広島県竹原市 竹原
Takehara Historic District, Takehara city,Hiroshima
広島県竹原市本町周辺
竹原の街並
撮影日: 2011年2月26日
竹原市重要伝統的建造物群保存地区
昭和57年12月16日に国の選定を受けた街並保存地区では、江戸時代から明治・大正・昭和とそれぞれの時代の建築物の歴史的変遷を見ることができる。
最古の建物は元禄3年(1690)年のもので、そのほかにも妻入り、平入り、長屋型、高塀をもつ屋敷型など多種多様な建造物が立ち並ぶ。
〈成立〉
江戸時代初期に竹原湾を干拓して築いた大新開に、1650年頃播州赤穂より移入した入り浜式塩田を開発したことにより始まった。
竹原の塩は全国へ送り出され、廻船業も盛んになり経済的発展をとげ、それに携わった人々によって街並が形成さた。
〈格子と通り〉
竹原の街並にある建造物には、様々な格子を見ることができる。一階部分には出格子があり、中二階には虫籠窓や武者窓と呼ばれる塗格子などがある。
ゆっくり歩きながら見て回ると、意匠を凝らした様々な格子に出会えるだろう。また、街並には本町通りを中心とし、大小路、板屋小路、中ノ小路など多くの路地があり、往時の生活を感じられる。
パンフレット
JR三原駅から呉線で竹原駅へ。駅から10分ほど歩く。
頼山陽銅像
カニを食べるカラス
日ノ丸写真館など木造3階建てを見ながら、竹原の古い街並に入る。
本町通り南端、突き当たりは笠井邸、その手前右、白壁の隣が掘友邸。地蔵堂・長生寺への路地に入る。
地蔵堂
慶長7年(1602)、下市村の大火により焼失したが、その後代官鈴木重仍により再建され、以後塩浜の守護として信仰された。
上市にある胡堂とともに、近世の町づくりの境界神としても貴重な遺構である。
長生寺
天正15年(1587)小早川軍に敗れて竹原にのがれていた伊予の河野通直が病没したのをいたみ、小早川隆景が建立し、寺領として二百石を寄進して開山。
正保元年(1644)には福山の僧快辺が再興して真言宗となった。
現在の本堂は昭和37年(1962)の建築で、境内には金毘羅社、大師堂、庚申堂がある。
また、高山彦九郎と活躍した尊王論者、唐崎常陸介の墓(県史跡)がある。
小笹屋 竹鶴酒造
江戸中期より塩造りをしていたが、享保18年(1733)酒株を得て酒造りも始めた。ニッカウヰスキーの創設者、竹鶴政孝の生家でもある。
小笹屋の前が財満邸、本町通りを北に進む。
市重文 松阪邸
この家は竹原の街並の中でも、独特の雰囲気をもっている。
入母屋造り、平入り、間口七間のつし二階の主屋の裏側に、平行にもう一棟、本瓦葺の建物とその二棟を直角の角屋でつないだ、表屋造りとなっている。
建築は江戸末期(1820頃)のものを明治12年(1879)に全面的な改造を行い、現在の形となった。
「てり・むくり」をもった波うつような独特の大屋根、その下のうぐいす色の漆喰、大壁造り、塗込めの窓額つき菱格子の出窓、ゆるやかにカーブした本瓦葺の下屋、彫をもった出格子、与力格子など、非常に華やかな建築意匠である。
座敷は全体が数寄屋風の意匠で統一されている。
初代は延宝2年(1674)広島から移住、沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋・石炭問屋を業とし、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行うかたわら、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、竹原町長などを務め、広範に文化活動を行った。
パンフレットと建物外部
建物内部
本町通りを北へ、板屋小路を覗いてみる。
西方寺・普明閣
もとは田中町に在る禅寺で地蔵堂の隣にあった。
現在地には、もと禅寺の妙法寺があり、慶長7年(1602)に火災で焼失し、翌年、妙法寺跡のこの地へ移り、浄土宗に改宗した。
境内には、本堂、鐘楼、庫裡、法界地蔵堂、山門などの建築が建ち並ぶ。
西方寺本堂横の高台に位置する普明閣は、宝暦8年(1758)の建築。
西方寺の地に妙法寺があった頃の本尊である木造十一面観音立像(県重文)を祀っている。
