広島県竹原市 竹原
Takehara Historic District, Takehara city,Hiroshima
Jul.26,2014 中山辰夫
竹原は広島県中央南部に位置し、瀬戸内海に面した町である。“安芸の小京都”と称される古い家並みが魅力である。
江戸時代後期に製塩・酒造業で栄えた歴史をもち、現在も往時の屋敷や由緒あるお寺のある町並みがそのまま保存されている。
■■歴史
中世の竹原は京都賀茂神社の荘園であった.賀茂川の名もこれに由来する。竹原はこの賀茂荘の外港として物産の交易にあたった。
室町時代の竹原は、小早川氏の勢力下にあり、港も大いに発展したが、賀茂川の土砂の堆積から、船の運航に不便をきたし次第に港は下流に移っていった。
1638(寛永15)年の地詰帳によると屋敷地は寺山の西麓を南北に通ずる上市・中町・下市とそれに通じる小路の両側に集中し、商人や職人が居住し、商業都市として充実していた。
江戸時代になって、広島藩はここに代官をおいて、1646(正保3)年頃から賀茂川の堆積でつくられた浅海の干拓を行った。目的は水田の開発であったが残塩が多く耕作には適さなかった。
代官鈴木重仍は赤穂から二人の製塩技術者を招き、ここに広大な入浜塩田が誕生した。
古い町並みの向こうに広がる市街地は、この頃見渡す限りの塩田であった。ここの塩製造量は備後一の産高を示し、塩の産地としての地位を確保した。
出荷先は全国にまたがり「竹原の塩」として珍重された。
製塩業が竹原の主要産業となりまちの発展の基礎を築いた。塩で稼いだ財は冬の兼業として醸造業、さらに廻船業への多角経営につながった。
1720(享保5)年頃、竹原の製塩業は最盛期を迎えた。江戸時代に始まった酒造業は今に引継がれている。
塩の輸送船で移動する商人は、中央の文化を運び込んだ。塩田で財を成した商人が文化の担い手になって、町人出身の儒学者を多数輩出した。
頼山陽に代表される頼一門が築き上げた儒学文化である。この時代からの学問や文化を尊ぶという気風は今も竹原の町並みや人々の心に生き続けている。
明治に入ると、近代化の波に押され広大な塩田が次々に潰され、新しい市街地がつくられ、今のように町の中心が南へ移動した。
その後、製塩業は衰退し、昭和35年を最後に廃業となった。山手には製塩業が築き上げた江戸時代のままの家並みが残る。
■■町並み
竹原の古い町並みは、往時の経済力をバックに今に残るような町並みが形成された。
古い町並みの向こうが、かっては海だったが、干拓され塩田になり、今は市街地となった竹原の街である。
伝統的街区には、江戸後期の町並みがほぼ全域に残っており、様々な形式の建造物が見られる。
■伝統的建造物群保存地区
約5ha(本町一丁目、三丁目、四丁目の一部)の地域が伝統的建造物保存地区に選定されており、指定範囲には、建造物96件、工作物38件を含む。
わが国唯一の「製塩の町」としての指定である。
■■町中散策
■略図
■■本川界隈
塩と酒は本川の雁木に運ばれ、船積されて大坂へ向かった。そして船の往来と共に商人は上方文化という荷を運び込んだ。
その頃の雁木が残っている。
■住吉神社と常夜燈
本川に架かる住吉橋河岸には1825(文政8)年作の常夜燈が立ち、近くには住吉神社が祀られている。住吉神社は海運、商業、製塩業を営む人々に信仰されてきた。境内に見られる1825(文政8)銘のある鳥居、狛犬、手水舎は豪商の寄進である。神社の創建も同じ頃と思われる。
毎年7月末日頃に、江戸時代から続く櫂伝馬・みこし渡御等の伝統的な行事が執り行われる。「竹原住吉まつり」
日の丸写真館
