアクセスはJR高山本線・太多線「美濃太田」駅より、駅正面の商店街を抜けて行くと中山道に出ます(10分ほど)。名鉄広見線「日本ライン今渡」駅からも中山道に入ってくることができます。毎年10月の祭りは、皇女和宮が宿泊したことにあやかり、5人の姫を乗せた輿が連なり、奴、共を連れた100名以上の行列が『姫道中』を繰り広げます。いにしえの浪漫が今甦る、という副題のつい『中山道太田宿』の冊子も充実していて、行政が街道保存に力を入れていることが現れています。
また、太田宿のある美濃加茂市はおよそ2億年の歴史を持つといわれ、哺乳類や植物の化石が木曽川河畔から多く発見されて化石の宝庫地としても有名です。1000年以上の歴史を持ち歴代将軍に献上された「蜂屋柿」はこの地の名産品です。
1、美濃太田駅〜太田橋〜一里塚〜旧旅籠小松屋(吉田家住宅)
美濃太田駅から出発です。駅前に坪内逍遥(『小説真髄』の著述)の胸像があります。坪内逍遥の父は尾張藩藩士で、太田宿にある代官所の手代でした。坪内逍遥は1859(安政6)年に誕生して幼年期をこの太田宿で過ごしています。
駅前の商店街を抜けると太田橋が見えてきます。水色の太田橋は遠くからでも良く映えます。斜材を「W」字に配置したワーレントラス橋。土木学会選奨の「土木遺産」です。広い木曽川にどっしりと掛かっています。橋を渡りまっすぐに行くと名鉄犬山線「日本ライン今渡」の駅に行くことができます。橋の東側(高山方面)に日本ライン下りの旧乗船場、横に大井戸水神、道路をはさんで反対側(岐阜方面)に化石の森公園があります。現在の橋に近い側から、明治〜昭和初めまでの太田の渡し場の跡、さらにそれより岐阜寄りに、江戸時代後期の渡し場跡、さらに本陣のある辺りに川波番所跡がありますが、その場所にもう一つの渡し場跡、計三ヶ所の跡が残っています。昔、木曽川の勢いは今よりもっとすごく、船着場もすぐに流されて、参勤交代のお殿様のお通りにはきちんと修理しなければならず、大きな石がゴロゴロある木曽川の船着場を再生するのは、かなり大変だったそうです。
旧中山道は化石の森公園よりしばらく木曽川べりになります。文化会館の前に古井(こび)の一里塚跡。少し先に岡本太郎の父、岡本一平終焉の地の記念碑があります。過ぎると法華経塚、その先を旧中山道は木曽川べりを離れて本陣のある町中に入ってきます。木曽川を背にして『新町木戸門跡』の標識があります。江戸の方面(東)で、木戸番が詰めていました。太田宿と書かれた行灯が軒下にゆれていたり置かれていたり、宿の風情が演出されています。袖壁を持つ商店『坂口屋』も見えます。道の正面は行き止まり?いえ、枡形です。街道を鍵の手に曲げて石垣でカーブを作り、見通しを聞かせずに敵の侵入に備えたもの。左手に裕泉寺の白い壁。過ぎて旧旅籠小松屋(吉田家住宅)があります。三度笠に脇差し旅人、大八車を引く商人などが歩いてきそうな雰囲気があります。
旧旅籠小松屋(吉田家住宅)
江戸時代末期の町屋建築です(2階部分は明治時代中期に改造されています)。太田宿の旅籠は20軒。その内大3軒、中1軒、小6軒で、脇本陣林家所蔵の「旅籠万覚帳」によれば松野屋・岩井屋・坂本屋・三升屋・油屋・今井屋・小松屋などが太田宿で宿屋を営んでいたと記されています。先ほどの袖うだつのあった坂口屋も旅籠だったのですね。小松屋は明治時代以降、交通網が発達すると旅籠としての需要が減少し、大正時代以降は煙草の元売などを生業とした為、旅籠建築よりは商家建築といった趣の方が強くなっています。現在は無料休憩所として一般公開されています。仕様は、木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、2階外壁が塗屋造りで両脇には袖壁。1階正面には下屋庇が設けられ、1階・2階共に格子戸が用いられています。内部は向って左側が土間で通庭と作業空間、右側が居室と帳場になっています。
2、十六銀行旧太田支店〜脇本陣・林家住宅〜太田宿本陣・福田家の門
