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群馬県高崎市 倉賀野

Kuragano,Takasaki city,Gunma

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Sep.5,2015 柚原君子

中山道第12宿 倉賀野宿

行程 :北向き子育て観音→観音寺→日光例幣使道追分→叶屋→旧大山家→矢島家→倉賀野古商家おもてなし館→清塚ヨシ家→倉賀野河岸跡碑→本陣・脇本陣→高札場→倉賀野城址→八幡神社→倉賀野城主墓所・栄泉寺→倉賀野神社→安楽寺・古墳→浅間山古墳→昭和の家

倉賀野宿概要

倉賀野一帯は5世紀頃より権力のある豪族が治めていた悠久の歴史ある地で古墳も多く存在しています。平安時代後期、武蔵児玉党支流の秩父高俊が倉賀野に入植して「倉賀野氏」を名乗ります。その後裔、行光が14世紀末に倉賀野城を築きます。倉賀野は信州に通じる街道でもありますので、鎌倉時代にはすでに宿が形成されていたそうですが、戦国時代に入ると武蔵国から上野国に入る軍事的要衝でもあった為、北条、上杉、武田氏の勢力争いに巻き込まれ、1590(天正18)年に倉賀野城は陥落し廃城となってしまいます。

安土桃山時代を経て江戸時代に入ると、幕府は中山道の整備を強化していきます。

1646(正保3)年以降は日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)(※1)の起点として、また信州に向かう善光寺街道に行く旅人は、倉賀野宿より7宿先の「追分宿」までは同じ道をたどりましたので、行き交う人々も多く、倉賀野宿は中山道第12の宿として栄えていきます。

また倉賀野宿の一つ先の「高崎宿」は井伊直政により高崎城のある城下町です。参勤交代の大名たちが城下町である宿泊を遠慮したため、高崎宿は本陣も脇本陣もない宿となっていますから、京から来た大名は板鼻宿か安中宿または、一つ先の倉賀野宿に宿泊することとなり、倉賀野宿が大いに栄えたもう一つの理由でもあります。

高崎藩領の倉賀野村倉賀野宿は利根川の支流・烏川ぞいにありましたので、倉賀野河岸が物資輸送の中継地となり港町としても発展しています。船は浅い川でも進める高瀬舟が使用され、運賃は陸上交通の半分ほどで、一度に大量の荷物を運べるため利用度も高く、1800(寛政12)年の記録では小船や艀(はしけ)から大きな江戸廻り船まで約119艘が就航し、牛馬で運ばれてきた上信越の物資(米・煙草・雑穀・絹・綿など)が下り荷として江戸に運ばれ、上がり荷は塩・藍・お茶・ぬか・海産物・陶器・小間物などが河岸から宿場へ上げ荷されたという記録が残っています。

倉賀野宿は長さ11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地。1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によりますと、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場が3軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人となっています。宿場町には旅籠とともに飯盛宿があり、その女衆(遊女たち)が太鼓橋を作る費用を出した話などもあります。

明治16年に鉄道が敷設され倉賀野宿はその使命を終えます。

現在は群馬県高崎市倉賀野町(ぐんまけんたかさきしくらがのまち)となっています。

※1

日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)

徳川家康(1543〜1616)の没後、東照宮に幣帛を奉献するため朝廷から派遣された勅使(日光例幣使)が通った道。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至っている

1、北向き子育て観音

所在地:群馬県高崎市岩鼻町

倉賀野駅に10時に到着。今回も駅横にある行政の無料レンタサイクルで行きます。倉賀野小学校のフェンスに倉賀野の大体の案内が出ていますが、先回終了した柳瀬橋まで戻ります。柳瀬橋を渡り、岩鼻町交差点を右に曲がって、急坂を少し下ると、すぐの右奥に御堂があります。「北向き子育て観音」です。北向きにあるのは珍しいことですが、北斗七星にちなんでいるそうですが、詳しいことは良く分かりません。彫刻が素晴らしく、また灯篭の掘り込みもはっきりした文字で文政三年(1820)上野国吾妻郡草津村山本十右衛門などの奉納者の名前が見えます。ネットで文政3年を調べると清水次郎長が生れた年とあります。小ぶりでしたがたくさんの実をつけた銀杏の樹がありました。子育て観音に相応しい樹ですねぇ。