■竹原市中央三条3−10−9
国登録有形文化財
1932(昭和7)年頃の建築で,築後80年以上が経過するなかで,個性的な外観や窓等の開口部分の配置は建築当初のままで、昭和初期の建築技術の高さを示している。また、その建物が幕末期に日本にもたらされた写真という新しい産業を営んだ場であること,さらにはその佇まいが,「国土の歴史的景観に寄与している」と高く評価され、国登録有形文化財に指定された。
また近年では、アニメ『たまゆら』にもたびたび登場する。
■頼山陽銅像
本川新港橋たもとの一角を頼山陽広場と称し、頼山陽銅像はじめ案内板が立っている。竹原の町並み保存地区の入口にあたる。
■礒宮八幡宮(いそのみや) 忠孝岩
竹原市田の浦1—6−12
1194(建久5)年に鎌倉御家人・後藤実元が豊前国宇佐宮から勧進し、後藤正信が1658(万治元)年現在地に遷宮した。正信は長男の唐崎定信を礒宮八幡神社に仕付け、代々唐崎家が神主となった。唐崎家代々は山崎闇斎に師事し、垂加神道を信仰し、竹原の町人学者もその影響を大いに受けた。
昭和42年の台風で、社殿は悉く倒壊したが、昭和54年再建された。
■忠孝岩
広島県史跡
礒宮八幡宮の境内にある千引き岩に、宗の文天祥が書いた高名な忠孝の書を、江戸時代の神主・唐崎常陸介が刻んだもの。尊王思想を明記したものとされる。
■長生寺
竹原市本町1−16−22 宗派:真言宗
伊予の河野通直が病没したのをいたみ、小早川隆景が建立。寺領二百石を寄進して開山。1644(正保元)年には福山の僧快辺が再興して真言宗となった。
現在の本堂は1962(昭和37)年の建築で、境内には金毘羅社、大師堂、庚申堂がある。高台に建つ。
■唐崎常陸介墓
広島県史跡 墓地は社屋よりさらに高台に建つ。墓地と遠景
いよいよ町中に入る。
町並みを歩くと、江戸時代に建てられた本瓦葺の屋根、中二階で漆喰塗り込めの虫籠窓、又は出格子を漆喰で塗り込めたもの、千本格子、荒格子、時には珍しく力強い与力格子の商家など、特徴のある豪商の邸宅、商家が軒を連ねる。
■地蔵堂
1602(慶長7)年焼失したが、その後代官鈴木重仍により再建され、以後塩浜の守護として信仰されてきた。現在の建物は昭和2年の建築である。
上市にある胡堂とともに、近世の町づくりの境界神としても貴重な遺構とされる。
境内には、竹原の発展に貢献した鈴木重仍、田窪藤平、小山季興の石碑が建つ。鈴木は広島藩士,安芸竹原塩田(竹原市)開発の功労者
■■通り
色々な通りがあり、それぞれ性格も違い、異なった街路空間を形成している。
■本町通り
製塩業を兼ねる商人の堂々とした家が並ぶ。建物の造りには統一性がなく、屋根にしても入母屋あり切妻あり、その複合ありと意匠は様々である。
町の中心で、寺山に沿ってゆるく曲がっている。通りの北端は恵美須社、南端は町屋(笠井邸)に当たって直角に曲がり、全体の見通しを妨げている。
見通しを避けるのは近世初期の主要道路の技法であった。本通りの両側に並ぶ家は、多棟連結型の大きな町家が多い。
■板屋小路
本町から新町に抜ける通りである。製塩の盛んな時は盛り場的雰囲気を持った華やかな通りであった。ゆるく湾曲した道路の両側に、しっくいで塗り籠めた中二階平入りの町家が競い合うように並び、大小路とは違った横丁の空間構成を示している。楠神社に至る小路である、
■大小路
春風館の前の通りは、春風館の向かい側が蔵を転用した住居である。江戸時代の横丁は狭い。春風館の高い塀や、長屋門の格子、蔵の漆喰壁が往時の雰囲気を今に伝える。
■その他、阿波屋小路・中の小路・他がある
■■町家立面図
■主要住宅細部
