群馬県安中市 横川、坂本、碓氷峠
Yokokawa, Sakamoto, Usui touge ,Annaka city,Gunma
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安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第二橋梁 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造 19930817
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第三橋梁 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造 19930817
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第四橋梁 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造 19930817
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第五橋梁 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造 19930817
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第六橋梁 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造 19930817
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第一隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第二隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第三隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第四隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第五隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第六隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第七隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第八隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第九隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町坂本地内 碓氷峠鉄道施設 第十隧道 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治26(1893) 煉瓦造隧道 19941227
安中市松井田町横川地内 碓氷峠鉄道施設 旧丸山変電所蓄電池室 重文 近代/産業・交通・土木 大正 大正元(1912) 煉瓦造平屋建 19941227
安中市松井田町横川地内 碓氷峠鉄道施設 旧丸山変電所機械室 重文 近代/産業・交通・土木 大正 大正元(1912) 煉瓦造、建築面積354.75㎡、スレート葺 19941227
July 2018 酒井英樹
碓氷峠鉄道施設
群馬県安中市松井田町
群馬県横川と長野県軽井沢の間にある碓氷峠越えの道は、古来から交通の要衝であると同時に難所でもあった。
鉄道施設は明治初年に計画され、明治24年(1891)に工事着手され、明治26年(1893)に開通した。敷設は国直営で実施された。
企画立案はイギリス人技師ボイル(Boyle)等、実施計画もイギリス人技師ポーナル(Pownall)らによって行われた。
軽井沢・横川間を短距離で結ぶため急傾斜の勾配(最大1/15)となり、それを克服するためドイツ山岳鉄道などで採用されていたAbt式を日本人技師吉川三次郎の発案で採用された。
Abt式のラックレールを支持する必要性から橋梁の大半は煉瓦造とし、勾配の関係から構造物が多くを占め、橋梁(18基)・トンネル(26箇所)は横川側から順番に番号が振られた。
輸送力増加のため明治43〜45年(1910-1912)にかけて電化され、横川に火力発電所と丸山変電所、軽井沢に矢ケ崎変電所が設けられた。
その後、昭和12年(1937)には軽井沢と横川の中間の熊の平に熊の平変電所が設けられるなど逐次改良がなされた。
さらに、昭和38年(1963)に近接して新線が建設され、熊の平から軽井沢の橋梁とトンネルについては一部を除き新線に改修流用された。