                

2、観音寺

所在地:群馬県高崎市岩鼻町

坂道を戻って交差点に。先に進む右側に「観音寺」があります。観音寺の裏手一帯は1793(寛政5)年から幕末まで岩鼻代官所があった場所です。本堂左手奥には岩鼻代官所初代代官・吉川栄左衛門良寛のお墓が、高崎市指定史跡としてあります。教育委員会の立札が立っています。先程通ってきた北向き子育て観音の坂下には刑場があったそうで、罪を負って亡くなった人が葬られたのもこの観音寺だそうです。

明治元年廃藩置県で倉賀野は岩鼻県となりこの観音寺を含む一帯が県庁舎となりますが、明治3年に焼失、その後群馬県が成立して、岩鼻県は歴史と共に消えていった、といういきさつがあります。

観音寺を出て左に向かいます。国道17号と高崎線の高架を2つ通過します。新柳瀬橋北交差点を過ぎた右側に曼珠沙華鮮やかな石仏石塔群があります。過ぎるとすぐに日光例幣使街道の追分になります。

               

3、日光例幣使街道の追分

所在地:群馬県高崎市倉賀野町(「下町」交差点南)

徳川家康は没後に神格化されて、東照大権現(とうしょうだいごんげん)として日光東照宮に祀られることになります。毎年4月18日に朝廷から勅使が派遣されて東照宮に幣帛がささげられました。この勅使の事を例幣使(※2)と言い、その一行が通る道を日光例幣使街道と呼び、京より上ってきた一行はこの追分で日光の方に向かいます。

常夜灯と道標と閻魔堂があります。

1814(文化11)年建立の常夜灯は例幣使道五料宿の高橋光賢(高砂屋分之介)が若い頃の放蕩を悔やみ私財を投げ出し、不足分は江戸、信州、京都まで寄金を集めて建立とあります。台座には373名の寄付者名が書かれていて、相撲の雷電為右衛門や柏戸利助、歌舞伎役者の松本幸四朗や市川団十郎の名前も刻まれているそうです。常夜灯は県内随一の大きさだそうです。

閻魔堂は建て替えられたばかりのようで綺麗でした。江戸時代までの呼称は阿弥陀堂と言い、閻魔大王は地蔵菩薩の化身といわれて信仰すれば地獄に落ちずに済むと信心されています。大きな数珠もあり、天井絵も拝見できるとのことでしたが、附近に人もいず……どこかで予約するのでしょうか……。

※2

朝廷より日光東照宮に毎年幣帛(へいはく)を奉納するために参向した勅使。3代将軍徳川家光(いえみつ)の要請により1646年(正保3)臨時奉幣使として参議持明院基定(じみょういんもとさだ)が発遣され、4月13日江戸を発して日光山に赴き、17日東照宮の祭儀に臨んで奉幣した。翌年からは毎年奉幣使(例幣使)が朝廷から発遣されて宣命(せんみょう)を読み、1867年(慶応3)まで至った。これを機に、1647年には途絶えていた伊勢(いせ)神宮奉幣使も復活された。例幣使は毎年3月末ないし4月1日に京都をたち、15日までに日光に到着し、大祭前日の16日に神前に奉幣し、30日に帰洛(きらく)した。一行は50名前後で、往路は中山道(なかせんどう)・例幣使街道を下り、帰路は日光街道・江戸・東海道を経て帰洛した。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より)

             

4、かなふ屋(叶屋)

所在地:高崎市倉賀野町(下町交差点北)

追分・閻魔堂のすぐ先の左側にある叶屋の屋号で造り酒屋を営んでいた商家です。

現在は吉野家というそうです。連子格子がきれいです。明治20年代の建物。戸口に置かれた紫色の花、アスターの一種でしょうか、ふんわりした優しい丸みを見せて建物にマッチしていました。

        

5、旧大山家

所在地:高崎市倉賀野町(下町)交差点北)