方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りとなっており、京都の清水寺を模して建立された。
建立年代としては新しいものだが、特異な屋根形式と優れた細部意匠を持つ。
再び、本町通りへ
初代郵便局跡
白壁の土蔵は内部が改造されてお好み焼屋「ほり川」
吉井邸、母屋は竹原最古の元禄三年(1690)建築。広島藩本陣として使われた。
さらに北へ
歴史民俗資料館(昭和4年築)を通過して、頼惟清旧宅へ向かう。
県史跡 頼惟清旧宅
日本外史の著者として知られる頼山陽の祖父、惟清が紺屋を営んでいた家である。
建物は間口4間、奥行7.5間の入母屋、塗込め造りの主屋と南側に直角に棟を出した離れ座敷がある。
建築は安永四年(1775)頃と考えられており、竹原の町家の代表的なものである。
この建物は、頼一門の発祥の地として、また江戸中期の遺構がよく残っている。
胡堂(恵比須社)
大林宣彦監督の映画 『時をかける少女』でもお馴染みのスポット。
寺山の麓、上市、中町、下市の一筋の通りの最も北に位置し、ここから直角に折れて、松原町になる。
胡堂の建築は、前室付、一間社流造りで、竹原の小祠中、最大の規模を持っており、最も古く、江戸時代中期のものと考えられる。
通りの突き当たりに位置し、街路の見通しを妨げ、その向こうに続く殺風景な田畑を見えなくすることによって、町の雰囲気を高め、まとまりのある空間をつくり出している。
酒造用井戸など
照蓮寺
もとは定林寺と称し曹洞宗の禅寺で、小早川氏代々の子弟が学んだ寺。
文禄の頃(1592〜1595)寺は荒廃してしたが、慶長8年(1603)僧浄喜が真宗に改宗、僧恵明(獅絃)、恵範(片雲)等のすぐれた学門僧が輩出した。
江戸中期から後期にかけて竹原の文化センター的役割を果たしており、当時の文化人の遺墨も数多く残っている。
本堂は元文2年(1737)の再建で、周囲に広縁を設け、広い畳敷の三つに区画した外陣、一段と高い内陣、粽付の丸柱と組のもの、金箔押しの透かし彫の欄間など、広島県の代表的な浄土真宗本堂といえる。
高麗銅鐘(国重文)のあることでも有名である。
経蔵は享保2年(1717)の建立で、方三間堂、宝形造、本瓦葺。鐘楼門は明和3年(1766)の建立。
庫裡、裏門、水屋が配置されている。また庫裡の裏には、県下でも指折りの名園「小祇園」がある。
宝寿酒造交流館
光本邸・今井政之氏陶芸の館
光本邸は、江戸時代に建てられた「復古館」の離れ座敷で、後年光本家が居住し、後に竹原市に寄贈された建物である。
光本邸内の土蔵を改装してつくられた「今井政之 陶芸の館」では、今井氏が幼い頃から親しんだ瀬戸内海の魚、草花や生き物など自然をモチーフにした作品約30点が展示されている。
現在、陶芸の館では「今井政之・眞正・今井裕之 父子3人展」として今井政之氏の陶芸、今井眞正(長男)氏の彫刻、今井裕之(次男)氏の鍛金・水晶の作品を展示している。
国重文 「復古館」頼家住宅
頼春風の養子である小園は、春風館の西側に隣接して、「兼屋」と称し、安政6年(1859)に三男の三郎を分家、独立させた。
これが復古館の主屋の建物で、春風館と同じく、茶人不二庵の設計によるものと伝えられる木造切妻造二階建、本瓦葺の数奇屋建築である。
国重文 「春風館」頼家住宅
春風館は頼山陽の叔父、頼春風の家。建物は天明元年建築のものが安政元年(1854)に焼失し、安政2年(1855)再建された。
長屋門と玄関構えをもつ武家屋敷風の外観を備えている。奥に祠堂として茶室を持ち数奇屋風の意匠に統一され、茶人不二庵の設計と伝えられている。
市重要文化財 森川邸
塩田経営を背景に作られた明治初期の質の高い住宅建築(大正5年(1916)頃移築)。
主屋の他に離れ座敷・茶室・土蔵など屋敷構がそのまま残っている。
茶室は小堀遠州流の茶人、不二庵(ふじあん)が設計されたものと言われる。
パンフレット、建物外部、庭園
茶室、離れ
建物内部、お雛様
駅へ向かう。中華そば屋さんの建物は昭和初期で、外壁は洗い出し仕上げ。塩田の守護神だった出雲神社。
JR呉線で三原へ帰る。島の間にしまなみ海道の吊り橋が見えた。
参考資料
竹原市HP
浪漫てくてく「たけはら」パンフレット
など
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