しかし、横川から熊の平の大半は鉄道施設としての役割を終えたが、現在では遊歩道施設として整備されている。
このうち、第二橋梁〜第六橋梁の煉瓦橋梁5基は平成6年(1994)、第一隧道〜第十隧道のトンネル10箇所及び丸山変電所の機械室と蓄電池室の2棟が平成7年(1995)に重要文化財に指定されている。
一方、建設された新線も平成9年の北陸新幹線[高崎-長野間]の開通に伴い、信越本線横川・軽井沢間が廃止されたことで鉄道施設としての役割を終えている。
このうち、熊の平変電所、第七橋梁と線形の関係から新線に改修流用されず原型をとどめる第十三橋梁、第十七隧道が平成30年(2018)5月に重要文化財に追加答申されている。
<第三橋梁>
四連アーチ橋、各アーチ径間18.3m、最大高さ31.4m、頂部延長91.1m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第四橋梁>
単アーチ橋、アーチ径間7.3m、高さ4.4m、頂部延長9.8m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第五橋梁>
単アーチ橋、アーチ径間11.0m、高さ8.8m、頂部延長15.8m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第七隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長75m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
<第十隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長103m
明治時代[明治26年(1893)]
≪熊の平側≫
左側のトンネルは附指定の『下り押下隧道』
<熊ノ平変電所本屋>
東西14.0m、南北23.0m、鉄筋コンクリート造、二階建、陸屋根、
水銀整流器を導入した最初期の変電所
新線設置後も使用されたが、平成9年(1997)に廃止
昭和時代[昭和12年(1937)]
<碓日嶺鐡道碑(附指定)>
碓氷線開通を記念して軽井沢駅前に建てられた鉄道碑。
軽井沢の有力者であった佐藤万平、小川勇二らが陸軍参謀次長の川上操六に依頼して建立したもの。
大正12年(1923)に発生した関東大震災で倒壊したが、修復され旧 熊ノ平駅構内に移築された。
明治時代[明治26年(1893)]
<第十六隧道(附指定)>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長265mの内軽井沢側220.6mが残存、横川側出口はコンクリート壁で閉塞されている。
明治時代[明治26年(1893)]
≪軽井沢側≫
<第十四溝渠(附指定)>
欠円アーチの開渠、煉瓦造、延長4.7m、幅3.1m
明治時代[明治26年(1893)]
<第十七隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長175.0m
入口坑門は焼過煉瓦使用
明治時代[明治26年(1893)]
≪熊の平側≫
≪軽井沢側≫
<第十三橋梁(中尾川橋梁)>
五連アーチ橋、各アーチ径間7.3m、最大高さ10.1m(現在土砂で埋没)、頂部延長51.7m、煉瓦造
高欄の笠石や橋脚の隅石として石材使用。
第三橋梁・第六橋梁に次ぐ長さと最多径間数を持つ。
明治時代[明治26年(1893)]
中山道第17坂本宿
概要
松井田宿を過ぎて横川の駅も通り越して歩いて行くと、国道を一つ越えた以外は、今なお、中山道の面影ある道が曲がりくねって続いています。しかし、東北自動車道の橋梁をくぐり抜けて坂本宿の入り口である木戸跡にたつと、正面に標高810mの刎石山(はねいしやま)(この山の頂を碓氷峠越の時に通過します)に向かって気持ち良く伸びた一本の幅広のコンクリート道が通っていて、いきなりの現代風で驚きます。これが坂本宿です。地理的には標高406m地点で、JR信越本線終点の横川駅から国道18号線(旧道)を軽井沢方向に2kmとなります。
「坂本」の地名由来は難所の碓氷峠の入口に当たっている上り坂がこれから続いていく坂道の本、から来ているそうです。撮影所のセットのように感じるまっすぐに伸びた道は造られた道で、『人を移住させて道も水路も一番はじめから、すべて作られた宿』という珍しい特徴を持っています。
群馬県安中市には板鼻宿・安中宿・松井田宿・坂本宿と4ヶ所の宿がありますが、ほかの宿が既存の村落を整備したのに対して、坂本宿は1625(寛永2)年、3代将軍家光の時代に参勤交代の実施に伴ってその必要上、安中・高崎藩の領民を移住させて作られています。この地は、中山道にとって重要な碓氷の関所がありますし、中山道でも難所と言われる碓氷峠が控えています。街道を通過する者たちは、碓氷関所を無事に通過してきた人々、これから通過する人々、碓氷峠を越える者、越えてきた者たちなどで賑わい、特に参勤交代では、この宿に大名が宿泊することは常であったようです。