続いてあるのが大山邸。すぐお隣のお医者さんが現在のお宅のようです。高崎都市景観賞に輝いています。街道の拡幅に伴い昭和9年に建て替えられていますが、間取りは以前と同じにしてあるとか。非公開なのが残念!脇からも少し写真をいただきました。黒い塀に曼珠沙華。白い土蔵の壁に色づき始めた柿。絵になる風景でした。

             

6、卯建のある旧家 矢島家

所在地:高崎市倉賀野町(下町)交差点北)

昭和10年代の建造で二階屋根を出して桁で支えるせがい造り(側柱上部から腕木を突き出し、その上に小板を張り軒裏を飾った)になっています。やはりここも非公開。残念です。倉賀野町はここも含めて20軒に及ぶ歴史を偲ぶ建物が保存されています。中山道を外れて見に行きたくなります。「倉賀野まちづくりネットワーク」の掲示を町中でよく見ますので、組織がしっかり機能して歴史が守られているように感じます。

          

7、倉賀野古商家 おもてなし館

所在地:高崎市倉賀野町2010-6

矢島家を過ぎて信号を一つ超えた右側にあるのが「倉賀野古商家 おもてなし館」。パンフレットもたくさん置いてあり一休みできる場所です。中には土地のご婦人数名がお茶の接待のために台所にいらっしゃいました。疲れたのでコーヒーをいただきました。パンフレットの写真を廊下に並べて撮っていたら、「食べますか?」とゆで卵をいただきました。温かい心に感謝!

追分の辺りが南町でこの辺りに来ると下町になります。この倉賀野古商家はかつては「大黒家」の屋号で米屋を営んでいた蔵作りの商家です(土蔵造り店舗・店蔵)。明治6年築です(明治後期に曳家されています)。土蔵のナマコ壁が陽に映えています。二階に上がってもいいといわれましたので、主屋の二階に。襖紙をはがした中の切り貼りが大福帳の切れ端のようで、時代が感じられて数枚撮らせていただきました。

                                              

8、寄り道……その1

清塚ヨシ家(非公開)

所在地:高崎市倉賀野町 南町

中山道に関係は無いのですが、おもてなし館においてあった倉賀野めぐりのパンフレット歴史を偲ぶ建物一覧が、おもしろそうでしたので寄り道をすることにしました。追分の方に少し戻ります。先ほどの矢島家の裏手になりますが、大きな家が見えてきました。主屋の屋根に三つの天窓がある切妻造り、総二階の養蚕農家です。堂々とした大きさに驚きです。防風の役目を持つ樫の木の生垣もしっかりとあります。明治初期に建てられた物。あまりにも大きいのでぐるりと回ってみました。わき道には真っ白な蔵。家の角には「女人講中」と記した庚申塔?もありました。居住中とのことで非公開です。

              

9、倉賀野河岸跡碑

所在地:群馬県高崎市倉賀野町南町 烏川倉賀野緑地

歴史を偲ぶ建物を訪ねた寄り道から中山道歩きに戻ります。倉賀野宿は概要でも述べましたが、利根川の支流・烏川ぞいにありましたので、倉賀野河岸が物資輸送の中継地となり港町として大きく発展しています。

旧中山道に戻り中町の交差点を左に折れると共栄橋に出ます。その橋の左側に「河岸の碑」があります。河岸のあったところは共栄橋をくぐった先の東側になります。荷揚げされたものが中山道脇本陣のあるところまで牛の引く荷車で運ばれていましたので、「牛街道」と呼ばれる道も存在しています(牛宿、というのもあったそうですよ。荷を引く牛が眠ったのでしょうかしらね)。

利根川舟運の折り返し地点の大河岸として栄えた倉賀野河岸にあげられた荷は、大名・旗本の蔵米が多かったそうです。

廻米の顧客諸藩は42家にもおよんだそうですが、なかでも、1724(享保9)年の書き上げによると松代藩が1年に12,000俵、松本藩16,000俵、上田藩4,300俵、安中藩5,000俵などほんとうに多くの流通があったことが記されています。

諸藩は参勤交代の入用のために、あるいは江戸に詰める場合の生活資金にと御米を売ったそうです。これらのお米は担当する米宿に河岸で払い下げられたり、江戸屋敷まで回送されたりしています。

