広島県広島市 縮景園
Shukukeien,Hiroshima City,Hiroshima
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September 22, 2018 野崎順次 source movie
広島市中区上幟町2-11
縮景園 (Shukkeien Garden)
縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が、元和(げんな)6年(1620)から別邸の庭園として築成されたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇である。
園の名称は、幾多の景勝を聚め縮めて表現したことによるが、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられている。 園の中央に濯纓池(たくえいち)を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)などが巧妙に配置され、それをつなぐ園路によって回遊できるようになっている。
この種の庭園は、回遊式庭園と称され、室町時代にその萌芽(ほうが)がみられ、江戸時代初期に最盛期を迎えた形式で諸大名の大庭園の多くはこれに属する。
池の中央にかけられた跨虹橋(ここうきょう)は、七代藩主重晟(しげあきら)が京都の名工に二度も築きなおさせたものといわれ、東京小石川後楽園の円月橋や京都修学院離宮の 千歳橋にも似た大胆奇抜な手法が駆使されている。
清風館は庭園のほぼ中央にあり、庭園にふさわしい数寄屋造りで、屋根はこけら葺きである。西側は優雅な書院造りの様式をそなえており、東側には花頭窓を設け跨虹橋を臨んでいる。
昭和15年(1940)浅野家から広島県に寄付され、同年7月12日国の名勝に指定された。 昭和20年(1945)原爆によって壊滅状態になったが、県教育委員会は、戦災前の景観に復すべく整備をすすめ、清風館、明月亭などの亭館も復元した。
(縮景園公式ウェブサイトより)
本園は全面積が約一万三千二百坪もある大池庭であるが、池庭だけで全園の半分に近い面積をもっている。中央に跨虹橋という中国的文人趣味の眼鏡橋が架けられいて、池庭が東西に二分された形となっている。西池には、水心島、蘭舟島、蒼雪島、滴翆島、緑頗島、積翆島、超然居の七島があって、一種の多島式となっている。そして東の池庭には清蓮島、小蓬莱、緑亀島,烟霞島、その他楊柳橋の架かる一島、映波橋と昇仙橋と望春橋の架かる二島があって、これまた七島がある。
しかし本園のような大庭園となると、長い年月の保存はなかなか困難であり、そしてまた時によって藩主の趣味によって増築や改造がありがちである。本園も浅野家九代の重晟の時、すなわち寛政十一年(1795)から、文化十年(1813)の十四五年間において、清水七郎右衛門が修理したことを「銘細記」に述べている。それによると、積翆厳の中島石組などは、清水七郎右衛門の修理である。実はこの中島だけでなく、清水氏の修理と思われる部分が至るところにあるが、やはり寛政から文化にかけての時代だけに、その石組は弱く、宗箇時代のものと比較にならない。本園は近年の戦災で大変な荒廃を示したが、近年徐々に修理され、茶亭清風館その他も新造されて旧来の景観に復したことは何よりである。池庭と中島そして北部の築山の景観、そして老樹も残り、大庭園の偉容を誇っている。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」縮景園より)
パンフレットと現地説明板
入口から牡丹園・清風池
東の池を巡る。北へ。
有年場、大銀杏、看花榻、迎暉峰
悠々亭とそこからの眺望
濯纓池を東西に分かつ跨虹橋とそこからの展望
西の池の築山へ、祺福山、原爆慰霊碑、名月亭
少し下って、白龍泉から池畔へ
西の池の北岸を西へ
積翆巖
さらに
夕照庵から西の池西岸
最大の島、超然居と楊貴妃型石灯篭など
西の池
東の池の展望
清風館
Aug.2005 瀧山幸伸 source movie
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