計画的に作られた宿ですから、直線で通した街道は宿が開かれた当時からのもので8.1間です。道の中央と南側と北側に用水路が三本配置され(現在、中央の用水路は北側に寄せられています)ています。
両側には160軒の家々が立ち並び、本陣、脇本陣、問屋を除いた家々は、間口3間半または7間、平入り出梁の2階建てに切妻平屋を付した建物に統一され、家々の裏には細長い畑地がそれぞれに続き、その畑地も7間間口の家は4反歩、三間半の家は2反歩と決められていたそうです。
1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、坂本宿の宿内家数は732軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒で宿内人口は732人となっています。しかし、宿の中程にある案内図には脇本陣4軒とあります。今の静寂な集落の様子からは不思議な気がしますが、相当に混雑する坂本宿であったようです。公的ではないけれども混雑時には一般的な旅籠が脇本陣に臨時昇格するようなことがあったのかもしれませんね。……あるいはですが、和宮様道中の際に格式あるお供が並みの旅籠に泊まるわけにも行かず格上げをされたのでしょうか……想像の域ですが。
ちなみに参勤交代で碓氷峠を越す藩は、中山道のみと指定された藩では、加賀藩/富山藩/美濃苗木藩/越後高田藩/加賀大聖寺藩/信州松代藩/信州松本藩/信州上田藩/美濃加納藩/信州飯山藩/信州小諸藩/信州岩村田藩/信州須坂藩/越後糸魚川藩となります。
そのほかに東海道指定ですが中山道でも良しとされた藩があります。
それは、近江彦根藩/美濃大垣藩/美濃八幡藩//美濃高富藩/近江大溝藩/越前丸岡藩/近江仁正寺藩などとなり、特に坂本宿は宿泊が多く本陣や脇本陣のやりくりが大変であったのかもしれません。
また、鬼門除けや防衛上の理由から峠側の一部の家屋が斜めに建てられるという特徴もある宿です。立派な門構えと家屋が残っている脇本陣永井家の門の前の石垣が道路に対して斜めになっているのが見てとれます。現在は幹線道路からかなり外れていますし、本陣、脇本陣も立て札があるくらいで、あがりこんで見学できる建造物は残されていません。
一直線に伸びた映画のセットのような街道や町割りはいまもほとんど変わらなく、家々の門口に当時の屋号が掲げられてありますので、当時を偲びながら歩を進める事ができますが、当時の繁栄・喧噪を想像することはできません。計画的に作られた宿場が計画的に撤退させられてしまったような、そんな寂しさが漂っている坂本宿です。
行程
横川駅→横川茶屋本陣→碓氷関所跡→薬師わき水→白鬚神社→坂本宿下木戸跡→金井家・佐藤家本陣跡→永井家ほか脇本陣跡→旅籠屋と町並み→八幡宮→碓氷峠越えの登山道入り口
1、横川駅
江戸方面から碓氷峠越えをするには信越本線横川の駅から坂本宿を歩くことになります。横川駅から坂本宿を通り抜けるまでに小一時間はかかりますので、健脚の人には山越え前のアップとしていいのですが、健脚でない人には坂本宿のあと引き続き碓氷峠を越えるのは少しきついかもしれません。土日はバスが軽井沢方面に向けてあるようですが、平日は横川駅からのタクシー以外交通手段はなく、ひたすら歩きです。
というわけで、健脚でない私は碓氷峠越えと坂本宿歩きを二つに分けますので、今回は、横川駅〜坂本宿〜それに続く碓氷峠の登山口確認までの行程となります。
中山道時代にはありませんでしたが横川駅は釜めしで有名です。新幹線開通時に平行していた鉄道が分断されるのは良くある話で、信越本線も例外ではなく高崎、長野、直江津、新潟と一本につながっていた所を2、3ヶ所に渡って分断されています。
横川駅より軽井沢駅に向かう場合は山を越えることになります。そのために横川駅で車列の前後に機関車を接続しななければならず(駅前には当時の機関車の動輪の展示もあります)、駅での停車時間が多かったので釜めしが販売されるようになったという経緯があります。おぎのやの釜めし本店は駅のすぐ前にありますが、あまり人がいません。鉄道の終点となってしまった横川駅は想像以上に寂しい風景でした。
峠の釜めしのおぎのやは、中山道宿場時代には立場茶屋(たちばちゃや)でした。茶屋はお茶とお団子を出して旅人を休憩させる場所で、宿駅を守るために食事や宿泊は禁止されていて宿場から離れたところにあるのが正しいのですが、いつの頃からか、宿場の近く、また宿場内などにも食事を供するお店を出すようになります。これらのお店は本来の茶屋とは区別して、立場茶屋(たてばちゃや)と呼ばれています。
峠のかまめしの「おぎのや」としての創業は1885(明治18)年です。おぎのやをぐるりと回って中山道(県道92号)に出ます。民家の屋根に猿が出てきています。時々出没してけっこうな悪さをするそうです。先回の旅の終わり「松井田宿歩き」に夕刻に撮った横川の駅があるので合わせますと、本日訪れた朝早い横川の駅の対比も面白いものです。