今は立ち止まっても静かな烏川岸ですが、これら船の運送にかかわる人々や牛馬や荷駄が、中山道や牛街道を行き交い、船100艙余り、11軒の船問屋、船積みする人夫の大声や、飯盛り屋の女たちの嬌声などがにぎやかに聞こえてきそうな気がします。

荷の流通と共に人形芝居や屋台囃子などももたらされ、文化の面でも活況であった倉賀野宿。明治期に高崎線が開通して倉賀野駅が機能しはじめると、活況を呈した大河岸も倉賀野宿も衰退に向かっています。(参考資料:読売新聞記事他)

             

10、本陣碑と脇本陣須賀家

所在地:群馬県高崎市倉賀野町(倉賀野駅前交差点)

倉賀野河岸跡碑を見て街道に戻ります。中町交差点を左に曲がるとベイシアマートというスーパーマーケットがありますが、ここが本陣のあった場所です。現在は駐車場の前に碑があるのみです。

倉賀野宿は 本陣1・脇本陣2、問屋場3ヶ所、旅籠は64軒と賑わった宿ですが、本陣は碑のみ、脇本陣は非公開として門構えのみで、宿場の面影はあまり残っていません(明治期の古い家屋は多く保存されているようですが)。

本陣の名称の由来は、室町将軍、足利義詮(あしかがよしあきら)が上洛に際しての宿泊場所を「本陣」と称したことが起源だそうです。本陣は平屋建てが多く、勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの貴人専用の休息場所でしたので「大名宿」とも言ったそうです。

倉賀野宿本陣は、戦国時代に倉賀野16騎筆頭であった勅使河原備後守の子孫である勅使河原家が代々の世襲をしています。碑のみ残っています。どのような本陣だったのでしょうね。脇本陣はもう少し先になりますが、その間に歴史的建造物があるので撮影します。

本陣のすぐ隣にあるのが鳥羽家。昭和8年の建造。二階の屋根を出し桁で支えた商家。倉賀野駅入り口の信号を過ぎてすぐ左にあるのが筒井家。大正12年築の町家。以前は左側に明治30年代の平家がついていたそうですが、現在は空き地になっているようです。さらに母屋も傷みが激しく今にも崩れそう。

少し進んで右側に脇本陣・須賀家が見えてきます。倉賀野宿には脇本陣は2つ。どちらも須賀家です。「須賀庄兵衛家」の脇本陣は現存していません。場所は斜め向かいの群馬銀行の辺りにあったそうです。

現存しているのは「須賀喜太郎家」で、河岸問屋も勤めています。街道に面して建つ重厚な趣の脇本陣です。卯立を西側妻壁に設け、通りに面する1、2階の全面に連子格子をはめこむ繊細な造りの建物で1903(明治36)年に再建されたものです。明治時代まで旅籠として機能していました。東側にある門は江戸時代のもの。貴重な遺産です。

「須賀喜太郎家」は、宿場がにぎやかに機能していた頃の華やかさが感じられます。ちなみに本陣は貴人のみの宿泊でしたので宿賃はそれほど請求できなかったそうで、むしろ脇本陣のほうが貴人以外の家来や一般の旅人も泊めることができたので、豊かな財力を築けたそうです。脇本陣は宿泊施設としても大きなものが必要であったので(警護もそれほどの必要が無かったので)、二階建てが多いそうです。現在の中庭もなかなかのものという評判があるそうですが、非公開のため背伸びしても見えませんでした。

                 

11、高札場

所在地:群馬県高崎市倉賀野町(健康会館前)

幕府や領主の法令を書き記した木の札が立っているところが高札場です。倉賀野宿の高札場には定書の複製がいくつか掲げられています。写真の左の高札は「定 人たるもの五倫之道を正しくすへき事。鰥寡孤独廃疾之者を憫れむへき事。人を殺し家を焼財を盗等之悪業あるましき事。慶応四年三月 太政官」とあります。人は正しく生きること、人を殺したり家を焼いたり泥棒をしたりすることはしてはいけません。寂しい立場の人々を哀れむ、つまり優しくしてあげなさいということ、などなどでしょうか。今の時代にもこのような高札があちらこちらに立っていればいいのにと思いますね。

