岐阜県関ケ原町 今須宿
Imasu,Sekigahara town,Gifu
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中山道 第59 今須宿
概要:
中山道美濃の国16宿のうちの最西端となる今須宿は、加納宿、関ケ原宿に次ぐ大きさを誇り、琵琶湖から美濃への物資流通の商業地としても、また妙応寺の門前町としても大きく栄えた宿です。人馬の引き継ぎや幕府公用の郵便物引き継ぎなどの業務を行う問屋場が7軒あったところからも、相当な賑わいであったろうと想像されます。中山道宿村大概帳には宿内家数は464軒。本陣1脇本陣2、旅籠13軒、宿内人口は1784人と標されています。
今須の地名由来は「異なる枡」。つまり異枡が今須に変化したものであるといわれています。承久の乱(じょうきゅうのらん……1221年鎌倉時代、鳥羽上皇が隠岐に流された変)以後に当地に移ってきたとされる長江氏が統治していた今須ですが、長江氏の母、妙応はとても意地の悪いおばあさんで、年貢の取り立てには大きな枡を、お米の貸し付けには小さな枡を使ったとされ(つまり異枡)、死後は地獄に落ちたのでそれを救うために「妙応寺」が建立された、と地名由来にかかわる逸話が妙応寺に残されています。
前宿の関ケ原宿は至る所に合戦の地としての痕跡がありましたが、今須宿の入り口になる黒血川を最後に戦いの気配はあまり見られず(史跡として留め置かれた場所も無く)、不思議な気がします。
今須は美濃国の最も西にある位置ですからお隣は近江国です。その国境は本当に小さな溝1つがあるのみで(当時その溝があったかは不明だが)両サイドにある旅籠屋の宿泊客たちは寝ながらに話ができたそうで「寝物語の里」という名前が付けられています。
問屋場が7ヶ所もあって栄えた割にはその史跡はあまり残らなかった今須宿。明治の近代化で、すぐ近くを東海道線が通っていますが、直近に駅が設けられなかったためか静かな山里として現在に至っています。
1、今須峠 本陣跡
前回に歩いた関ケ原宿を出て今須峠に向かいます。山藤が垂れさがる道。アスファルト舗装されていて歩くのは楽ですが、当時は積雪が多く難所の1つであったとそうです。
登り始めて峠までは約1キロの道程ですが勾配はそれほど無く、少し息が切れる程度。したがって特に峠らしい景色はなく1本の立て札が峠であることを示しています。
この峠には数軒の茶屋があったそうです。
峠を下って国道に。前方左にこんもりとした一里塚。国道敷設で移動復元です。
国道より左に下って古そうな今須橋を渡ると今須宿です。傍らに銅板の屋根の付いた常夜燈。
伊藤本陣跡と河内脇本陣跡の説明が一緒になった板が立っています。後ろにある小学校の一帯が本陣と脇本陣のあった所。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、近江佐和山へ軍を進める途中、伊藤家で一休みしています。その時に家康が庭で腰掛けたという石があるそうですが、のちに本陣の指定を受けた伊藤家は長い間本陣内で大切にしてきましたが、1870(明治3)年、本陣廃止以後に、妙応寺に移したとあります。
その妙応寺は国道とJR線の高架をくぐった奥にあります。赤い煉瓦をくぐります。国道と鉄道敷設で分断された形に見えます。高架があっても一応ここは参道のようです。
妙応寺の歴史はHPによると下記のとおりです。
『青坂山妙応寺の創建は正平15年(1360年)、当時の今須城の城主長江重景が母親である妙応尼の菩提寺を弔う為、峨山禅師(当時の能登国総持寺、道元の4代後の弟子)を召還し開いたのが始まりとされ、寺号は母の戒名に因んでいる。伝承によると妙応尼は生前悪行を働いていた為(年貢を徴収する際は大きな枡:1.3升枡で計り、与える時は小さな枡:0.8升枡で計ったとされる)、成仏出来ずこの世で古い御堂に棲み付き毎晩のように悪鬼から咎められていた。
大徹禅師(峨山禅師の法嗣)が巡錫の折、その御堂に泊まり一部始終を見て、長江重景に報告すると母親の悪行を自らの善行によって打ち消す事を誓い、寺院を創建すると峨山禅師を開山者として招き、大徹禅師は2代目になったと伝えられている。妙応寺は領主の菩提寺として庇護され、寺運も隆盛したが、応仁の乱後長江家が没落すると庇護者を失い、一時衰退する。江戸時代に入ると寺領20石が安堵され、さらに中期以降は京都伏見宮家の祈願所として庇護された事で再び隆盛した。』