2、横川茶屋本陣
所在地;群馬県安中市松井田町大字横川609
街道を歩き始めてすぐに矢の沢という細い川を越えます。矢の沢上流に続いているのは尾根山森林公園に行く関東ふれあい道です。説明板もあります。庚申塔、二十三夜塔などがみえます。電信柱に熊出没注意の貼り札も。怖いので通過します。
右側に茶屋本陣。茶屋とつきますが茶屋や立場茶屋とは比べものにならないくらいの格式があるのが茶屋本陣です。横川は松井田宿と坂本宿の間にありますが幕府から認められた正式な宿場ではありませんでしたので本陣・脇本陣・旅籠などの設置はできませんでした。しかしすぐそこに碓氷の関所を控えていたので、参勤交代の多くの大名たちは旅のために動きやすくしている衣服をこの横川の茶屋本陣で、大名としての格式ある衣装に着替える必要があり茶屋本陣が設けられているということです。
安中市のHPには下記のように出ています。
『横川茶屋本陣横川茶屋本陣は中山道の横川にある施設です。横川は所謂当主は代々横川村名主を勤め江戸時代末期には坂本宿の助郷惣代を務めた武井家が歴任しています。茶屋本陣は本陣に準じる施設で大名や公家など身分が高い人物が休息(原則宿泊は出来ない)で利用した為、格式や意匠も細かく定められ、天井の高く床の間や違い棚を設けた上段の間(8畳)や控えの間(2間)、畳敷きの廊下などが設けられ風情のある庭園が旅の疲れを癒しました。建物は木造2階建、切妻、銅板葺、正面2階部分が前に張り出し、その床を支える為、1階の梁桁を外部まで延長する所謂、出桁造りで全面に手摺を回すなど当時の様子が色濃く残っています。住居部と本陣部は一棟にまとめられ見た目には分かりませんが、住居部が2階建なのに対し、本陣部は上段の間の天井が高い為平屋建となっています。横川茶屋本陣は数少ない中山道の遺構として貴重な事から昭和33年(1958)に群馬県指定史跡に指定されています。』
居住中・非公開ですが、生活が感じられない静かなたたずまいの茶屋本陣です。2階の全面に回された手すりなどは、やはり商家にはない格式が感じられます。
3,碓氷関所跡
所在地:群馬県安中市松井田町横川乙57
茶屋本陣を後にして古い商店などをみながら歩くと右前方に碓井関所跡の東門のあった位置を示す白い杭が見えてきます。その先の高台に見えるのが碓氷関所跡です。
碓氷関所は899(昌泰2)年頃、碓氷峠の刎石山(はねいしやま)に群盗取締のため設置されたのが始まりですが、江戸時代になると東海道の箱根関所とともに幕府にとって重要な場所となり、1708(宝永5)年に現在の地に移されて碓氷関所として機能します(安中市のHPでは1616年)。
武器である鉄砲が江戸に入ってこないように、また人質として江戸に置かれた大名の奥方たちが逃げないように、「入鉄砲に出女」は特に厳しい取り締まりの対象であったそうです。人の出入りには関所手形を提出させますので、この碓氷関所にも手形を置くために手をついた石、おじぎ石なるものが残っています。
碓氷関所は中山道をさえぎる形で東西2つの門を設けて、その間の約95mを木の柵で覆って監視するシステムでした。江戸方面の東門は安中藩の管轄で京都方面になる西門は幕府の管轄。関所の役人は「番頭」「平番」「同心」「門番」「改女(あらためおんな)」「中間」などからなり、番頭屋敷、平番長屋、同心長屋、門番長屋などに住んだり詰めたりしています。
同心は手形の受付や罪人関連を、中間は近所の村の民で関所内の案内や雑役などを担当したそうです。改女(あらためおんな)の役職などは幕府の管轄である西の門番の妻女が交代で詰めたとか。女性を調べる係だったのでしょうね。東門と西門とで前後を閉ざされた中に、役宅長屋までがすべて入っていましたのでかなり大きな関所であったようです。現在は東門が復元されて(門柱、門扉は当時のもの)、番所の跡地に建っています。中山道をふさいで建っていたという碓氷関所ですが、現在は10分もあれば見学終了です。
道はなだらかな下り。関所の斜め前に木が茂っていますが、そこにはアプト式鉄道を明治18年に突貫工事で行った以後に亡くなられた方々の鎮魂の碑が建てられています。
4,薬師わき水
所在地:群馬県安中市松井田町原
そのまま坂道を下りガードをくぐって、国道にほんの少し平行して歩くと右側に川久保橋。昔はもう少し上流にあって碓氷御関所橋と呼ばれ土橋で増水時期には流失多々。軍事優先のためには土橋でも仕方なかったそうですが、橋の流失で川止めとはいえ、書状や大名行列など期限が切られているものを渡すのは必至だったようです。書状は宿継ぎご用綱をケーブルのように渡して送り、大名たちの必死の川越には碓氷関所の番頭(ばんかしら)が川原に出て付き添った、と説明板にはあります。
国道は大きく左にそれますが正面に細い道があります。これが旧中山道で、薬師坂という呼称です。入っていきます。左側に薬師堂。その先に湧き水。薬師様に旅の安全を祈り、心太などを食べながら、碓氷峠や関所の情報交換をした場所であったと記されています。道は曲がりくねって続き、先ほど左にそれていった国道18号と合流します。