真ん中の高札は「きりしたん宗門ハ累年御禁制たり 自然不審成者有之ハ申出へし

御ほうひとして はてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者の訴人 同断 同宿併宗門の訴人 銀百枚 右之通下さるへし、たとひ同宿宗門

之内たりといふ共申出る品により 銀五百枚下さるへし、かくし置他所より あらハるるに於てハ其所之名主併五人組迄 一類共に罪科におこなハるへき者也 正徳元年五月 奉行 右之通被仰出候畢領内之輩 可相守もの也 越前」とあります。

一類共に罪になりお家断絶……時代劇に良く出てくる言葉ですが、厳しい掟の中で人々は質素に暮らしていたことが想像されます。

禁制キリシタンの高札は多いそうです。いるまんは修道士のこと、立ち返り者とはキリシタンであったのが改宗して再びキリシタンに戻った人ということです。

     

12、倉賀野城址

所在地:群馬県高崎市倉賀野町(烏川沿いの雁公園)

高札場のある「上町」の交差点を左折して倉賀野城址に向かいます。烏川が大きく曲がっている場所にあります。倉賀野城は烏川を天然の掘りとしていましたので、かなり見晴らしの良い高台にお城はあったのですね。川の上流も下流もはっきりと見渡せます。現在は雁児童公園(かりがねじどうこうえん)となって、城址であったことを示す石碑と倉賀野城の説明の石板があります。花々が咲き乱れていて、しばらくは花に止まる蝶々の撮影に夢中になってしまいました。

倉賀野城は1170(治承年間)頃、秩父三郎高俊が倉賀野氏を名乗って倉賀野の地に城を構えて以来、400年の後、1590(天承18)年、戦国の世の勢力争いに巻き込まれて廃城しています。

烏川の曲折が眼下に見下ろせるこの場所は、のろし台・おそなえ山のあったところだそうです。本丸はこれから訪ねる井戸八幡の北後方の辺り。そのまま旧中山道のほうに二の丸・三の丸と続き、九品寺の手前に大門。さらに東は倉賀野神社までが城内だったそうで、かなり大きな倉賀野城だったようです。廃城からさらに425年が経過している今、その面影はなく、烏川の水面は晩夏の陽光にキラキラと光り、花と蝶と遠くの山並みと、ただただきれいな景色が残されているのみです。のろし台の雑兵の気分になってしばらく休憩をします。

                             

13、八幡神社

所在地:群馬県高崎市倉賀野町1437

倉賀野城址より西の方の住宅街の中に八幡神社はあります。

1646(正保3)年のこと、田口長右衛門辰政という人の夢の中に、つがいの鳩が現れてお告げをします。お告げの通り、倉賀野城三の廓跡に行ってみると、そこに井戸が出現していました。冷水が溢れ光り輝く井戸の中には八幡大神が現われていたといいます。以来、里人は「井戸八幡」と呼んで信仰しました。現在も残る井戸の上に社を立てて神輿が保管されています。井戸は10年に一度開帳されます。八幡神社の境内には、「八幡神社修復記念碑」の石碑がありますが、土台の石は倉賀野河岸の舟留め石だそうです。ひっそりとした、しかし風格のある神社を後にします。

        

14、倉賀野城主墓所 栄泉寺

所在地:高崎市倉賀野町1043

八幡神社より牛街道と名づけられた細い道を上町の交差点に戻ります。ちなみにこの細い道は倉賀野城の堀のあとだそうですが、道が狭いので荷駄を背負う牛と馬が行きますが、牛ののろさを馬は追い越せず、とうとう牛のみの道となった、といういきさつがあるそうです。

上町の交差点を直進するとやがて左側に栄泉寺が見えてきます。倉賀野城主・金井淡路守秀景の墓所があります。立て札はありますが、ごく普通のお墓ですので、一人で探すのにはウロウロしてしまいます。大きな木が目標。寺は1573(正元年)年に金井淡路守秀景自身が開基しています(没は1590年)。この地はもとは倉賀野城の北の砦だったところだそうです。ムジナ伝説、機関車伝説、狸伝説など怖い話が多い栄泉寺ですが、そのお話はまた今度ゆっくりと……。

