群馬県安中市 新島襄旧宅
Niijima Jo kyutaku,Annaka city,Gunma
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Mar. 2016 柚原君子
所在地:群馬県安中市安中1-7-30
愛宕神社のすぐ先に『新島襄先生旧住宅入り口の碑』が大きく出ています。この道を入って7分ほどの場所ですが、道は少し曲がりくねっています。新島襄旧宅は安中市指定史跡です。こじんまりとした新島襄の父母の家です。
新島襄は、1843(天保14)年に安中藩士の子として江戸で生まれています。安中藩主板倉勝明も認める聡明な青年となって函館武田塾への留学を申し出て1864(文久3)年、函館へ向かいます。二ヶ月後に米国船に乗り込んで脱国。渡米前よりアメリカ人宣教師が漢文で書いた聖書に親しんでいます。米国船に乗っての日本を出た後、上海にいてその後アメリカに行き、フィリップスアカデミーやアーモスト大学を卒業。1872(明治5)年には岩倉使節団への通訳協力が要請されて、明治政府より脱国の罪が許され「米国留学免許」が発行されるという超法規的な手続きがとられています。後の教育使節団にも同行、米国内はもとよりイギリスをはじめとするヨーロッパ各地を視察後にアメリカに帰国して、アンドーヴァー神学校にて牧師試験に合格という経歴があります。
新島襄は七五三太(しめた)といいましたが、船長にジョーと呼ばれ帰国後は襄を名乗っています。1874(明治7)年11月、この旧宅(父母の家)で10年ぶりに父母姉妹と再会したそうです。渡米していた間の10年間にわたる苦学を生かして日本での活動を始める第一歩となった場所でもあります。明治11年、地元の求道者30名を洗礼して、群馬県内初となる教会を設立しています。新島襄はこの父母の家に3週間ほどの滞在をします。
一説によると藁葺きの家屋の手前の棟が昔の父母の家との明記もありますが、定かではありません。1890(明治23)年1月神奈川県大磯の旅籠「百足屋」にて逝去。47年の短い生涯でした。
また歴史家の研究によると、新島襄の脱国への準備や、また日本を出た後のアメリカでの生活や帰国後のことを考えると、超法規的処置に事が進んでいることを推測すると、開国の準備のための政府の後押しがあったのでは無いかと……。
1963(昭和38)年に安中市がこの旧宅を移築し、その遺品や関係書類及び写真等を収集して展示する施設を造り翌年に公開しています。NHKで『八重の桜』放映中はかなり多くの人が訪れたそうです。
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