猫発見!菜の花きれい!国道に出ます。「中山道坂本宿0.9km 松井田宿7.4km」道標。後はまっすぐに坂本宿です。
5、白鬚神社
所在地:群馬件安中市松井田町原226
一本道となる坂本宿です。上信越自動車道高架手前の左側に白鬚神社と水神宮があります。青い空に水神宮の赤い鳥居が良く映えます。坂本宿は安中藩や高崎藩から人々を移住させて作られた宿ですが、原村の集落として40戸ほどはあったそうで、その方たちの生活用水として水路が通っていた、と記してあります。水神は稲作にも絡む民間信仰の神様です。駐在所、原の信号を越えると道は少しだけくねっていますが、ほぼ一直線には変りはありません。
6,坂本宿下木戸跡
所在地:群馬県安中市松井田町坂本
いよいよ坂本宿に入ります。やはり何よりも印象的なのは、ここから先が刎石山(はねいしやま)に向かって真直ぐ伸びている約713mの宿場通りということ。近年整備されたこともあってとてもきれいです。コンクリートが白すぎて宿の風情と合わないようです。
宿の入り口となるところに下木戸跡の立て札があります。どこの宿も同じですが、木戸番がいて顔が識別できる朝の6時から夕刻の18時頃までが開門されていたそうです。街道の家々は所々奥の方に見える土蔵に面影がありますが、ほとんどの家は新しくなっています。
坂本宿を管理している自治体の方針でしょうか、家々にはそれぞれ当時の生業であった看板(屋号)が掲げられています。160軒の賑わいであった坂本宿。それらの屋号の看板を確認しながら歩くのはちょっと楽しいです。「かしわや」「木曽や」「おぎのや」←?釜めし?まさかね。「かじや」「すげたや」←ワラジなど売っていた?そのほか「叶や」「かめや」などオーソドックスな屋号が続きますが、中には?という屋号も。例えば「おためや」「ごかんや」などは何屋さんだったのでしょうか。道々に木蓮の蕾、梅の花、きれいです。
7,金井家・佐藤家本陣跡
所在地:群馬県安中市松井田町坂本
宿のちょうど真ん中辺り、コンクリート塀で囲われた中に下の本陣である金井本陣跡があります。今は民家が建っていますが当時は建坪180坪の大きさで、皇女和宮様も御一泊。金井本陣と言えば先の松井田宿の本陣も、確か金井本陣。……由緒ある金井家なのでしょうね。
その数軒先には上の本陣となる佐藤本陣跡。本陣が二軒必要だったのは加賀百万石の松平加賀守が参勤交代で江戸に、信州松代の真田右京太夫が帰る、とこの宿で同日にすれ違うことになり本陣が二つ必要になった、と説明板に記されています。右京も太夫も箔をつけるための官職名ですので調べてみましたら、すれ違ったのは寛政2年のこととありますので、真田家の歴史の中では真田幸弘がこの年の城主で右京太夫という官職名を受けていますから、この人かもしれません。おりしもNHKの大河ドラマは『真田丸』。なんだか身近に感じますが、本陣を二つも作る坂本宿の人たちは大変だったでしょうね。
この佐藤本陣の説明板の後方に、もう一つの古い説明板があり、それには佐藤本陣は明治8年に坂本小学校の仮校舎となり、その後佐藤家移転のために明治34年には「旅籠小竹屋」が建てられたとあります。現在私たちがみているのは旅籠屋跡でしょうか……。ちなみに坂本小学校は現在廃校になっていますが、レトロな校舎はもう少し先に行った右側に残っています。
8,永井家ほか脇本陣跡
所在地:群馬県安中市松井田町坂本
永井脇本陣の先に「中山道坂本宿屋号一覧」が掲示されています。多くの人々がそれぞれの生業で生き生きと暮らしていた様子が想像できます。坂本宿には本陣2軒と脇本陣が八郎兵工・永楽屋・永井家・酒屋と4軒あったと記されています。宿の年寄役も勤めていた永井家は立派な冠木門に切妻造の家屋。永井脇本陣は鬼門よけとして斜めに建てられていることが門の前の石垣で解ります。酒屋脇本陣跡は坂本公民館になっています。
9,旅籠屋と町並み
少し進むと、坂本宿の面影を残す代表的な旅籠建築といわれる「かぎや」があります。370年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家が坂本に移住し、旅籠に役職にちなんで「かぎや」とつけたといわれています。鍵屋幸右衞門さんが旅籠屋を経営したということでしょうね。大きな旅籠で現在も居住中です。屋根は社寺風の切妻と懸魚、出梁の下にはすかし彫刻があり正面の家紋の下の屋根看板は江戸方面、京方面両方からみられるように下げられています。階下・階上ともに格子戸で一晩泊まりたくなる風情です。ちなみに鍵屋幸右衛門さんは傑出した俳人だったそうです。横川茶屋本陣も武井家ですね。同じ方でしょうか。
歩を進めます。「かぎや」の先にも「つたや」「たかさごや」の旅籠がありますが、「たかさごや」は一茶の定宿。俳諧、短歌が盛んであったこの時代、飯盛り女まで指を折って句を作ったと立て札に書かれてあります。
