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岐阜県垂井町 竹中半兵衛ゆかりの地

Takenaka Hanbe related sites ,Tarui town,Gifu

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June 2013 中山辰夫

岐阜県不破郡垂井町

垂井町の案内図

垂井町概説

垂井町は、岐阜県の南西部に位置し、濃尾平野の北西端にあたる。

池田山地と雨宮山地に挟まれた極めて狭隘な平坦地が畿内と美濃以東を結ぶ重要な交通路であったため、古来より垂井は交通の要衝であった。

垂井町は、美濃一宮・雨宮大社の門前町として、中山道57番目の「垂井宿」としてにぎわってきた。

垂井駅前を起点にレンタサイクルで出かける。行先順は気ままに任せた。道順に従って記録する。

■■竹中半兵衛の里周辺散策

垂井町岩手地区

■周辺地図

JR垂井駅北口から相川橋を越え、左折して県道河合・垂井線を直進する。

■途中に見かけた「岩手のやまもも」

■五明稲荷神社

竹中半兵衛の家臣で、信長の命令で殺せと言われた黒田官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)をかくまったという「不破矢足」の屋敷が近くにあった。

「不破矢足」という名は、姉川の戦いで足に刺さった矢をものともせず、もう一人打ち取ったことを聞いた竹中半兵衛が命名した。

イチョウの木

松寿丸が岩手を離れる際にお手植えされたとするイチョウ。枝葉がカットされた後の様子。

≪参考資料 松寿丸と不破矢足≫

■半兵衛の里

県道左側に大きな看板が立っている。農産物の直販所である。この四つ角を右折して進む。

竹中重元は、1558(永禄元)年岩手氏を攻め、岩手付近一帯の地を領し、翌年には菩提山に砦を其の麓の字西福に邸を構えて住んだとされる。

竹中半兵衛重治は、1544(天文13)年、重元の子として大野郡大御堂で生まれ、1558年から、岩手城に住み、父没後は斉藤龍?の部下として稲葉山

城下に住んだ。重治が歴史の表舞台に登場するのは、稲葉山城を奪取した以降からで、羽柴秀吉の再三にわたる説得で織田信長に従い、秀吉に仕えて参謀役をつとめた。重治は其の軍才によって秀吉に重用され、1579(天正7)年6月、播州三木の陣中で没するまで秀吉のもとにあって武功を挙げた。

現在、竹中半兵衛の陣跡は復元され、その墓のある禅幢寺、藩士の学校だった菁莪堂などが集落の南にある。又西側の菩提山城は江戸期まで続いた。

竹中半兵衛重治の子、重門がこの地に陣屋を建て、西側の菩提山城は江戸期まで残り、幕末まで竹中家は続いた。

■ 旗本竹中家歴代当主

■神田柳渓先生邸宅跡・神田孝平先生邸宅跡

いずれも幕末から明治にかけて活躍された。

■菁莪記念館(せいが)

旗本竹中藩の藩校。当時の形を模して建てられた。館内には幕末などの資料がある。 隣は公民館である。

江戸幕府は朱子学を官学とし、藩校では武士教育が盛んに行われた。岩手の竹中氏は、天保年間に菁莪堂をつくり、文武両道を指導。明治になって菁莪義校、菁莪学校として発展した。神田孝平も菁莪義校設立(明治6年)に貢献した。

神田孝平の顕彰碑

幕末から明治にかけて、番書調所教授・兵庫県令・貴族院議員・学士会院などを務めた。幕末には竹中の家臣であった。

門前には竹中家臣二名の句碑が立つ。

■竹中氏陣屋跡

不破郡垂井町岩手619-2

竹中重治没後、嫡男重門は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、5000石を安堵され旗本ととなり、今の地に陣屋を構えた。

写真70〜72

知行5000石の旗本竹中氏は、岩手村を本拠とし、関は原・玉・山中。藤下など五ケ村を采地としていた。各知行村々に代官を置いて支配していた。

現存する木造白壁塗りの櫓門(間口6間(約11m)奥行3間(約5m)、頑丈な門扉、門に入って正面にある目隠しの石垣、彫などに当時の面影を偲ぶ・

大正10年(1921)頃の陣屋

明治維新前の、江戸を目指す朝廷軍の先行する先鋒隊として「赤報隊」が結成された。この赤報隊が美濃国に入ってすぐに幕府旗本の竹中陣屋に侵入した記録が残る。陣屋は美濃国最西の軍事的拠点であった。

