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広島県三次市 寺町廃寺跡

Teramachi Haiji ato,Miyoshi city,Hiroshima

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Apr.2,2019 瀧山幸伸 source movie

三次市向江田町・和知町

史跡

寺町廃寺跡(てらまちはいじあと)とは、かつて備後国(広島県東部)の、三次市向江田町・和知町にあった7世紀末から9世紀(奈良時代前期-平安時代初期)にわたる寺院跡である。

概要

1979年(昭和54年)から1981年にかけて三次市教育委員会により発掘調査された、金堂・講堂・中門・回廊跡からなる、法起寺(ほっきじ)式の伽藍(がらん)配置の遺跡である。南門など外郭の遺構は発見されていない。 三次盆地東辺の丘にあり、台地の地形からみてほぼ一町四方の寺域が推定される。長さ約2メートルの花崗岩製の塔心礎石が残存している。中心部には、直径44センチメートル、深さ22センチメートルの柱穴の跡があり、柱の直径の約40倍を塔の高さだとすると、かつては18メートルあまりの塔があったと推定される。

出土品として、尖った水切りのある軒丸瓦(のきまるがわら)が主なもので、他にも晩唐三彩、緑釉(りょくゆう)などがある。和知町の窯跡で焼かれたものと推定される。廃寺跡・瓦窯跡ともに国の史跡にして指定されている。

三谷寺

『日本霊異記』上巻第七に「亀の命を購(あか)ひて放生し、現報を得て亀に助けられし縁」があ。

斉明天皇6年(660年)、朝鮮半島南部の百済と新羅の間で戦いがあり、備後国三谷郡郡司の先祖が、百済を救おうと遠征に出た。その際に災難を免れられたら、寺を建造すると誓願した。無事帰還できたので、つくられたのが「三谷寺」だという。

その際に、一緒にやってきた百済の禅師に、弘済(ぐさい)という僧侶がいた。彼は仏像を建立するために都へゆき、難波の津へ辿り着いた際に、四匹売られていた大亀を助けて放ち、あとで欲心を起こした船頭たちに舟が乗っ取られた際にその亀たちに助けられた、という説話がある。

その後、三谷寺は興法寺、あるいは金剛院と称して、この地方の豪族、江田氏の祈願所として栄えた。天文年間(1532年 - 1555年)に同氏が滅亡して、歴史の闇へと消えていった。 (wikipedia)

                          

 

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