時代は下りますが、賑わっていた坂本宿も、碓氷峠にアプト式鉄道が開通してから15年後の明治41年ごろには、寂れた宿となってしまいます。碓氷峠を越えてきた旅の詩人若山牧水が、坂本宿でたった一軒残っていた旅館「つたや」に宿泊して「秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰りの唄」を残しています。
横川駅を過ぎた辺りから猿が出てきて、山々の域に入ってきた感じがしますが、坂本宿で出会ったこの動物は皮膚に疾患を負っているようですが、なんなのでしょうか。ハクビシン?狐?ちょっと気味が悪いかったけれど、写真に収めました。物欲しそうだったのでパンをあげてみたけど食べませんでした。 宿場の町並みもそろそろ終わりそうです。「上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡という石碑が建っています。お隣は「港屋」さん。
上木戸跡の黒い「坂本宿」標柱。その手前に石碑が2つ。1822(文政5)年建立の橋供養碑です。もう一つは「常夜」と刻まれています。常夜灯だったようです。どのような形だったのでしょうかしらね。
10,八幡宮
所在地:群馬県安中市松井田町坂本
碓氷の郷の産土神として景行天皇40年(西暦110年)に日本武尊の分霊を勧請したのが始まりの八幡宮様です。江戸時代に坂本宿が開かれると近郊にあった諏訪神社、白山神社、八坂神社、水神、菅原神社、大山祇神社などを合祀して現在地になったとのこと。1914(大正3)年には村社に。
獅子だとしても怖くもない、あまり威厳もなさそうな、子犬も持たない、角も牙もない、模様もない、ないないづくしのでも優しそうなあっさりとした狛犬が神社を守っています。愛嬌があるので手を振って八幡宮と別れます。ここで坂本宿は終わりですが、次回の碓氷峠越えのために登山道入り口を確認したく、これから歩いて行ってきます。
安中市立坂本小学校
所在地:群馬県安中市松井田町坂本 1323 番地
建築年:昭和24年
江戸時代は碓氷峠を控えた宿場町として大いに栄えますが、近年は信越線廃止、上信越道開通などの交通事情により過疎化が進んでいる地域です。
中山道坂本宿の中心にある坂本小学校小学校は明治8年に資本金478円87銭 、生徒数51名で開校。
沿革
明治8年創立
明治29年、坂本尋常高等小学校と改称
昭和16年、坂本町国民学校と改称。義務教育8ケ年となる
昭和22年、6.3.3.4制実施。坂本町立坂本小学校と改称
昭和29年、町村合併により松井田町立坂本小学校と改称
昭和36年、松井田町立第三小学校と改称
昭和60年、松井田町立坂本小学校と改称
そして、
2013(平成25)年、臼井小学校に合併のため138年の歴史に幕を下ろし廃校。現在は美しい木造校舎のみ残っています。
11,碓氷峠越えの登山道入り口
国道を歩いて行くと「小諸34km 軽井沢17km」の交通標識があります。通り過ぎます。横川駅から3.5キロ地点です。青空がきれいです。カーブの突き当たりにあるのは創業200年と書かれた「玉屋ドライブイン」。創業の漢字とドライブインのカタカナがミスマッチの気がしますが小腹が空いたので中に入ります。元祖とある力もちが有名のようです。なんでも碓氷貞光という力持ちの武将が関係していて和宮様も食されたとのこと。甘いものは難所である峠を越えていく力になるのですね。
「登山口までは何分くらいですか?」「これから峠を越えるのですか?越えるのに5,6時間はかかりますよ。」「いえいえ、次回の碓氷峠越えの下見です」「そうですか、登山道入り口なら歩いてもう少しです」。お店の方とこんなやりとりをして山道に進みます。時間は午後三時。峠越えには心配な時間ですよね。ご心配いただいたようです。
ほどなくして峠越えの山への入り口が見えてきました。安政の遠足(あんせいのとおあし)の立て看板と熊出没注意の立て看板があります。実は毎年五月の第2日曜日に安中市主催の「安政の遠足」に因んだマラソン大会があり、この碓氷峠を多くのランナーが走る予定です。その前なら、きっと行政が山道を整備されていることだし、安全かな?と思い、碓氷峠越えをするなら五月、と心づもりしていましたので、次回は五月の連休になる予定です。
登山道を20歩くらい上ってみたらけっこうな急坂です。……峠越えられるかなぁ……心配ですが、ひとまずこれで坂本宿を修了します。
碓氷峠鉄道施設
群馬県安中市松井田町
群馬県横川と長野県軽井沢の間にある碓氷峠越えの道は、古来から交通の要衝であると同時に難所でもあった。
鉄道施設は明治初年に計画され、明治24年(1891)に工事着手され、明治26年(1893)に開通した。敷設は国直営で実施された。企画立案はイギリス人技師ボイル(Boyle)等、実施計画もイギリス人技師ポーナル(Pownall)らによって行われた。急傾斜の勾配(1/15)を克服するためAbt式を日本人技師吉川三次郎の発案で採用された。
輸送力増加のため明治43〜45年(1910-1912)にかけて電化されたほか逐次改良がなされた。橋梁(18基)・トンネル(26箇所)は横川側から順番に番号が振られた。