■旧笠井家住宅
竹原市本町1−9−11
浜主の家として1872(明治5)年に建設された。
現在はNPO法人ネットワーク竹原で、まちなみ再生特区一環として管理し、展示会・会議・箏、三味線の稽古・絵本の会などで公開している。
本町通りの南端に建っており、旧笠井邸に突き当たって直角に曲がり、全体の見通しを避けている。
右は地蔵堂、左は増森家住宅
二階から見る本町通り
建物は間口7間の右側、4間が平入り、右側より左側3間に、平入りの屋根の半ばから妻入りの屋根が抜き出た複型。本瓦葺の大屋根、袖壁を設けた建物。
庭園には、池の周囲に「春日灯籠」、「織部灯籠」庭の向こうには塩田から移築した建物がある。
邸内で見かける意匠には驚きで、見応えのある細工物が並んでいた。とても全部を紹介できない程あった。
周辺の住居
写真堀切家住宅(1910・明治43年)と某住宅
■竹鶴家住宅(小笹屋)
竹原市本町3−10−29
現在の竹原市内では、竹鶴酒造は1733(享保18)年の創業、1863(文久3)年創業の藤井酒造と1871(明治4)年創業の中尾醸造の3蔵が伝統の技術を守り室の高い酒造理を続けている。
竹鶴家は、古くから酒造業を営み「小笹屋」が屋号である。酒造業のほか、製塩業も営んでいた。
平面図と立体図と案内
正面本通り側に、18世紀から明治にかけて建てられ主屋を4棟並べ、敷地後方に酒造用の土蔵3棟がコの字形に取り巻いて土蔵の一つに壁体に断熱材(おがくず)を入れた酒蔵がある。昭和の初め防腐剤の使用を嫌ったための設備で、「絶対防腐剤入らず」と記載している。
歴史と風格が感じられる主屋廻りである。
「日本のウイスキーの父」と言われたニッカウヰスキーの創始者竹鶴政孝氏の生家としても有名である。政孝氏はウイスキー製造においても酒造りに勘のある者が欠かせないと、醸造を行う冬季には、広島から杜氏を呼び寄せたという逸話が残る。
江戸時代から残る蔵を改築した小笹屋酒の資料館には、代々伝わる酒器や酒造りの道具など約50点を展示。仕込みに使った直径2mの桶のふたをテーブルとして置き、伝統の銘酒の試飲も楽しめる。
右隣は磯部家住宅である。
■松阪家住宅
竹原市本町3−9−22
竹原市文化財
立面図と平面図
竹原の町並みの中でも独特の意匠をもった建造物で唐破風の屋根、「てり・むくり」を施した波打つような大屋根。
塗りこめの窓額つき菱格子の出窓、カーブした庇、彫刻を配した出格子、ウグイス色の漆喰壁、座敷は数奇屋風で統一。
建築は江戸末期(1820年)頃のもので。1879(明治12)年に現在の形に改造された。
初代は延宝2年(1674)広島から移住、沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋・石炭問屋を業としていた。
塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営で、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、そして竹原町長もつとめたという名家。
書画にも通じ文化への造詣も深かったとされる。
敷地内には頼山陽遺愛の台柿が植えられていた。「台柿」とは・・・一見すると富有柿に似ているが渋柿で、ヘタの周りが円座のように盛り上がっていることからその名前が付けられた。
格子をはじめとした意匠豊かな細工ものが多く見られた。これらを見るだけでも満足であった。
松阪邸の左側は、妙見邸、道路を挟んで財満邸・竹鶴邸(別宅)・松阪邸と並ぶ。江戸、明治、大正、昭和の建物が違和感なく並んでいる光景が素晴らしい。