妙応寺山門の屋根には鯱。京都伏見宮家の祈願所であったから門に付いている家紋は菊です。回廊続きで本堂に入れるようになっているのも、宮様ですからお姿を人目に余りさらさずに祈願所に行く為のようです。立派な本殿の前に前述の家康の腰掛けた石がありました。
街道右側にある大きな家は問屋場跡。山崎家が勤め(旧は木田家)、1820(文政3)年建築の建物だそうです。煙出しの屋根に永楽通宝の軒丸瓦があるそうですが……よく探せませんでした。非公開となっていて残念ですが、荷車がはいる玄関や吹き上げ、土間など当時のままに保存されているそうです。
1867(明治2)年には凶作により本陣、問屋が農民に襲われる今須騒動があったそうですが、その当時の傷なども柱に残されてとのこと。美濃の国16宿の中では唯一現存している問屋場ですから、いつか公開されることを期待したいです。
問屋場の向かい側には高さ1.5mほどの石灯籠「金毘羅大権現永代常夜燈」があります。京都の問屋の河地屋が大名の荷を運ぶ途中で紛失。金毘羅大権現に失せ物が出るように祈願したところ、今須宿にあり、とのお告げがあり事なきをえたので、そのお礼に建てられた常夜燈です。常夜灯とは、字の如く一晩中つけておく明かりのことです。夜道を行く旅人の安全を守っているものですが、小さな石灯籠とはいえ灯篭を寄付することは、それにかかる毎日の油代も併せて寄付することを意味していますので、一般的には使用する菜種油が必要な量だけ採れる畑をも同時に寄付をするということでした。
失せ物が出てこなければ、当時のことでしたので首が飛んだのかも知れず、京都の問屋の河内屋のホッとした気持ちが立て札説明から読み取れます。
真宗寺、法善寺と続いて村の鎮守の八幡神社。そしてまた灯籠。こちらの灯籠は山灯籠です。自然石の組み合わせ。
2、寝物語の里
坂道を登っていくと車返しの坂。旧道の痕跡が地蔵尊石塔までにほんの少しの草道として残っています。史跡を示す石塔には今須村とあり、一説によるとこの辺りが今須峠とも言われています。
車返しの車は牛車のことで、南北朝の昔、京の後普園院摂政二条良基が不破の関屋の荒れ果てた板屋根から漏れる月の光が風情があるとのことで、ここまで牛舎でやってきたところ、噂を聞いていたこの辺の者たちが、あちらこちらを修理して綺麗にしてしまったので、それではつまらないと牛車は踵を返してしまいます。車返しという言い伝えが残っている、というお話です。
今須の信号の国道を越えていくと芭蕉の句碑。「正月も美濃と近江や閏月」の句が石に刻まれています。「野ざらし紀行」の中よりとありますが、実際にはその俳諧文集の中にはないそうです……がそれはともかくとして芭蕉も詠った美濃と近江の国境ですが、ほんの小さな溝です。県境の多くは山の中や大きな川や橋の途中だったりしますが、このような平坦な地での国境は珍しいとのこと。
「寝物語の里」の呼称でしたしまれているこの可愛い国境は、狭い溝ひとつをはさんで美濃側に両国屋、近江側に亀屋という旅籠が軒を連ねていたそうです。「静御前と義経家臣の江田源蔵が それぞれ国境を挟んで隣り合う宿に泊まった際、聞こえてくる源平合戦での主君の活躍ぶりを話す会話内容からお互いの存在に気付き、再会を喜び 、隣同士の宿で横になりながら夜通し語り明かした」との逸話がのこるくらいに近い国境です。
国境の石碑は二つ。近江国長久寺村が立てた「近江美濃両国境寝物語」。もう一つは美濃国不破郡今須村が建てた寝物語の碑です。旅人ばかりでなくそれぞれの村人も互いに話すときは自身の地の方言を使ったと言われています(美濃の国側に5軒、近江の国側に25軒の集落で美濃側では金が流通し、近江側では銀が流通していたとも)。
中山道美濃路の終わりである国境を越えて私もこれより近江路に入ります。県を越えたのでマンホールの絵柄も変わります。前宿の関ケ原では絵柄は兜でしたが、こちらは至って穏やかに「三島池のマガモ」と「天野川のゲンジボタル」の絵柄です。
楓並木が続く車も来ない路をテクテクと次の柏原宿に向かって歩います。右側の山の中に入っていく路が何本かありますが一人旅で怖いので行きません。チラ見のみ。神明神社の前には旧東山道の立て札が。長比城址(織田信長とか浅井長政の時代)につながっている道も。照手姫(テルテヒメ)にまつわる泉(ただし、照手姫は伝説上の人物です)などがあるようです。
今回はこの辺りで終了です。
June 9,2016 瀧山幸伸 source movie
西から東へ
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