枡形の辺り、右側で少し近代の家に戻ります。十六銀行旧太田支店があります。1907(明治40)年12月建築。正面の鬼瓦に銀行を現す『銀』の字が入っています。その先はまたうだつのある商家が続きそのまま映画のセットになりそうな宿の雰囲気が続きます。
中山道の他宿では一本の杭やコンクリートの跡碑のみの本陣や脇本陣も少なくありませんし、個人宅になっていて非公開も多いのですが、この太田宿の脇本陣は国の重要文化財として保存、公開されている貴重なものです(ただし、脇本陣本体の部分は個人宅住居のため未公開。公開されているのは隠居家部分です)。
脇本陣・林家住宅
『主屋のうだつの鬼瓦に銘が記されていることから、創建年代は1769(明和6)年と判明しています。林家は江戸中期、脇本陣を勤めるかたわら庄屋(注:本陣の福田家と一年交代だった)として尾張藩太田代官の指揮下で宿の行政事務を執り、また、家業として質屋や味噌・溜の製造販売も営んでいた旧家です。 最盛期には、東西25間の間口、土蔵9棟、馬屋3棟、離れ座敷などを持つ壮大な構えでした。昭和46年に主屋・表門・質倉(しちぐら)・借物倉(かりものぐら)が国重要文化財に指定され、続いて平成12年に、隠居家(いんきょや)・附便所・附井戸屋・附塀5棟・宅地などが追加指定されました。江戸時代を中心に建設された建物群がまとまって残っており、大規模商家の屋敷構えを伝える数少ない貴重な遺構です。
「隠居家」は、最初に建てられた時期は不明です。現在の建物は、1829(文政12)年の家相図に基づいて修復されています。創建以来たび重なる水害や虫害を受け、建物の他に塀や石積が崩れるなど全体に傷みが激しい状態でした。そこで、平成13年度に隠居家・附塀などの調査を行い、平成14年度から平成17年度まで、国庫補助事業として修理が進められました。建物は一列三室型の町屋形式ですが、室内の数寄屋風の造作に隠居家らしい趣があります。なお、林家では「隠居家」という名称は使用しておらず、通称として「西(にし)」と称していました。使用方法は、主屋の座敷に対して、奥座敷的な存在でした。』(以上『』は美濃加茂市教育センターの文言より抜粋)
石灰と赤土を混ぜた土間がひんやりと気持ちが良く、奥庭にコデマリがゆれていました。
本陣・福田家の門
脇本陣・林家住宅の向かい側に本陣遺構として「本陣門」(薬医門・1間・両袖に半間塀のある格式ある造り)が残っています。1861(文久元)年、和宮降嫁の際に新築されたそうです(※1)。本陣福田家福田次郎右衛門は、脇本陣の林家、林新右衛門家とともに一年交替で太田村の庄屋をつとめていました。尾張藩勘定所の御用達もつとめ、米・木材の売買、酒造業(後に御代桜酒造に株を渡す)も行っていました。本陣は広大なもので間口21間・奥行22間・土蔵3棟・建坪227坪ありました。 明治時代には本陣跡に太田町役場が置かれていました。
※1……中山道は和宮降嫁の道中に使われましたので、大きな宿には記録が残っています。和宮の一行はビックリするほどの行列で、先頭が宿に到達していても最後の列が後の宿に到達していなかったこともあったそうで、宿と宿の間を埋め尽くす行列だったようです。ちなみに太田宿での記録は次のようになります。
降嫁行列7日目で、4日間に渡って太田宿に宿泊して、人馬継ぎ立て7856人、馬280頭、寝具は布団7440枚、枕380個、飯椀8060人前、汁椀5210人前、皿2110人前、通り盆535枚を必要とするなど、総勢2万人もの行列で、一般通行旅人は7日の間、通行禁止でした。さらに沿道には砂を敷き詰め、見苦しい家は修理を命じられ、太田宿近在で足腰の立つ人々は全て駆り出された、と記録にはあるそうです。
諸大名行列などは殿の移動で城全体が移動するほどの物を(トイレのおまるまで)運んで行ったと言われていますから、降嫁の道中はさらにそれよりも上であったはずで、本陣に泊まられての大騒動、郷の人々は本当は迷惑だったかもしれませんね。
3、高札場跡〜川並番所跡〜虚空蔵堂〜太田代官所跡〜妙見堂〜深田の庚申像