岩本家住宅
松阪邸の右隣である。松阪家の離れ座敷として江戸時代に建設され、火災に遭って明治時代に再建された。
間口5間、奥行1間半の平入の棟の後にT字型に間口4間、奥行10間の棟が続く。角屋の2階には方形、扇垂木の高楼の屋根の中心に銅板の飾りが付木、表側の意匠も細い塗籠丸格子をもつ円形の窓が二つ、北側には波に千鳥の腰板を配した出格子がある。
■吉井家住宅
竹原市本町
屋号を「米屋」といい、代々続いた豪商の家。高原で、現存する最古の商家であり、母屋は1690(元禄3)年の建築。多くの貴重な古文書を収蔵している。
吉井家は、塩田開発当初からの塩田経営者で、酒造業、廻船業など幅広く事業を展開してきた。1691(元禄4)年建築の主屋の南側に、1835(天保6)年頃に新座敷(現堀川家住宅主屋)を増築した。この吉井家住宅には広島藩主の竹原来訪時の本陣にあてられていた。
平面図と立体図
本陣門とお成門は不二庵設計による数奇屋造りである。
元吉井家の酒造蔵・1859(安政6年建築)
吉井家では昭和初期まで酒造業を営んでいた。
この土蔵は、現在堀井家所有の土蔵となっている。酒造蔵から醤油蔵として使われ、現在は食堂として使われている。
■上吉井家住宅
本町
■町並み保存センターと歴史民俗資料館
竹原市本町3−11−7
保存地区のほぼ中央に位置する。近い距離にある。竹原の町並み、文化、歴史、民俗、塩業、産業などの資料を収蔵している。資料館はかつて図書館だった。
竹原の“市木”は竹。竹細工が盛んで工房もある。東京スカイツリーが展示してあった。縮尺百分の一 高さ6.34m
■修景広場とお抱え地蔵
史料館の裏に修景広場があり、その近くに宝篋印塔が立つ。地蔵は願い事を唱えながら地蔵を抱え、想像したより軽く感じたら願い事が叶うといわれる。
■宝篋印塔
■頼惟清旧宅
竹原市本町北1−38−10
広島県史跡
上市胡堂の前に位置する。この家は頼山陽の叔父・惟清の旧宅で、惟清は1707(宝栄)年の生まれで、紺屋を営んでいた。
主屋は1775(安永4)年頃の建築。頼一門の発祥の地であり、江戸中期の建物で貴重な遺構とされる。紺屋用、家事用、書道用の3つの井戸がある。
平面図と立体図・説明
母家
重層屋根、入母屋造、本瓦葺である。塗籠造りである。格子が多く使われている。
離れ座敷は単層屋根、切妻造、本瓦葺で塗籠造りである。
■胡堂(恵美須社)
本町三丁目
大林宣彦監督の「時をかける少女」でおなじみ。
本町通りの最も北に位置し、ここから直角に折れて、松原町になる。地形から見るとこの通りは、古くは寺山と川にはさまれ、しかも上・下でしばられている。
このしばられた部分の南北に、胡堂と塩浜の守護として信仰されていた地蔵堂がある。
胡堂の建築は、前室付、一間社流造りで、竹原の小祠中、最大の規模を持っており、最も古く、江戸時代中期のものとされる。定かではないが商業の神としてかなり早くから存在していたとされる。江戸時代中頃になると、三の日の三日市では、塩田用の縄、かますなどを売る人でにぎわった。
上市の商業の守護神であり、地蔵堂と共に一種の境界神(テルミヌス神)と考えられたとされる。
通りの突き当たりに位置し、街路の見通しを妨げ、その向こうに続く殺風景な田畑を見えなくすることによって、町の雰囲気を高め、まとまりのある空間をつくり出している。
■春風館・復古館
竹原市本町3−7−24
竹原市指定文化財
春風館・復古館は頼山陽の叔父、頼春風の家である。春風はこの家で医者を開業し、町の子弟を教育し、塩田経営も行った。甥の山陽のよき理解者であった。
■春風館・復古館立体図