        

15、倉賀野神社

所在地:群馬県高崎市倉賀野町1263

高崎市重要文化財

栄泉寺より上町交差点に戻り旧中山道を進みます。7本目の横道を過ぎて左に折れた右側にあります。807(大同2)年、第十代崇神(すじん)天皇創始と伝えられている倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守、倉賀野で一番大きな神社です。近在には豪族の古墳も多くあるので、畿内豪族が東国に進出する際に、祭祀の場所とした神聖な地であったという説もあります。

神社本殿は、一間社流れ造りで、正面及び背面に唐破風が付き、屋根は銅板葺き。上棟は1865(元治2)年です。江戸時代後期の社寺建築の特色である無彩色の多種多様な彫刻を駆使しています。

拝殿正面の彫刻は倉賀野神社に書として伝わる「飯玉縁起」(※3)の伝説を物語っています。

本殿ともに色のない地味な彫り物ですが、絵柄は繊細で今にも動き出しそうな躍動感が伝わります。ぐるりとゆっくりと鑑賞に値する彫刻群です。本殿の築造は幕末の頃のものとのこと。倉賀野神社と呼ばれる様になったのは明治の終わりごろで、それ以前の社名は飯玉宮(いいだまぐう)、大国玉神社だったそうです。

9月半ばの境内は金木犀の良い香りが漂い、灯篭の影も秋の陽に長く伸びて、ユルユルとした気持ちになりますが、秋の陽はそう長くは照りません。この後、古墳撮影を二つ予定していますので先に進みます。

古墳と私は相性が悪く……あまり気が進みませんが……。

※3

倉賀野神社公式サイトより転載

『「飯玉縁起」

光仁天皇の御代(770〜780)、群馬郡の地頭・群馬太夫満行には8人の子がいた。末子の八郎満胤は文武の道に優れ、帝から目代の職まで賜るようになる。これを妬んだ兄たちは八郎を夜討ちにして鳥啄池(とりばみのいけ)の岩屋に押し込めてしまう。

八郎は憎しみの余りに大蛇と化し国中にまで生け贄を求めるようになる。やがて小幡権守(おばたごんのかみ)宗岡の家が贄番に当たる年となり、父と16才の娘海津姫は悲運に嘆き悲しむのであった。

都から通りかかった奥州への勅使、宮内判官(くないほうがん)宗光はこれを聞き、海津姫とともに岩屋の奥へ入っていく。真っ赤な舌をのばし牙を立てて怒り狂う八郎大蛇と、一心に琴を弾き法の功徳を説く勅使宗光。

すると八郎は琴の音に随喜の涙を流し、これまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変えた。そして天空に舞い上がり「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん。」と宣言し、群馬と緑埜(みどの)両郡境の烏川のあたりに飛び去り姿を消した。

これを見た倉賀野の人高木左衛門定国は勅使に上奏し、この地に「飯玉大明神」を建立したという。巻物の末尾には「大同2年丁亥九月十九日 豊原朝臣高木左衛門定国」とある。』

                                     

16、安楽寺と古墳

所在地:群馬県高崎市倉賀野町867

倉賀野神社を出て旧中山道に戻ります。先に進むと上町西の交差点が見えますが、その一つ手前の道を右に曲がったところにあります。このあたりが倉賀野宿の西口(京口・上の木戸)となります。安楽寺は七仏薬師さまの名前もある古刹。

山門入口の横に室町時代の板碑(板石卒塔婆)が保存されています。将棋の形をした珍しいものです(高崎市指定史跡)。

本堂の裏山には7世紀末頃に造られた横穴式石室の円墳があります(群馬県指定の史跡)。埋葬主体部は、石棺式石室という珍しい形態で、近畿地方にみられる横口式石槨との関連がうかがえるもので、地域の有力者が埋葬されたと考えられているそうです。

墳丘は現況で径約20メートル、高さ4メートルの規模。周囲には堀があった可能性が高いそうです。竹がすっくりと空に伸びて、小さな丘は古墳とは思えないですが、石室内の壁には鎌倉時代の作と推定される7体の仏像が彫られているそうで、12年に1度、巳年にだけ開帳されるそうです。