最後の藩主重固は、奥州列藩同盟に参加し、榎本武揚らと蝦夷地へ向かい函館に上陸。後に五稜郭を抜け出して自首し死一等を免じられた。

■明泉寺

不破郡垂井岩手631

宗派:真宗大谷派

竹中半兵衛重治の父、竹中重元が最初に葬られたのが明泉寺であった。竹中重門が父重治の菩提のために禅幢寺を再興して移された。

明泉寺簿医の古絵画に重元の墓がみえる。また、位牌が安置されている(垂井町史)

”戦争は罪悪である“で知られる反戦僧・竹中 彰元[1867(慶応3)年- 1945(昭和20)年]は明泉寺で住職をつとめた。

日露戦争の際には布教使を務めたが、1937(昭和12)年に日中戦争を批判、反戦を唱えた。その言動をめぐって、陸軍刑法に抵触するとして有罪判決を、また真宗大谷派からは特別黜罰(軽停班)処分を受け僧侶の位を最低に落とされ、布教使資格も剥奪された。

愛知県一宮市の円光寺住職・大東仁が記した論文「仏教者の戦時下抵抗」により竹中の名誉回復運動が始まり、2007(平成19)年に真宗大谷派主催の「復権顕彰大会」が明泉寺にて開催され、熊谷宗恵宗務総長が謝罪、同宗派の処分を取り消す「宗派声明」が出され、処分から70年目に名誉回復を果たした。

■禅幢寺(ぜんどうじ)

不破郡垂井岩手1038

宗派:曹洞宗

本堂:町指定文化財

竹中家陣屋跡から少し北へ行った高台にある。竹中家と家臣の菩提寺。 半兵衛のお墓もある。

本堂

1579年、播州三木の陣において病没した半兵衛の菩提を弔うために重門がこの寺に墓石を移した。

現在の本堂は重門の子の重常が1663年に建立したもので今では竹中氏とその家臣の菩提寺となる。

伽藍

お墓

多くの墓標が建つ墓地の一角に、半兵衛のお墓がある。湖に愛行長の墓標もあるとされる。

■八幡神社

禅幢寺境内続気である。菩提山城の上り口にある。後は菩提山

■『半兵衛手拭』

禅幢寺ではお土産に、当山で採れた梅をつけた梅干しと半兵衛手拭を販売されている。これが人気である。

当年85才になられた先代住職の奥さんが、御主人(先代住職)と二人で40年ほど前に考えたという。手拭からきれいな法被ができあがるという。

名づけて「知恵を使う手拭」と呼ばれる。

手拭に印刷された文字や家紋、色の染まった部分、拡げた状態では分からなかったが、折られるとそれぞれ意味を持ち、きちんとおさまるのが不思議。

半兵衛やお寺のお話を聞きながら、手拭折りに苦戦する人が最近多くなったようだ。奥様も一人一人に時間がかかって大変な様子でした。

その手順を並べる。

おり具合市が微妙。その出来不出来で、絵柄が代わる。家へ帰ってから折っても再現が難しい。

先代住職の奥さん、来年は大忙しだ!

■付記

今回行けなかったが、次の機会に是非行ってみたいところの岩手地区である。禅幢寺を過ぎてさらに先へ直進した所にある。

岩手は、永禄元年(1558)、竹中重治が父重元と共に岩手弾正を襲ってこれを領し、父と共に岩手に移り住んだ所である。

岩手氏は、応永から天文年間に至る間、140年に亘って、岩手菩提山を本拠とし、美濃の土岐・斉藤氏の間にあって重要な役割を果たしてきた。岩手の岩崎神社は、1466(文正元)年に造営の竣工をしたと棟札にある。

岩手には小さな集落にしては規模の大きな岩崎神社と、隣接してそのすぐ北に豪壮な屋敷(渡辺家)がある。集落内には石垣も多く見られる。

一目で、武家社会に属した集落であったと分かるとある。竹中一族との係わりの深い地区である。現在もそこでの居住生活が続いていると聞く。

菩提山城が江戸期まで続いていた名残りが残るとも思われるが、詳細については把握していない。

岩手にある豪壮な民家は渡辺家?

参考資料≪町発行の各種パンフレット、景観計画素案、垂井町史、他≫

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