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広島県福山市 吉備津神社

(Kibitsujinja Shrine, Fukuyama City, Hiroshima Pref.)

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福山市新市町宮内400 吉備津神社本殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 慶安元(1648) 桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付、檜皮葺 19650529


July 21,2014 瀧山幸伸 source movie

A camera

B camera


June 2012 野崎順次 source movie

広島県福山市新市町宮内400

撮影日: 2012年6月9日

主祭神 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)

相殿神 大日本根子彦太瓊命(おおやまとねこひこふとにのみこと)

 細比売命(くわしひめのみこと)

 稚武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)

備後国一宮で、旧社格は国幣小社。通称、一宮(いっきゅう)さん。吉備分国に関連し、備中国一宮の吉備津神社より備前国の吉備津彦神社とともに分祀されたものである。

中世より備後国一宮として崇敬を集めた。広大な社領と多くの神人を有し、たびたび近隣の豪族と衝突していたため、1346年(貞和2年)には高師泰が備後国守護に神人の横暴を止めるよう命じている。戦国時代には毛利輝元より、江戸時代にはこの地を治めた福島氏、水野氏より社領の寄進があった。

国史跡 一宮(桜山慈俊挙兵伝説地)

桜山城を含む吉備津神社境内周辺は国の史跡に指定されている。城の遺構は桜山という独立丘陵全体に広がっている。周囲の谷部には館跡と思われる平坦地があり,土師質土器が散布している。元弘元年(1331)の元弘の変の際に,後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐の動きに呼応した備後の豪族宮氏の一族桜山四郎入道慈俊(これとし)は,一宮(吉備津神社)の背後の桜山城に拠った。しかし,乱の後は,慈俊は一族郎党とともに翌2年(1332),吉備津神社に放火し自殺したと伝えられる。

パンフレットと現地説明板

市重文 大鳥居 江戸 慶安元年(1648)

この鳥居は、吉備津神社の参道入口に建てられた花崗岩製の明神鳥居です。高さは中央部で5.83m、両隅で6.25m、笠木幅7.55m、柱の直径54cm、柱下の間は4mの広さがある。柱の根元に亀腹を持たない形態のもので、右左の柱には慶安元年の銘文があり、銅製額には「吉備津一宮」と表示されている。

市重文 下隋神門

この建物は、吉備津神社の中心的社殿群の一つで、上隨神門の下方に離れて建つ大型の八脚門です。桁行中央間が特に大きい点に特色があります。柱を角柱とする点はやや簡略ですが、平三斗の組物を用い、軒を二軒とするなど、本格的な細部を持ち、上随神門より格式が高く造られている。懸魚が後に取り替えられていることを除けば、蔀に至るまでほぼ完全な状態で残存している。随神門を上下二棟設けるのは全国的にも珍しく、吉備津神社の特色である。

天然記念物 御神木 公孫樹(日本老樹名木第415号)、樹高約20m、幹周6m。

上隋神門。ここらを撮影中に禰宜の方から声をかけて頂いていろいろ教えてもらった。石段の横の巨木はひのきで、反対側に相対してもう1本あったが枯れてしまった。昔はその間をムササビが飛んでいた。今の季節はアオバズク(小型のフクロウ)が渡ってきて、午後8時くらいになると高い木の上で活動をはじめ、ホッ−ホッ−と鳴く。近くにマムシ谷という地名があるほどだから、マムシが生息しているはずであるが、不思議と神域にはいない。上隋神門に置かれている枯れ木は、初代の御神木公孫樹の幹の一部で乳房状の気根(柱瘤)が豊かである。

県重文 神楽殿 江戸 寛文13年(1673)

桁行二間,梁間一間,屋根入母屋造,妻入銅板葺

いわゆる舞殿形式である。舞殿は高床の舞楽舞台に入母屋造妻入の屋根を架けた吹抜けの形式であるが,神社では神事用として最初に成立した固有の祭祀専用社殿である。京都を中心とした大社に造営され,近畿一円に普及するが,広島県内ではその例が少ない。当社の神楽殿(舞殿)は簡素であるが建築的にも優れていて気品を備え,建築年代も明らかであり,保存状態もよく地方の舞殿としては貴重である。

市重文 拝殿 江戸 慶安元年(1648)

本殿や神楽殿とともに慶安元年に造替されたもので、意匠は神楽殿より簡略に造られており、装飾は全く施されていない。棟通りの柱3本は、永和二年(1376)再建本殿の角柱(大面取)を二本ずつ継いで転用したもので、吉備津神社本殿の永和再建を実証するものとして注目される。側面の腰貫とその下の縦板壁は材が新しく、当初は柱間を開放していたと考えられている。昭和36年の修理(棟札あり)により、妻面の束や貫、垂木、床板などがとり替えられている。

国重文 本殿 江戸初期 慶安元年(1648)

桁行七間,梁間四間,入母屋造,向拝付,檜皮葺

比較的大きいことと備後・安芸地方によくある「余間造り」の平面を持つことを地方的特色としている。正面に千鳥破風・軒唐破風を持った堂々とした江戸時代初期の建築でありながら,室町の風格と桃山彫刻を具備した優秀な蟇股(かえるまた)を備えている。勾欄の擬宝珠の刻銘及び文書により慶安元年建立が分かるなど,時代考証の尺度としても価値がある。また、本殿前の一対の六角燈籠(市重文)は福山藩主の水野勝成が本殿の再興を記念して安置したものである。竿部に銘文が陰刻してあり、慶安二年(1649)の紀年銘がある。

東に向いた本殿の南側奥に進むと裏山遺跡の説明がある。

本殿の北側に回り、側面(東面)と背面(西面)を見る。

本殿北側の境内社。十麻里二柱神社、疱瘡神社、武内神社、厩戸皇子神社、吉備津天満宮、

祖神社、彰徳宮、白髪神社。

本殿の南側の境内社。乳房神社、真名井神社、山雷神社、多理比理神社、吉備津稲荷神社、十二神社。

少し下って、秋葉・四所神社、神馬、大山祇神社。

櫻山神社

御池と厳島神社。昔はここでみそぎをしてから吉備津神社にお詣りした。

参考資料

吉備津神社パンフレット・現地説明板

広島県の文化財HP

福山市の文化財HP

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