本陣を進むと右側に西福寺。入って行く入り口に高札場跡があります。高札場とは幕府の禁制やご法度が貼り出された場所です(キリシタンの禁止や馬の駄賃など)。太田宿は河川交通の重要な場所でありましたから船御高札も出されてあったそうです。暴風雨の時には船を助けなさい、助けてもらったら船主は御礼を出しなさい、などと幕府から守らなければいけない事項が掲示されていたそうです。
旧中山道は高札場を左に折れて再び木曽川沿いとなりますが、この十字路は郡上街道との追分。「右 関上有知 左 西京伊勢 道」とかかれたものがあるそうです(探せなかった。トホホ)。
木曽川沿いに出ます。川波番所跡という立て札があります。
川並番所
太田宿を管理する尾張藩にとって、木曽や飛騨郡の山々の材木は重要な財産でしたから、その材木を運ぶ木曽川の管理は厳重に行っていました。木曽川を下る筏や上下する船を監視するために、川沿いの要所に川並番所を設けました。太田宿川並番所は1665(寛文5)年に設置されています。木曽川をはさんで向かい側が土田宿になり、渡し場(大井戸の渡し)もあったところです。
川並番所跡の先には国道41号線の高架がありますので下をくぐり虚空蔵堂に行きます。
虚空蔵堂
虚空蔵堂は太田宿の西の出口にあたります。1782(天明2)年の「加茂郡太田村絵図」には既に描かれていて、当時から信仰の対象となっていることがわかります。坪内逍遥は虚空蔵堂で遊んだと云われ、裏手には逍遥ゆかりの「ムクノ木」があります。大きな緑の木。澄んだ空気。遠くには渡ってきた太田橋のきれいな水色が見えます。木曽川べりは広く、ここは1221(承久3)年、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が、木曽川を挟んで戦かった「承久の乱」場所でもあります。
木曽川から心地よい風が吹いてきます。このまま川べりを直進して行くと京に続いて行きますが、道を少し戻り現在は太田小学校になっている「太田代官所跡」と「妙見寺」に行きます。
太田代官所跡
1782(天明2)年に藩政改革で領内の要所地を一括支配するために所付代官を配置。1868(慶応4)年になると北地総管所と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父平右衛門です。田宮如雲は高須松平家の秀之助(後の徳川慶勝)を尾張藩主に擁立に尽力し、慶勝が藩主に就任すると藩の家老や側用人に抜擢され藩内で大きな影響力を持ちました。大政奉還後は朝廷の参与や名古屋藩大参事などの要職も歴任し、戊辰戦争の際には草薙隊を組織し甲信鎮撫にも参加しています。現在は代官所の遺構がなく小学校の校庭となっています(案内板要約)。
今は何の痕跡も残っていません。広い静かな校庭に葉桜の影が落ちていました。
小学校の向かい側に「妙見堂」。坪内逍遥ゆかりの、とありますが、使われていないひっそりとした平屋があるのみで、どのようなゆかりなのかの説明はありませんでした。坪内逍遥が代官所の役宅で生まれて10歳頃までの幼年期をこの地で過ごしているので、
何かのゆかりがあるのでしょうね。
太田宿最後です。美濃加茂市指定文化財の「深田石像庚申像」にお参りします。「庚申像」は1670(寛文10)年に彫られたもの。牙があるような異国のお顔にみえます。三猿の彫りは薄くなりもう見えませんでした。
June 7,2015 瀧山幸伸 source movie
July 2010 瀧山幸伸 source movie
A camera
本陣跡
脇本陣 林家
Wakihonjin Hayashike
資料館
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Kagimagari
渡し場
Watashiba
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Nov.2007 太田宿の街並 写真:柚原君子
Nov.2005
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