古墳には長くいられない体質のため撮れなかったのですが、古墳の北側に鼠供養塔というのがあるそうです。倉賀野脇本陣の主である須賀庄兵衛が、自宅の蔵の鼠を供養するために建てたと言われるものですが、倉賀野河岸の米蔵を解体する時に、沢山の鼠を殺したので、その供養のために蔵主が建てたという他説もあるそうです。解体した米蔵の部材を使って、安楽寺の庫裡を建てたという話も残っているそうで、さすが古刹ですね。

                    

17、浅間山古墳(せんげんやまこふん)

所在地:群馬県高崎市倉賀野町313

国の史跡指定

上町西の交差点に戻り高崎方面に直進します。倉賀野宿はこのあたりまでで、次に高崎宿に行くまでは少し道のりがあります。交差点を過ぎると松林が見えてきます。まだまだ可愛い松の木です。昔はここに松並木が続いていたそうですので、それにちなんで改めて植えられたのでしょうね。何十年後かには立派な松並木になるでしょうね。頑張れ松の木!

倉賀野町西のバスストップの脇に中山道の道標。さらに上佐野の歩道橋を過ぎると左側に見えてくるのが浅間山古墳です。

大きいですね。倉賀野には古墳が多いのですが、その中でも最大規模の全長71.5メートルの浅間山古墳です。古墳は前方部を南東に向けています。墳丘のうち後円部は3段築成、前方部は2段築成で、表面には葺石が葺かれ、円筒埴輪および形象埴輪(器財・家形埴輪)が並んでいたと考えられているそうです。埋葬施設は明らかではありませんが、竪穴形の粘土槨である可能性が指摘されていて、特に墳形は奈良県奈良市の佐紀陵山古墳の5分の4相似形の設計と見られ、佐紀が中心を成した頃のヤマト王権と被葬者との密接なつながりが指摘されるそうです。発掘調査が行われていないので、主体部の内容は不明だそうですが、古墳築造は四世紀末から五世紀ころと推定。まさしく古墳時代、大和朝廷の時代の墳墓なのですね(参考資料:ウィキべティア、高崎市教育委員会立て札)。

浅間山古墳は外堀を持っていたとの事。おりしも白鷺が一羽舞い降りていて、外堀ならぬため池の中の魚を狙っていました。秋の果実も栗、柿、無花果などが実を付けていました。古墳へは登る道が無いようで、ある意味ホッとしながら、そして古を想いながら倉賀野宿の撮影を終えます。

                           

18、寄り道……その2

昭和初期の家

所在地:群馬県高崎市倉賀野町1690他

自転車を駅に返そうとしたのですが、昭和初期の家が近くにあるので気になって撮影に。

居住中のため非公開ですが、2軒ありました。倉賀野町は歴史を残すことに力を入れてまたそのPRもすごいと思います。

■織茂家

昭和の懐かしさが漂ってくるような家です。割烹着をつけたおばあちゃんが出てきそうです。屋根は切妻造りの平家。間口三間に対しておくが広くとってあるのが特徴。軒の木口に銅版がはってある。地盤補強のため石炭ガラが敷いてあるとのこと。昭和初期の構造(倉賀野めぐりパンフレット第2号より引用)

■小黒家(小黒商店)

現役の文房具屋さんです。わき道からも撮影させていただきました。看板も極東ノートと今ではあまり見られない看板です。年代ものの看板好きの私としてはリキ入れてシャッター押しました。

昭和初期の築造で屋根はゆるい勾配のついた入母屋造り。前面すべて引き戸で商家の特徴が良く出ています(倉賀野めぐりパンフレット第2号より引用)

            

さて、これでほんとうに倉賀野宿終了です。自転車を返しに倉賀野駅に戻ります。

次は高崎宿です。


Apr.5,2015 瀧山幸伸 source movie

大鶴巻古墳

Otsurumaki kofun

                     

小鶴巻古墳

kotsurumaki kofun

    

浅間山古墳

Sengenyama kofun

            


Mar.2004 瀧山幸伸 

街並 townscape  source movie

    

 

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