■春風館
平面図・立体図・説明
大小路に位置する。
春風館
屋敷は、長屋門と玄関構えをもつ武家屋敷風の数奇屋風建築である。1855(安政5)年の建築で、祠堂と茶室を持った不二庵の設計である。
復古館
復古館は分家で、店棟、母屋、茶室(祠堂)とそれに囲まれた庭を持ち、1859(安政9)年の数奇屋風建築、製塩業と酒造業を営む豪商の家。
頼春風の養子小円の三男確は、安政3年(1856)に分家し、屋号を「兼屋」と称して酒造業、製塩業、木綿仲買等を営んだ。通りに面して表屋を配し、その奥に建つ主屋を玄関で繋いだ。いわゆる表屋造で、武家屋敷風の構えを持つ春風館とは異なっている。
表が数奇屋風の意匠や、裏と表の両方に庭園があるのは共通している。
■亀田家住宅
竹原市本町三丁目
格子が美しいと評判である。
平面図と立面図及び説明
主屋は切妻造、平入の二階建、安政3(1856)年の建築である。設計は茶人の不二庵で数奇屋風の建築である。
一階の格子は出格子、平格子ともに繊細な千本格子で、その格子の前には同じ意匠の犬矢来がある。
二階の窓は大胆な与力格子で構成されている。格調高い雰囲気が感じられる。
■光本家住宅 「今井敬之助陶芸の館」
竹原出身の陶芸家、今井政之、身正、裕之三人の作品を土蔵を改造した「陶芸の館」で展示している。復古調の離れ座敷。
■宝寿酒蔵交流館「藤井酒蔵」
文久3年(1863)創業である。
江戸末期に建てられた酒蔵の一角を改造して解放している。
明治40年(1907)に開催された第一回全国清酒品評会で、藤居善七の出品した「龍勢」が全出品数2,138点中で最優秀賞第一位(日本一)を受賞した。
これにより竹原は銘醸地として全国に知られるようになった。それから100年後、イギリスで開かれた「インターナショナル・ワイン・チャレンジ2007」の日本酒部門でグランプリを受賞して酒の品質向上に努めている。
楠通りの東側に位置し、楠通利に主屋、主屋後方に角屋(座敷)を延ばし、更に後方に離れを建てている。酒酒蔵は主屋の当方に並ぶ。主屋は明治後期の建築で、間口6間、2階建、切妻造、平入の町家で、1階正面に尾垂れがつき、上屋の屋根は少し「むくり」がつけてある。
■森川邸
竹原市中央三丁目16−33
竹原市指定文化財
元竹原町々長森川八郎宅。
竹原塩田の1番浜跡地に建てられた豪邸が元竹原町長森川八郎宅である。
大正初期に造成した敷地に石垣及び土塀をめぐらし、主屋・風呂場・及び便所、離れ座敷、茶室、隠居部屋、土蔵、表門、脇門の8棟の建物を配している。
主屋は江戸末期から明治初期の町家を移築改築したもので、玄関、座敷、および台所を同時に増築したもの。
茶室は江戸末期から明治にかけて竹原で活躍した不二庵の作で、当初は竹原地蔵町野島家に建てられたが、大正頃に森川家に移築された。
庭園が座敷に面して設けられている。
表門
森川邸は、大正期の豪邸の典型例であって、質の高い和風住宅である。特に、座敷、離れ、表門に使用されている材木は吟味されたものであり、意匠的にも優れ大工技術も高いものである。
また、この住宅で特に評価されるのは、後世の改造が少なく、大正期の姿を善く保っていること、母屋や離れ座敷だけでなく、ふろ場や便所などの付属屋までがそのまま残っていることである。
説明と配置図
主屋・大広間・他
離れ座敷
■昭蓮寺
竹原市本町3−13−1
昭蓮寺は、元定林寺と称した曹洞宗の禅寺で小早川氏代々の子弟が学んだ。名園「小祇園」がある。
小早川隆景