昭和38年(1963)に近接して新線が建設され、橋梁とトンネルの半数が新線に使用されたが、横川と中間駅の熊の平間の大半は鉄道施設としての役割を終えた。建設された新線も平成9年の北陸新幹線[高崎-長野間]の開通に伴い信越本線横川・軽井沢間が廃止された。一方、残されていた横川-熊の平間に鉄道施設は遊歩道施設として整備されている。
第二橋梁〜第六橋梁の煉瓦橋梁5基は平成6年(1994)、第一隧道〜第十隧道のトンネル10箇所及び丸山変電所の機械室と蓄電池室の2棟が平成7年(1995)に重要文化財に指定されている。
<第二橋梁>
単アーチ橋、アーチ径間7.3m、高さ12.2m、頂部延長24.9m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第三橋梁>
四連アーチ橋、各アーチ径間18.3m、最大高さ31.4m、頂部延長91.1m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第四橋梁>
単アーチ橋、アーチ径間7.3m、高さ4.4m、頂部延長9.8m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第五橋梁>
単アーチ橋、アーチ径間11.0m、高さ8.8m、頂部延長15.8m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第六橋梁>
単アーチ橋、アーチ径間11.0m、高さ17.4m、頂部延長51.98m、煉瓦造
明治時代[明治26年(1893)]
<第一隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長187m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
<第二隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長113m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
<第三隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長78m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
<第四隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長100m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
≪内部≫
<第五隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長244m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
≪内部≫
<第六隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長546m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
≪内部≫
甲横坑
<第七隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長75m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
<第八隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長92m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
<第九隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長120m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
<第十隧道>
煉瓦造隧道、馬蹄形坑口、延長103m
明治時代[明治26年(1893)]
≪横川側≫
≪熊の平側≫
<旧丸山変電所機械室>
正面28.5m、側面12.1m、切妻造、スレート葺
大正時代[大正元年(1912)]
<旧丸山変電所蓄電池室>
正面31.1m、側面14.0m、切妻造、スレート葺
大正時代[大正元年(1912)]
旧丸山変電所
Kyu Maruyama substation
めがね橋
Meganebashi
坂本宿(中山道69次、17番目の宿場)
所在地;群馬県安中市松井田町
坂本宿が出来たのは参勤交代に伴い碓氷峠の登り口に宿場が必要となった徳川家光の時代、1625年に付近の住民を移住させ、幅員14.85m・延長713mの道路を造成し中央には用水路を設置しました。
