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広島県福山市 廉塾ならびに菅茶山旧宅

(Renjuku and Old Kan Chazan House, Fukuyama City, Hiroshima)

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November 28, 2020 野崎順次 source movie


広島県福山市神辺町川北640-3
簾塾・菅茶山旧宅


国特別史跡 廉塾・菅茶山旧宅(れんじゅく・かんちゃざんきゅうたく)
江戸時代後期の儒学者・菅茶山(1748~1827)は現在の福山市神辺町に生まれ,19歳のときに京都で朱子学を学び,その後ふるさとに帰って,のちに「廉塾」と呼ばれる私塾を開きました。全国から常時20人ほどの塾生が学び,頼山陽が塾頭を勤めていたこともありました。1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定されました。現在も当時の講堂や寮舎,居宅・書庫などが残っており,講堂の前には塾生が筆や硯を洗ったといわれる水路や菜園,養魚池も当時の姿のまま残っています。
(「福山観光・魅力サイト」より)

パンフレットと現地説明板
    


門をくぐると中門までまっすぐな道がつづき、両側は畑である。寮生たちはこの畑で野菜を育て、自給していたといわれている。
        


右手の桟瓦葺き平屋建ての建物は「槐寮(カイリョウ)」と名づけられた塾生の寮舎。槐はエンジュという木の名である。.
    


居宅、桟瓦葺き2階建て
     


講堂、桟瓦葺き平屋建て
       


講堂の濡れ縁は板と竹を組み合わせたもので茶山の優れたデザイン感覚がうかがえる秀作である。
  


講堂内部
      


May 2010 撮影/文:瀧山幸伸 source movie

     

               

            


Mar.2010 撮影/文 野崎順次

福山市神辺町大字川北

特別史跡

菅茶山(かんちゃざん)は1748年 近世山陽道の宿場町だった備後国安那郡神辺郷(現在の広島県福山市神辺町)に生まれた。

当時の神辺(かんなべ)は宿場町として栄えていたが、町は賭け事や飲酒などとても荒れていた。

茶山は学問を広めることで町をよくしたいと考えていた。

6度目の京都遊学から帰った菅茶山(かんちゃざん)は、天明元年(1781)、川北に家塾を開き、「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんじゃ)」と名付けた。

学問的雰囲気を村民教化に役立てようとしたのが開塾の理由である。

寛政8年(1976)に願い出て、塾とそれに付属する田地を福山藩に献上し、藩の郷塾となった。

一般に「廉塾(れんじゅく)」といわれた。

茶山は、朱子学者で、詩文に優れ、『福山志科』の編纂をするなどその名がきこえていた。

茶山は、経営は塾田の作徳米でまかない、塾生からは月謝をとらず、飯料・書物料などの実費負担のみで、貧富の別なく修学させた。

塾生の分布は、福山藩内をはじめ西日本一帯に及び、頼山陽もその1人であった。

また、古賀精里、浦上玉堂、田能村竹田、伊能忠敬などの多くの文人墨客が訪れた。

神辺本陣跡を出て、旧山陽道を北に歩く。

         

廉塾ならびに菅茶山旧宅。

敷地内に小水路が通り、塾の講堂・寮舎や茶山の居宅がよく旧観をとどめている。

講堂と槐寮(寮舎)は、桟瓦葺き平屋建て、居宅は、桟瓦葺き2階建てである。

近世の地方における教育施設として数少ない遺例であり、国の特別史跡に指定されている。

    

門をくぐると中門までまっすぐな道がつづき、両側は畑である。

寮生たちはこの畑で野菜を育て、自給していたといわれている。

  

中門の左手前に養魚池がある。

通常は養魚に使い、火事にそなえては防火用水にという用心深く合理的な考えから作られた。

養魚池の中に石碑が立っています。

「廉塾養魚池 政酉(寛政の酉年=1789年)、杪冬(12月)につくる」と書かれている。

この文字もまた茶山の書と言われている。

  

この建物は「槐寮(カイリョウ)」と名づけられた塾生の寮舎で、槐はエンジュという木の名である。.

  

居宅と水路。

      

講堂。

   

廉塾の講堂前にある手水鉢。

御影石が丸と四角に彫られていおり、「方円の手水鉢」とよばれるこの手洗いは、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものといわれている。

   

この手洗いは講堂の濡れ縁から使った。

濡れ縁は板と竹を組み合わせたもので茶山の優れたデザイン感覚がうかがえる秀作である

     

高屋川の土手に上がると、廉塾の裏手から講堂の屋根が見える。

屋根の向こうには「黄葉夕陽村舎」の語源となった黄葉山である。

     

参考資料

菅茶山記念館HP

菅茶山顕彰会HP

広島県「ひろしま文化大百科」HP

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