1544(天文13)年、安芸国吉田の毛利元就は13歳の第三子徳寿丸を、安芸竹原小早川家の継嗣とし竹原庄の木村城に入らせた。徳寿丸はのちに名を隆景(たかかげ)と改め、1550(天文19)年には本家筋に当る隣接沼田小早川家に迎えられ、沼田と竹原両家をあわせ継ぐこととなった。小早川隆景成人してからは、知略・武勇を兼ね備えた武将として活躍し、早くから瀬戸内海の戦略的重要性を睨み、1567(永禄10)年国内では珍しい、海に突き出た三原城を築いた。
織田信長の石山合戦の終るまえ1577(天正5)年頃からは、瀬戸内海の制海権すべてを毛利一族が掌握し、内海海賊衆の雄、備後国因島村上・伊予国能島(のしま)村上ら水軍を勢力下に収めた。
豊臣秀吉の天下統一後は徳川家康・前田利家・宇喜田秀家・毛利輝元と並んだ豊臣政権五大老の一人となる。
1597(慶長2)年六月、備後三原で隆景没するの報に接した秀吉は、「この人、唯毛利家の蓋(がい)なるに止まらず日本の蓋にも余りある方なり」と涙を浮かべながら感にふけったという。
山門
1618(元和4)建立
本堂
1737(元文2)年再建。四方を広縁が囲み、広間を外陣・一段高い内陣・後陣と三つに区分する。
鐘撞楼
1766(明和3)年建立 韓国の鐘 国重要文化財
名園「小祇園」
本堂と庫裡と裏山に囲まれた内庭を小祇園(しょうぎえん)と呼ぶ。九代住職獅絃は庫裏の東南偶端に一部屋を建て澹寧居と云いさらに庭園を眺めるように離れ座敷も建て看心亭と名付ける。亭は何れも自らの隠居所として詩作などに耽ったところ。
竹原を訪れた多くの文人は屡々此処に集まり、詩・書・酒を交歓し小祇園・澹寧居・看心亭を詠い込んだ沢山の詩を残す。
酒造用井戸
照蓮参道石段横にある。
明治26年(1893)高原を訪れた京都の酒蔵家・大八木正太郎が酒造りに水質の重要性を説き、竹原の酒蔵家が賞用していたこの井戸の水を分析して軟水と分かり、酒造に適することが証明された。
■西芳寺(普明閣)
竹原市本町3−10−44
西芳寺は、もとは田中町に在る禅寺で地蔵堂の隣にあった。1603(慶長8)年妙法寺跡のこの地へ移り、浄土宗に改宗した。
境内には、本堂、鐘楼、庫裡、法界地蔵堂、山門などの建築が建ち並ぶ。境内前面には、一見城郭を思わせるような壮大な石垣があり、錚々たる寺観を呈している。
入母屋造、一重、平入、本瓦葺、前面と側面前方を吹抜とし、側柱には太い敷桁を載せるだけの簡単な構造をしており、江戸中期のこの地方の仏堂の典型的形式をもつ貴重な建築で、須弥檀は禅宗様式となっている。
普明閣
竹原市指定文化財
西方寺本堂横の高台に建つ観音堂で、1758(宝暦8)年の建築。小早川隆景が建立した。
西方寺の地に妙法寺があった頃の本尊である、木造十一面観音立像(県重要文化財)を祀っている。
方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りとなっており、京都の清水寺を模して建立された。
建立年代としては新しいものであるが、特異な屋根形式と優れた細部意匠を持つ。
市内遠景
町のどこからでも望むことができ、竹原市の景観の中心となる重要な建築。
普明閣にのぼれば、竹原の町を一望することができる。
■竹原格子・意匠
竹原の家並みには、棒瓦と格子窓等の家廻り、さらに家中にも工夫を凝らした意匠に出合える。
一軒一軒こしらえが異なっている。二階の虫籠窓や武者窓。一階の平格子、出格子。蔵や門の窓の格子など様々である。
目に触れたものを羅列する。
竹原関係参考資料≪竹原市史、竹原の町並み、竹原市発行資料、パンフレット、他≫
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