ここに2つの本陣(坂本宿は碓氷峠と碓氷関所を抱えているので本陣が2つ必要なくらいにぎわった)、4つの脇本陣、馬宿、旅籠32件、酒屋、風呂屋、女郎屋各6件、米屋、鍛冶屋などすべての商店が並んだ賑やかな宿場でした。
現在でも当時の建物がいくつか残っています。
整備された道は、広く、まっすぐだったため、現在はそのまま国道18号線旧道として使われています。
国道は整備中で写真に入るのにちょっと邪魔でした。綺麗な白っぽいアスファルトになりつつあり、宿場の雰囲気に合わない。違和感を少し覚えました。
宿場の家々には屋号が掛けられています。建て替えられた家にも屋号は残ります。
何屋さんだったのか<>綴じしてくださるとおもしろかったのに、と思いました。まっでも、庄屋さんや酒屋さんや脇本陣ならいいけれども、女郎屋さんともなると今時かけないかもしれないですね。
参勤交代のみならず、皇女和宮が江戸に下る時も三万人の人々が宿泊、通過したそうで、下々のものはその辺の馬屋の脇にでも野宿したのではないかと、本陣の木陰で涼みながら想像しました。
「かぎや」と屋号を下げている家は、坂本宿で現存する一番大きな建物だそうです。
その「かぎや」を右手に、横川方面を背中にすると国道の正面に見えるのは刎石山(はねいしやま)です。刎る(はねる)とは物騒な字で、人の首をはねるという意味です。
昔から主要街道には関所が置かれ、現在の碓氷バイパスや上信越自動車道には碓氷峠、入山峠、和美峠などがあり、関所を避けたい人達が峠越えをしたそうで、見つかって捉えられて、首でもはねられたのかしら……と思いを馳せました。
碓氷峠鉄道遺産周辺を歩く (ルート順表示)
Usui pass rail ruin
Apr.2008 撮影/文: 高橋久美子
横川駅には、登山者・鉄道ファン・自然を愛するハイカー・歴史愛好家・土木マニア等々、いろいろな人が降りる。
信越本線の横川ー軽井沢間が廃止になった時には、鉄道が途絶える事に大きな衝撃を受けた。
明治時代の碓氷峠の開削や蒸気機関車の運行の苦労話をよく見聞きするが、それがあってこそ現在の長野新幹線や碓氷バイパスに引き継がれているのだ、と思う。
それにしても、横川と軽井沢を結ぶバスの本数は少なく、軽井沢以西は第三セクターになり、地元の人の生活にはどう影響しているのだろう?
軽井沢には何度か行ったが、鉄道でも自動車でも、山梨経由で小諸や佐久から入るコースを取っていたので、碓氷峠を越えたことはなかった。
今となっては、手前まで行っておきながら、在来線で峠越えの経験がない自分を、つくづく残念に思う。
Yokokawa to Maruyama power plant
第一トンネル〜旧碓氷第三橋梁(めがね橋)
Tunnel No.1 to Usui No.3 bridge
横川、中山道 坂本宿 付近
Yokokawa, Nakasendo Sakamoto post town
June 2005 瀧山幸伸 source movie
脇本陣永井
脇本陣酒屋
かぎや
佐藤本陣
碓氷峠鉄道遺産 旧丸山変電所(国重文)
Maruyama power plant
碓氷関所
Usui gate
碓氷峠鉄道遺産めがね橋(国重文)
Usui pass railroad
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ハイキングに最適 | |
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Flower | ||
Culture | ||
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June 2008 撮影:Ise
June 2005 瀧山幸伸 source movie
めがね橋 ボランティアの解説
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request
中山道 碓氷峠r熊野神社付近 群馬県側
Usui pass Kumanojinja area Gunma side
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request
中山道 横川から坂本 ドライブ
Yokokawa - Sakamoto drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request
中山道 碓氷峠から横川 ドライブ
Usui pass - Yokokawa drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 子持山から碓氷峠熊野神社 ドライブ
Komochiyama - Usui pass drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request
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